氷が溶けて 第4話

 以前は電気機関車が半数を占めていたジェスタの交通事情は、電力供給の不安定性から、予備車庫で放置されていた蒸気機関車が再出現していた。食糧不足の都会から地方穀倉地帯へと買い出しに向かう人々の群衆に紛れて、スクナー一家とミツマは席に座ることができた。

 細かい傷だらけのガラス越しに、凍土に建てられた小屋が風雨に揺れていた。弱々しく光が漏れて、あの屋根の下にも、不幸な家族が住んでいる。エミルは少し前までの同様の生活が変わっていった経緯を一つ一つ思い出して、その始まりに、パン屋の列に並ぶ自分を見つけたミツキがいる。そして彼は、スクナー家の変化と引き換えに不幸になろうとしていた。


 苦難と貧困を知ってから、エミルはどこの他人にも自分と重ねるようになった。なぜか自分にだけはオナサケを求めないトンネル下の物乞いや、石もて追われる解放捕虜の元王国軍人、迫りくる冬に着る物は元の軍服より他なく、しかし官品である防寒性の高さから、追い剥ぎに遭っては凍死体となる者もいた。また、名誉の戦死を遂げたという軍神革命軍将校の家族、夫戦死後の恩給未だ下らず、大量の子を抱えて骨と皮。何もかもが不幸な中、肉付きが良くなっていくことは、申し訳ないとは思わなくても、彼らを見ているとゾッとした心境で肉のスープを味わった。


 ミツキに生かされているとようやく脳天貫いたのは、駅のホームに捨てられた死児が、他のゴミと共に片付けられるのを目撃してから。ミツマは脅しじゃないと言ったものの、倒れたミツキを救うために結婚してという思いでいたのが、はっきり変わった。最期もう泣きもしなかったであろう、栄養失調の痩せ方でミイラのようにくすんだ赤子は、リノであったかもしれない。赤子の冥福を祈るよりも仄暗い感謝が湧き、涙を落としてリノに乳をやった。


「ミツキさん随分遠いとこから来てたんですね。もう暗くなってしまった」


 父親が日の入りに伴い点く車内灯を見上げた。ミツマは時計と切符を確かめて、到着時刻に近づくことを告げた。


「まあ半日といったとこですかね。まもなくです、病院までは社の車が来てますからそれで。数十分は面会できるでしょう」

「何から何まですみませんです」

「いいえ。エミルさんが決心してくれてよかった。これでシロタさんも無茶なことはしないでしょう」

「エミル、本当に決めてくれたんだろうね?」


 母親がエミルの肩に手を添えた。エミルは母親の方は見ず、リノの頬に触れて軽く頷いた。


「決めてある、結婚するよ」

「よかった、納得してくれて」

「あの人はあの人なりに、溝を埋めてくれたって、そう思うことにしたから」


 力強くは発せなかった。自身の決心の確かめはミツキの容態見ることで為されるのだろうし、また、単純に夫を案ずる妻らしい心配をして、嫌な緊張に溜息吐いた。

 次の駅が目的地だった。エミルは一つ持っていた、ミツキの贈り物に紛れていた口紅を繰り出し、薄くルージュを引いた。唇を結んで赤みを伸ばし、ガラスに顔を映す。唇だけの化粧で作る無理な笑顔は、その先に駅標識と重なった。


 車で20分程走ると病院に着いた。戦乱に巻き込まれなかった都市の綺麗なビルで、衛生マークが天頂に光りやけに赤々としている。まばらに出入りする人々はいずれも卑しからぬ装いで、おそらく大枚はたかなければ入院できない大病院なのだろう。ミツキの病室は上の階にある個室で、何年ぶりかにエレベーターに乗った。


「そこが病室だ。507って書いてある」

「うん」

「一人でいいな?俺たちはここで待ってる」

「リノは連れてくよ」


 二人を繋いだもの、腕の中の赤子は安心しきって寝ていて、温かに熱を帯びる額にキスをした。エミルは病室へ歩みを進めて、いささか厳しい顔を作り、リノを詰問するような声を低く出した。


「あなた、ほんとうにいいのね。あの人がお父さんで。あの人にも育ててもらうって」


 当然リノは何も答えない。健やかな寝息を立てて夢路に浮かび、そこでは最近認識したばかりの父に抱かれているのかもしれなかった。

 この寝顔のためにも、エミルは結婚するのだ。彼女は張り詰めた頬を解かして、力の抜ける笑顔で娘を撫でた。


「そうね。あなたも、良くしてもらったもんね」


 大して広くない個室の暖気が外に流れ、洗面台にある安物の歯ブラシは毛が広がっていた。入り口側にある棚の奥にベッドは置かれているようで、覗き込むようにして身を乗り出した。

 痩せこけたミツキは想像以上のやつれ方で、細い腕に伸びた爪、点滴の栄養剤が時折カテーテルを伝った。寝ている彼のベッド脇に座ると、眠りが浅かったのか目が覚めて、薄く目を開けると背を向けた。澱んだ瞳に息を呑む。そっぽを向いたミツキの、厚い毛布越しに肩を叩くと「あっち行け」とでも言うように手を振った。


