センチメンタルな夜の終わり

@alice8920

完結済み。

 薄い紫に影を滲ませたらこんな色になるだろう。

 僕は自分の住むアパートを眺めながら思った。

 ゆっくりと階段を上っていく。八畳のワンルーム、築五年、東京と言うより埼玉の仲間と呼ぶ方がふさわしい。寂れている街中にあるとはいえ家賃は七万を下回る。駅から徒歩五分でそうなのだから、安普請なのも当たり前だ。つまり簡単に言えば、乱暴に階段を上り下りすれば音がやたらと響くということだ。

 住宅街は静かだ。静かな町を自分の足音が邪魔をするのはなんだかいただけない。個人的に好ましくない。だからゆっくりと上る。なるべく音を立てないように、泥棒に入る様に、音を立てない。

 そういう性格が手伝ってか引っ越してから二年と半年、未だに大家さんから苦情の通達は来ない。半年前の更新も難なく済んだ。

 僕は廊下さえも静かにゆったりと歩き、三戸目のドアの前で立ち止まる。ポケットからむき出しの鍵を出して、これまた丁寧に差し込みドアを開けた。

 町は静まり返っている。

 都心に行くのに困らない立地のくせに静かなこの街を僕は気に入っていた。壁が薄くて、隣に住んでいる男性が流す目ざましの大音量だけは気に食わないけれど、僕だって無音で生きているわけじゃない。一人で帰るわけじゃない時は僕の家だって暢気な大学生男子のたまり場に変わり果てる。一応、騒がないようにはいるけれど、八畳の家に四人も五人も男が集まって酒を飲めばそれなりに喧しい。

 部屋の中は外と同じ気温だった。まだ暖房を容赦なく使える時期でもないし、そもそもそんなに金銭的余裕はないので上着を脱いで、シャツの上から部屋着にしているLサイズのパーカーを羽織った。

 アナログ時計が時を刻む音がする。十二の数字を通り過ぎて、時刻は午前二時。

 僕は玄関にほど近い台所まで戻って換気扇のスイッチを入れた。ジーンズのポケットから煙草を取り出して火を点ける。

 布団という化粧を施されていない炬燵テーブルから地鳴りに似た音が響いてきた。携帯電話のバイブレーションだ。

 迷って、僕は動かなかった。

 地鳴りは止まない。

 男では珍しいと言われ続けるメンソールの煙草が喉に沁みる。今日は歌いすぎた。ついでに、飲みすぎた。

 怒っているのかな。

 鳴りやまないバイブレーションが誰かからの電話を意味しているのは知っていたし、相手にも予測がついていた。

 溜め息ごと煙を換気扇に吐き出す。溜め息はあっさり換気扇の中に消えていく。

 僕は今日、恋人との約束を破ってサークルの飲み会に出かけて行った。当日になって突然、やっぱり参加すると言った僕を冷やかしたのは今日が何の日か知っている梨本だけで、同じく今日が何の日か知っている結城は眉根を寄せて心配してくれた。でも、うまく答えられなかった。

 バイブレーションが一瞬止んで、もう一度長いバイブレーションが始まる。僕は煙草を吸うのを止めない。ちなみに言うと、僕の部屋には台所にしか灰皿は置いていないし、それ以外の場所に置く気もない。ここを引っ越すときに壁紙代を請求されたくないだけだ。

 今日は彼女と付き合って三カ月の記念日だったらしい。らしい、というのは、僕の方は付き合い始めた日付なんていちいち覚えていなかったからだ。それにたかだか三カ月程度の事で記念日なんていう大げさな物だとも思っていない。

 彼女は短大で保育を学んでいる十九歳だ。僕より二つ年下、実家住まい、実家は僕の大学のある駅と同じ駅にある。僕がバイトをしているレンタルショップと同じ駅でもある。

 バイブレーションが止まった。次の攻撃が来るかと覚悟したけれど、次は来なかった。

 僕は煙草をもみ消して携帯電話に向かう。手にとって見てみれば当たり前に予想は的中していた。彼女、安西則子からだった。

 つまらないな、と僕は思った。

 実につまらないし、くだらない。

 大体、記念日が何だと言うのだろう。付き合った記念日という概念がいまいち理解できないし、それを大事にしようとする僕の恋人――則子の気持ちもわからなかった。

 これからどうしようか。

 途方にくれたふりをして、携帯を弄る。本当は途方にくれてなんかいない。ただ面倒だな、と思っているだけだ。

 明日プレゼントでも何か買って、ありもしない言い訳をして、彼女へ連絡でも入れようか。

 それも不毛だなと思ってしまった。それぐらい、今の僕にとって、則子は大事な存在ではないことが今日、たった今証明された。

 よし、別れよう。

 僕はそう決めると、先程は簡単に放置していた携帯電話を手に取り、則子に電話をかけた。

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