第三話 なんでもないその昼
色とりどりの町並みはセピア色に濡れていた。すでにすっかり晴れ上がっていたが、肌に吸い付くような湿気と風が運ぶ匂いが、早朝のにわか雨を語っている。真夏の強い日差しが乱反射していた。
「おはようニーデンヴァルク! 」
おはよう、おはようという声の焦点はわたしだ。とはいえ、わたしはおはようなどと朝の来訪を祝う気はさらさらないし、そもそもその声掛けが私に対する皮肉だということは最早判りきったことであった。
「そもそもどうしてきみはここにいるんだ」
わたしなどという人間の端くれに話しかけるようなものはリュードしかいない。彼は朝食の場から少しも変わらない奇妙な風体で、私の後ろをひょこひょことついてくる。もちろん往来には人通りがあるし、じろじろとこちらを――正確には私の後ろを――睨めつけるせいで、恥ずかしいことこの上ない。さらに異形のこの怪物がいかにも馴れ馴れしく話しかけてくるものだから、わたしまで人外の者のように思われているかもしれない。
「やれやれ、旧知の仲じゃないか。少しくらい、きみの職場を覗いてもかまわないだろう」
彼は飄々とした態度でそう述べた。
「まあ……天文学者なんてろくな人間がいないから、問題ないといえばそうなんだが……。
ただ、君のような枯葉色の爬虫類もどきが跋扈しているのはどうかと思うんだ……主にわたしの名声に関してね」
「おや」
彼は心底吃驚したようにのけぞった。「きみが他人からの評価を気にするなんて、明日はきっと大嵐だね。やめたまえやめたまえ。くだらない。どうせきみは天文台と自宅を往復し、たまに訪れる売り子に幾らかの銀貨を渡して粗末な食物を受け取るだけの人生なんだ」
「まあきみのような化け物には縁のないない話だからな。言ったところできみが塵ほども解しないことくらいは理解しているよ。」
「ああ、欲深い……きみのような『人間様』は理解できないね」
彼が私の言うことを聞こうとしないことは知っていたが、どうも彼とは反りが合わないことこの上ない。とはいえ、私は彼をひとりおきざりに立ち去るような『人間様』ではないし、彼を拳で吹き飛ばすような真似もしない。わたしと彼はあくまで家主と居候であり、良く形容したとして『腐れ縁』程度のものである。また、傍目から見ればただの無邪気な友人でもあるだろう。
天文台は森を抜けた先、小高い丘にあった。旧時代に設置された砲台を改造し、なんとか作業ができる程度の環境が出来上がっている。とはいえ、灰色に濁った石煉瓦の砲塔は、新時代の技術品を拒むかのように、あちこちの穴という穴から煙突やら銅線やらを吐き出している。
「やあこれはこれは。新時代のモニュメントかと思ってしまったよ」
リュードはふと鼻で嗤った。
「まったく、それだけはきみと同意見だね。ルネサンスの一角を垣間見たような気になるよ……まあ政府も金が潤沢というわけではないだろう。さきの戦争もようやく復員が終わったばかりだし……」
わたしは重い鉄扉を押し開けた。流れ出してくるひんやりとした風がわたしをより奥に引き寄せる。薄暗い螺旋階段がぎいぎい軋む。リュードは鼻をひくつかせてあとに続く。
「キタ」
「キタキタ」
「レプティリアン」
「ふむ」
彼は嘆息する。「さすがに旧時代の遺物には生き物がたくさんだな。……いや、この場合は憑き物と言うべきか」
梁の上、張り紙の裏、段の間の小さな暗がり――僅かな囁き、息遣い、揺らめき。人ならざる物の巣窟であった。
「ほお、きみが偏屈になるのもうなずけるね。いやぁ、古き良き時代の名残だ」
「なりたくてなっているんじゃないんだ、勘弁してくれ非人間」
見慣れた光景だ。私はくすんだ壁に手をついて、残りの段を駆け上がった。
*
あなたはどうしてそんなところにいるのですか。
きれいなきれいなお星様は、わたしなんて御手汚しですか。
あなたの光は届くのに、私の小さな小さな手はあなたに届きません。
私は祈ることしかできないのですか。
私はあなたになれませんから。
私は古い手記を捲った。かつては狂気的に求めたあの優しい光も、今見れば普遍的なものだった。落胆した、というわけではない。私が独占しようとしたものは、天球にいくつも、いつでも同じようにあった。その瞬きの中にあるのは儚さではなく、力強さであった。
そして、言い知れぬ喜びでもあった。
見上げる、見える。感じる。受け止めて、判る。
私の元に飛んでくる光の粒は、私など目にも留めず、それでいて私を目指していた。
また今日も太陽が沈み、夜がやってくる。
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