氷が溶けて 第2話

 靴底の足跡を残しながら、ミツキはソフト帽を深く被り直した。配給所に並ぶ列の、注がれる視線に気づいてそちらに向くと、皆一様に目を逸らす。


 ミツマの計らいで入社を果たしたミツキは連絡員としてジェスタに赴き、確かに仕事は簡単だった。というか重要でもない書類をわざわざ現地調査員に渡しただけで、後に新たな仕事は控えているが、自由な時間は何日間もあった。ミツマがなぜここまで配慮してくれたのかというと、正直に、先輩に恩を売っておきたいからと言った。


 情報にあった街は地方の古ぼけた建物が並ぶ街で、大きな戦闘には巻き込まれなかったのか破壊の痕は少なかった。それでも一時期疎開民で溢れたこともあり、帰る場所を持たない難民が浮浪者と化して点々としている。

 ミツキは幅の広いトンネルに足を踏み入れた。中では、乞食同然の浮浪者や孤児が目を光らせ、急に鞄を掴まれる。


「この野郎!」


 手練れのスリではない、全く拙い方法でかっぱらおうとしたのは幼い男の子で、蹴り飛ばされると派手に転げた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 相当強い力で蹴ったのに悲鳴も上げず、男の子は素早く平伏すると三度謝った。口早に言う言葉に悔いた感情は見えず、当たり前の社交辞令のようで、ミツキが近づく前に走り去った。盗みに失敗して謝る作法だけは慣れているかのようだった。

 スリとはいえ子どもを足蹴りにしたことの嫌悪感と、困窮した人々の姿、もはや常態化した国で、革命成功し国が過激派の手に落ちずとも、終戦直後の戦土、街と人々の異臭が鼻についた。

 トンネルの終わり頃、中央を歩いていたミツキの足元に、誰かが走ってきて跪いた。またスリかと思って身構えると、今度は初老の男で、擦り切れた陸軍外套、いや、薄っぺらいところを見るとただの雨衣か、肩章留とボタンがあって、除かれた肩章の跡が白ぼけている。彼は防寒のためか手に被せる軍手の、ほつれて中が見える垢で黒ずんだ指先で小さな箱を出した。男の小汚さに比して光沢美しい鼈甲の小箱、傷一つなく、王家の紋章と金文字の刻まれた蓋を取った。


「近衛将校が持っていた勲二等近衛白銀双剣章です。王室勤務二十年で授与される大変貴重な物です。旦那様、特別お安くしておきますから、どうか買ってやってください」


 二振のサーベル軍刀が交差する意匠の磨き抜かれた銀で作られた勲章が、トンネル出口に差し込む光で溶けるような白を湛えていた。どれほど価値のある物なのか解らないし買う気もないが、土下座する男の頭が寒さからか震えて、聞いたことがある、敗戦国の軍人が、彼らの抜群の栄誉である勲章を道端で売ると。ひょっとして彼は、勲章の本来の持ち主なのではないかと、肩章の跡をじっと見つめた。


「王家の軍人だったんですか」


 男は一度震えを止めると、今度はより小刻みに震え始めた。図星を突かれたことへの震えは、罪を犯し、隊長章以下将校としての徽章を外され代わりに投げ渡された薄汚れた一等兵階級章を、古品で大修理の継当のある兵服に目立たぬように付け、法務将校の前に立たされた軍法会議の時に、自身も経験している。近衛将校としての過去を持つであろう男は、この国では経歴そのものが罪のはずであった。彼は小さな声で悲鳴にも似た弁明を口走ると共に鼈甲の蓋を閉じた。


「違います、違います、私は違います。近衛ではありません、違います。勲章も、服も、拾った物です。死体から盗った物です。違います」


 よろけて立ち上がると、トンネルを出て逃げるように走り去った。外の水溜りに足を取られて転び泥塗れになって、ミツキが近づこうとすると、男は怯えた目を向けて、また逃げた。

 内戦終結と同時に、捕虜となっていた近衛下士官以下及び王政府軍将兵は解放されたと聞いた。近衛将校と政府関係者は未だ、王政時代の住民抑圧の嫌疑をかけられ尋問のため留め置かれている。また、身分を隠しベルジュ派にもズーラン派にも付かず難民に紛れて潜伏した者もいるという。男はそのいずれかであるのだろうが、咎人の彼の背は、自身の罪を思い起こさせるようで、頭を振って興味をかき消した。