「失礼ね!せっかく来たのに!」


 膨らむ頬に声を荒らげて、ミツキは驚いて身体を震わせた。おそるおそるエミルに上体を向けると、目の前にいるエミルとリノの顔を交互に見た。


「・・・夢だろ?」

「夢じゃないったら。ほっぺたつまんであげようか」

「いや別に。しかしなぜ」

「ミツマ兵長が私の家に来て事情を話してくれたの。倒れたって」

「あいつ、言うなって言ったのに」

「来てあげたけど嬉しい?」

「うるせえ。それより今回の物はもらったのか」

「なにその態度。ええちゃんともらいましたとも」

「ならよかった。で、なんで来た」

「あなたを救いに来たの。ミツキ」

「救いに?」


 エミルは、ふっと笑い抱くリノの寝息に耳をそばだてた。赤子の寝息、即ち平和、和解と幸福の象徴で、目を細めてミツキの手を握った。


「この子、あなたといる時が一番安心して寝てるかもね」

「そうか」

「結婚しましょう。ミツキはそれだけのことをしてくれたし、何より、私たちが付いてなきゃ、またこんなバカな真似するとも限らないからね。あなたは」


 エミルから出る初めてのプロポーズ、いきなりのことでミツキは認識できなかった。しばらく自らの手を握るエミルの、細い腕をじっと見つめて、紅潮する彼女の頬と責めるような目にようやく気づいた。間抜けに口と瞼を開き、素っ頓狂な声。


「あっ、結婚してくれるんか」

「そうよばか!なんなのその態度!」

「お、怒るな、急に言われたから」

「女に恥かかせないでよ!」

「それ別の時に言うセリフじゃないか」

「あんたそういうことばーっか考えて!」


 悔しいやら情けないやら、エミルの瞼から数滴の涙、燃える頬に落ちて蒸発するかのようで、ミツキの首を絞めて前後に揺さぶる。もちろん本当に殺す気は全くないけれど、とにかくこのニブチンを制裁せねば気が済まない。いつのまにか起きていたリノは、二人が遊んでいるかのように見えてキャッキャと笑った。


「や、やめろ!子どもが見てる!」

「それこそ違うときに言うセリフじゃないの!」

「合ってるさ!やめてくれ!悪かった、悪かったから!」


 間に合わせの謝罪にじっと睨みつけて、怯える色のミツキに今度はおかしくなって、吹き出した。怪訝な顔した彼の頬も次第に綻んできて、手を握り直して指を絡める。エミルは手の甲の温かさにドキリと、笑うのを止めて目を逸らしてしまった。


「こっち見なよ、ちょっと」

「き、急に恥ずかしくなった」

「かわいいな、さっきは何気ないように、大胆に結婚するって言ってみせたのに」

「まあ、先にあなたから何度も言われてたから」

「じゃあもう一度だ」


 真剣そのものの表情は、これまで快楽を与えてくれた時や疲労の中見せた笑顔とは全く違ったもので、彼の中で様々な覚悟は、もうできていた。家族として受け入れてもらうための一番大きな苦労は、一つ終えていた。目を瞑るミツキは美しい顔で、彼と出会ってから、胸の高鳴りは最大限となる。

 手の甲にキスをするとそっと息を吹いて、上目遣いにエミルを見つめた。


「結婚、してください」


 病衣のタキシード、安物ブラウスのウェディングドレス、いや、そんなものは感じ得なかったかもしれない。ただ瞼の端から溢れる涙が真実で、二人とも、涙は今を司る永遠の指輪となり得て薬指に固くはめられる。その間に挟まれて、唇重ねる二人の顎の下、リノがクスリと、実に幸福そうに笑う。彼女自身も一体となる、頬に父母の祝福を受けて、新しい家族の誕生を全世界が祝っている気がした。


 過労から回復したミツキは、単身ベルジュへ戻り自身の父母の説得を試みる。説き伏せる自信はあったし、別に納得してくれなくとも新生ジェスタで暮らすと決めている。エミルも同行したいところだが、元近衛兵という経歴が邪魔してかまだパスポートの申請が許可されなかった。

 飛行場へ向かう列車のタラップにミツキとミツマは乗り、家族の見送りを受けていた。エミルはリノをあやしながら幾分寂しそうに言った。


「一緒に行けなくて残念」

「まあしばらく待つことだな。なんなら俺の両親を連れてくるさ」

「このミツマ兵長が付いてますよ。俺はすぐにこっち戻らなきゃいけないけど」

「ミツキを会社に入れてあげたあなたの言うことなら、向こうのご両親も聞くのかもね。ミツキ、時間があったら、ちょっとお願いがあるの」

「お願い?」

「フィアス殿下と隊長が転入したっていう学校に行って、私が謝ってたって伝えてほしいの。幸せになるための手段を、きっとあの人たちも必死に探していたのね。後宮の掟と挟まれて、揺れ動きながら。殺されかけたのは行き過ぎだけど、私が鼻で笑わなきゃよかったし、まあこうして生きてるし。悪いこと言ったって、伝えて」

「ああ、俺は少し時間がある。必ず寄るよ。謝罪と、結婚のことを伝えに行く」


 構内アナウンスが出発を告げた。一同スピーカーを向くと、エミルとミツキは互いの顔を見直して目を細める。ミツキがリノの頭を今一度撫でた。エミルは一歩前に出て少し背伸び、ミツキは背を丸めて顔を突き出した。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 キスと同時に汽笛が鳴った。幾多もの約束を抱えて汽車は走り出す。毎朝、サラリーマンの夫を送り出す妻の心境そのままで、エミルとミツキは手を振り続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る