第二話 なんでもないその朝

 目を覚ましたとき、小さな板張りの小部屋にはすでに光が満ち溢れていた。朝を迎えること、日差しを受けること。新しい日が始まることほど、憂鬱なことはない。否応なく視界を焦げ付かせる光の交通に辟易する。


 世界は夜を中心に回っている──少なくともわたしはそう考えている。自らをさらけ出す明るい光はどうも人間に対してよろしくないような気さえもしてきていた。とはいえ、食卓にならぶ一株のブロッコリーが育つのも、庭先を濡らす水溜りが消えるのも、明るい昼の間であるから、わたしたちは否応なく外に出なければならない。仕事に出なければならない。ああ、とため息が出た。


 「おやおやニーデンヴァルク。景気の悪い振る舞いはやめてくれよ。不幸を押し付けないでくれ」

「ああまったくだ。おまえに話しかけられさえしなければ、今日も何とか平和に過ごそうと思えるのに、リュード」


 リュードの舌はいったい何枚あるのかと思う。実際彼は鰐の化け物のような醜い形相をしているし、真っ赤な舌が何枚も隙から熾火のように見え隠れしている。おまけにホテルの従業員のような袷の服はどこかひん曲がっているし、彼が愛用しているハットの頂点には薄く砂埃がかぶっている。


「久しぶりに家に帰ったというのに、結構なお言葉をどうもありがとう。

 しかしながらきみの昼嫌いはいつまでたっても変わらないね。人間はもっと適応能力がある動物じゃないのかい」

 彼は勝手に向かいに座ると、どこからか新聞を――気取った英字新聞を! ――を広げた。世間は殺人から詐欺まで、求人やら探し人やら相も変わらず混沌としている。


「きみ、仕事なんだっけ」

そう訊いてリュードは僕の手元からパンを一切れ奪った。

「天体観測……やれやれ、そうら、塩だ」

彼は満足げにうなずいてパンを調味し始める。木苺のジャム、新品のバター、それに塩瓶を一振り。質素なパンの断面に、小さな宇宙が描き出されたのである。


「デネブ、アルタイル……忘れた。

 ぼくは君と違って博識ではないんだ。夜空には明るい星が数個、脇役が数万個。それくらいの理解で十分だろう。……ほら、はやく受け取らないとお前の寝ぼけた顔に叩きつけるぞ」

「ベガだよ」

 わたしは彼の散らかした食塩の天の川をスプーンの背でかき混ぜてやった。


「まったく、そのとおりだよ。誰が楽しくて、やれフォーマルハウト、やれリゲル、やれスピカなんていう無駄な知識をつけたがるのだ。ただ頭上で能天気にピカピカに光っているだけじゃないか」

 自信作を片手間につぶされた彼は仏頂面になって、新聞で視線をさえぎった。

いい気になったわたしはパテの先で彼の爪甲をつついた。


「じゃあどうしてきみはそんなクソほどもつまらない仕事に就いたのだ」

「保護観察」

「保護観察だって。ピザ屋のゴミ箱漁りでもしたのかい」

「どうしてこのわたしが、どこかの英国紳士気取りのような真似事をしなければならないのだ。……わあ怒らないでくれ、言ったのは君じゃないか。

 まあこのご時勢だ。まともな職にありつけただけありがたいとは思うよ」


「ふうん。きみたち人間の世界はさっぱりだ。だが夜好きなきみにそんな仕事が当てられるなんて、まったく奇妙なものだな」

「ああ、おかげで昼間に空なんて見上げる羽目になったよ」

 わたしは朝食をすっかり食べ終わって、席を立とうとした。もうそろそろいい時間になっていた。


「ああ、そういえば知り合いに星好きな変わり者がいるよ。彼のいい加減な薀蓄を聞かされるのはもううんざりだ」

「ひとこと言ってやれと? 」

「ああ……いやすっかり罵倒してくれてかまわんよ」

彼もやっと新聞をたたむと、丁寧に椅子を片付けた。話は終わりのようだった。


わたしはいつものように黒かばんをつかむと、静かにドアを閉めた。

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