 だとすれば、近衛下士官だったエミルは?ふと思い浮かんでまた頭を振った。


 街の人々は、戦前の旅行者の如く気取った外套を着るミツキを目撃すると奇異な眼差しを向けて噂をした。多かったのは、彼が新政府の人間で闇物資の摘発に来たとか的外れなことばかりで、闇商人や配給を無視した闇取引を行っているのであろう民間人数人が、新品の生活必需品や食料を隠し屋内へ入った。その度に溜息を吐き、五回煙草の混じる息を撒き散らせると人々の行列に遭遇する。行列の根本はパン屋の看板が掛かる小さな店だった。初めて見た開いている商店で、ミツキは煙草を捨て聞き込みをすべく行列を押し除けた。不満の声が上がるが、彼の身なりに皆押し黙って道を開ける。


「常識無えのか、並べ!」


 店主の怒号、配給切符分切り分けられているやたら長いパンにも唾が飛んだ。そこに文句を言う客はなく苛立つ視線が一斉にミツキを襲った。血走った目でパンの重さを測る夫人が吐き捨てるように言った。


「役場か経理調査員かい、ウチじゃ配給だけで法に背いたことはしてないよ」

「違う、役人じゃない。人探ししていて、聞きたいことがあるんです」

「人探し?迷惑だね、並んできな」

「すぐ終わる、聞いてくれ」

に乗るんじゃないよ、並びな!」


 仕方なく帽子の庇をぐっと下げ、丸めた背を惨めに店を出た。中の騒動が聞こえたのか、政府の人間でないことが判り、行列の人々は罵声を浴びせた。


「並べ並べ、馬鹿!」

「ふてえ奴だ、こちとら何時間も待ってんだぞ!」

「気取った服しあがって、ここのモンじゃねえな、後ろ行け!」


 誰かが小石を投げた。厚い外套越しでは痛みもなかったが、彼らの侮辱に耐えきれなくなり、拳を固めて行列に向く。ガラの悪そうな男たちが、並んだまま、煙草を吐き捨て更に大きな石をを拾った。「人が下手に出てりゃつけ上がりやがって、くるならきてみろ、てめえら大好きなベルジュ国民だぞ、この貧乏人!」言いそうになり、直前で言い留まる。先程割り込んだだけでも会社から厳に戒められている住民とのトラブル、挑発的なことを言えば、ベルジュ派の傘下になったとはいえ国策会社の進出は他国からの侵略であると思う住民もいて、半殺しの目に遭うかもしれない。一睨み、睨むだけ睨んで、行列に沿って足を進めた。

 人々は皆、重い頭を上げミツキを見流していた。長い列に様々な瞳の色が嘲罵を投げかけている。ジェスタ人には珍しくない程度にいる碧眼が三組並んで、鳶色が五組、理由なく数えていると、黒い瞳が蔑んで、それは女だった。粗末なケープの襟に首を沈め、短い黒髪、寒さで赤くなった耳を撫でていて、なぜか、エルタを思い出す。指の細さも他の女と変わらないはずなのに、彼女が耳を摘む仕草は、挟まれるその圧に身に覚えがある気がした。

 瞳を見つめたまま近づいていく。十数秒視線の合致が続いて数歩で彼女の横、向こうが先に気づいた。ミツキが女を誰であるか認識したのは、固まる彼女が尖る目尻を丸く見開いてからだった。


「エミル・スクナー!」


 飛びつくように駆け寄って、間違いなく尋ね人の名を叫んだ。ただ列の皆がそうしていたからと深い理由なく軽蔑していた瞳は、より深い侮蔑と怯えた色に変わった。ミツキがパン籠を持つ手を掴むと振り解いて列から離れた。


「待ってくれ、覚えてるだろ?一年も前の、俺は、ベルジュの」

「覚えてる、だから黙って!」


 一度足を止め振り返った。怒るとも悲しむとも取れない態度で、また背を向けると逃げるように足を速めた。追いつけない速さでもなくミツキは走り、横に並ぶが前を向いたままこちらに顔を傾けてはくれなかった。


「そう邪険にするなよ。生きていてよかった」

「生きていてよかった?白々しい」

「なに怒ってんだよ。俺寂しかったんだぜ」

「こっちがどんな思いをしてきたかも知らずに!」

「まるで捨てられたみたいな口ぶりだな。勝手に消えたのはお前の方だろう」

「そう、確かに消えたのは私の勝手。だけど、私の勝手だけじゃ済まないことになってたんだから!」


 なぜここまで激怒しているのかミツキには理解しかねた。彼が言った通り急に消えたのはエミルの方、あの時はその場限りの関係だったはずだから、自分に無関心ならまだともかく、蔑む視線は戸惑わせる。

 密集した住宅地の、アパートの一階がエミルの家だった。彼女が階段を登って自分の部屋の、鍵を開けようとする直前扉は開いた。出てきたのは細身で背の低い中年の女で、エミルを見ると彼女は空のパン籠抱いていて、ひどく乱暴な声で詰った。ミツキに向けられる怪訝な瞳は彼女と似ていて、おそらく母親なのであろう。


「パンはどうしたんだい」

「もらえなかった」

「無しだと⁉︎どうして食っていくんだい!」

「私のせいじゃない!この男が!」

「あんた誰?いや、後だ。あんた、ピストル持ってホプキンスのとこ行っといで。錆が浮きかけてても、パンとベーコンくらいはくれるだろうさ」

「拳銃は取り上げられたでしょ。忘れたの?」

「親を馬鹿にして!もういい、仕方ない、指輪持ってくるから、それと引き換えにしてきな!」

「あ、あの、物々交換ですか」


 ミツキには、なんとなく事情が飲み込めた。咄嗟に配給の列を外れてしまっては、あの行列ではもう品物は無くなるのだろう。だから時折見かけた闇取引らしきことで、物々交換で法外な商談をするのだった。


「物交さ、だから何?」

「これ、ミルト社の最新モデルです。こちらの通貨じゃどうかわかりませんが、我が国では中古のテレビか新品のラジオくらいは買えるだけ価値はあります」


 ミツキは巻いていた腕時計を外し母親に差し出した。国際的なメーカーの腕時計で、ミツマが出発前見繕ってくれた物。彼には悪いが配給を受けられなかったのはミツキにも責任があり、惜しくはない。彼女が目を丸くするより早く手が伸びてエミルが引ったくり、踵を返すと再び家を出た。


「エミル!礼くらい言いな!すみません、無愛想な子で」

「いえいえ、私が悪かったのです」

「して、どちらさま?」


 時計を渡した途端急に猫撫で声の、金目の物さえ手に入れば不審な相手にも相好を崩す割り切り様、急変した態度にミツキは苦笑して帽子を取り、頭を下げた。


わたくし、ベルジュのミツマ鉱石社員、ミツキ・シロタという者です。お嬢さんにはお世話になりました」


 お世話になった、というのは少しおかしい。本来一夜の関係だったことに世話するもしないもない。しかしそう言うしかなく、母親はベルジュの人間が娘を世話したと聞き、ミツキが何者であるのか察したようだった。


「もしかして、娘が近衛にいた時の」

「そうです」

「お入りください。なんのおもてなしもできませんが」


 招かれた食堂兼用の居間は狭く、台所の水気も伝わって冷えていた。小さなテーブルに欠けたティーカップが二つ、薄い紅茶が注がれる。


「お茶菓子が何もなくて、申し訳ありません」

「いえ、お構いなく」


 味のほとんどしない紅茶をすすると具現化された貧困が一気に身体の中に入ってきた。見回してみると傷だらけの食器棚に写真が三つ置かれていて、一つの写真は伏せられている。他の二枚が今よりずっと少女らしいエミルを含んだ家族写真であるから、残りの一枚はなぜ伏せられているのか検討がつく。おおよそ、近衛兵としての軍衣纏う彼女が写っているはず。

 灰皿があって手巻きらしい煙草の吸殻が黒々とする葉を数本はみ出させている。ミツキが自分の煙草を出すとベルジュ煙草は高級に見えるのか母親の目が輝いた。


「どうぞ」

「どうも、悪いですねえ」


 母親は、まるで生まれて初めて砂糖菓子を口にした子どものように、痺れる頬を抑え煙草をんだ。甘いはずで、ジェスタ野戦派遣の際敵から奪った現地煙草を口にした同僚は、彼もヘビースモーカーであるのにその辛さにむせていた。互いに吐かれた煙が交差して狭い部屋に立ちこもった。その煙が漏れたからではないだろうが、部屋の奥にある二つの扉の片方から咳が聞こえた。肺を患っているような男の咳で、ミツキは煙草を置いた。


「いいんですよ、主人のとこに煙は行かないんですから」

「はあ、しかし」


 母親は立ち上がると扉の向こうに消え、しばらくすると咳は止んだ。出てくると溜息一つ、席に戻るとまた一服する。


みたいな薬しかないもんで、はあ」

「ご病気は重いのですか」

「ええ、まあ。入院さえできればいいんだけれど」


 貧困が一層濃くなる。早い夕方に差し掛かって陽は傾き、暗い室内でそれは顕著だった。母親の顔ばかり白く映り、彼女は寒そうに手を擦ると火傷寸前まで短くなった煙草を灰皿に擦り消した。ミツキが箱ごと差し出すと彼女は一礼して新たな一本に手を伸ばす。


「元近衛の家族でも、まだマシな方なんですよ。幸い酷い迫害は受けてないし」


 エミルを取り巻く環境を聞きだせずにいることを、母親が察して語り始めた。鬱蒼としてくる室内の、ぶら下がる電灯には電力供給がないのか手をかけず、大きなランプに小さく小さく火が灯される。


「あの子が乞食同然で帰ってきて、それはもう苦労したみたいでした。でも私共は亡命した近衛兵、後宮警護隊の家族であるから王室関係者の収容所に送られる直前で、しかしあの子は殿下の御膝下から脱走してきた。だから民主政府への忠誠を誓わされると収容所送りだけは許されて、この家をあてがわれました」

「なんで脱走したかは、話してましたか?」

「初めは私共にも話しませんで。でも、ベルジュ派の取り調べを受けた時には話したようです。なんでも、殿下のことが嫌になったとか」

「嫌、ですか」

「あなたは、何か知ってますか?」

「よくわかりません。ただ、王女と仲の良い警護隊長と喧嘩したとは、噂で聞きました」

「そうなんですね。なんで喧嘩なんて。しかし、ああやって帰って来てくれることはできたから、それは感謝すべきことかもしれませんね」

「やはり、亡命した元近衛兵は未だ入国できないそうですね」

「それはそうでしょうね。革命戦争も内戦もきっかけは王政府でしたから。でも、ベルジュ兵だったあなたは、よく入国できましたね。殿下の亡命をお手伝いなさったんでしょう」

「なんでですかね。入管でも特に問われませんでした。ジェスタで事業を行う社員であるからなのかもしれません。あの、ここの収入はエミルさんが働いて?」

「ええ、少し前から、エミルが工場に出てくれて。それまではでして私も主人も老いて大した仕事はできないし、大変でした」

「身重?」


 思いがけない言葉に耳を疑った。身重、誰が?エミルが?身重、つまり子を孕んでいたということ。一般的な言葉として捉えるならそうなる。では、誰の子なのか?帰ってから男と寝る余裕が、元近衛の彼女にそんな機会があったのか?可能性は薄いだろう。娼婦?いや、もう生まれているというのなら妊娠期間中だから無理だ。だとするなら、あの夜、そうだ、避妊をしてなかった。

 逡巡する脳内に比して冷静なまま固まっている顔つきは、耳をつんざく赤子の声で目を見開いた。母親は主人の居る方とは別の扉を開け中に入った。ミツキもそれに続くと、彼女は腕の中に赤子を抱き、慣れた手つきであやしていた。


「エミルさん、の、お子さんですか」

「ええ。そしてきっと、あなたの子です」

「彼女がそう言ったのですか」

「あなたしか考えられないと。月の巡りを考えても、また、最後だったのも、あなただと。初めのつわりは、ベルジュ派からの取り調べやこれまでの疲れで身体を壊したのかと思いました。でもお腹が大きくなって、娘は妊娠してました。産んだのは二月前です」


 まじまじと赤子を見つめる。一向に泣き止まない彼もしくは彼女は、少しずつ出来上がる小さな指を握っては開いて、目をキュッと瞑っていた。父親としての責任感はおろか自分の子としての自覚も不思議で、どこでどうこの小さな身体に遺伝子を継ぐ血が流れているのか、何も掴めない。


「名はなんて言うんです」

「リノです。リノ・スクナー」

「じゃあ女の子ですか」

「ええ、もちろん。あなた自身に覚えは?」

「彼女が私が最後であると言ったなら、きっとそうです」

「そう。リノちゃん、やっとお父さんに会えたわねえ」


 泣きじゃくるリノをミツキに向けた。突然のことで、赤子を受け入れる受け入れない以前の問題でたじろぐと、母親の厳しい視線が刺さった。娘を傷物にされたとかどう責任を取るんだとかそういった責めではなく、哀願混じる、そもそもの覚悟を求める、そんな目だった。

 震えかける腕でリノを受け取った。見かけの小ささからは想像できないほどずっと重い。なんとなく他人の娘を抱いている気で彼女の顔を眺めていたが、時折開く瞼の中にある瞳はまるで自分を鏡で見ているようで、より重く感じた。


「重い?」

「え、ええ」

「責任を取れ、という言い方はしません。娘のことはよく解っているつもりだから、あの子があなたを誘ったかもしれないとも思ってます。強姦されたとも言わなかったし。でもリノは、貧しい貧しいこの環境で生まれざるを得なかった。だから私はあなたを受け入れた。あなたがベルジュ国民であることは知っていたから」


 母親がミツキを受け入れたのは、ただ高級時計を物交のため譲渡したからだけではなかった。家の経済状況如何という理由か本心から孫を豊かな環境で育てたいという理由かは、おそらくどちらも真理なのだが、とにかく、ベルジュ人なら一般市民であれジェスタ国民よりも恵まれた環境にあるのは確かだから、娘の配偶者としてミツキを求めていた。


「見てこんなに!あの強欲ホプキンスが一級缶詰まで!持ち切れないくらいもらったから橇ごと表置いとくね!」


 エミルが帰ってきて、不機嫌な再会をした時とは打って変わって溌剌としていた。彼女は足取り軽く居間に入ると、自室の扉が開いていて中から娘の泣き声が聞こえる。コートを置いて部屋を覗くとリノを抱くミツキと目が合った。瞬間不機嫌な顔に戻し、彼の腕からリノを取り上げた。


「お腹空いてるんだ」


 リノを一度ベッドに置くとブラウスのボタンを外し始めた。その一挙一挙を、突如腕から重さの消えたミツキが居所なく見つめていて、エミルは手を止めると不快感露わに睨みつけた。


「おっぱいあげるんだから、出てってよ」

「ああ、すまん」


 慌てて退出する。母親と席に戻り扉を眺めているとリノは大人しくなったが、エミルは一向に姿を表さなかった。そのうち思い出したように母親が荷物を取りに行ったので、ミツキも出て手伝うことにした。

 表には子どもが何人も乗って遊べるような橇が、大きな軍用毛布に隠されて大量の食材日用品を載せ重く軋んでいた。痩せた四人家族なら数週間は持ちそうで、たかが時計一個の価値がこうならば、ミツキの月給はこの国で官吏の高等官くらいは余裕そうだった。


「まーこれで餓えずに済みますわ」

「お役に立てたようで、どうも」

「あの子がぶっきらぼうなのが、申し訳ないです」

「いえ、なぜあの態度なのかはなんとなく解った気がします。たしかに自己都合の無許可離隊でエミルさんは去りました。でもそれから、一番辛い時期に、それから出産という大仕事の時に、相手である私がいなかったのですから」


 きっと、きっかけは性欲でありその結果から導かれた理由であるかもしれないが、エミルもある程度は、非日常の中で求めた男に愛情を感じたことはあったのだろうと思えた。

 脱走から出産に至るまでの大騒動に、それも離反したとはいえ元敵兵として、貧困の中。正直お門違い甚しいが、愛情授けたはずのミツキが側にいないということは、彼女にとって不安だったのだろう。だからこそ侮蔑の目を向けていた。弁解の余地はいくらでもある。だがミツキは、できることなら彼女の大激動に寄り添っていてあげたかったと、涙が滲む。

 恋人としての在り処を求めて訪ねてきたミツキに、エミルの態度は傍目勝手すぎる。しかしそれでも、この期に及んで自らを責めるミツキはお人好しだった。


「これだけあればご馳走ができます。シロタさん、お宿は?」

「これから探そうと思ってました」

「ならよかった、ご夕飯食べて、泊まって行きなさいな」


 母親が台所に食材を置いて、にんまり笑った。

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