終話 二輪の百合

 その学園、新学期を前にした春休み中で、生徒は部活の練習をする者だけが閑散としていた。テニスコートでは軟式ボールを打ち合う軽い音が木霊している。テニス部のとある少女は、打ち返すタイミングを逃したボールが仲間が開けたネットの扉から飛び出すのを認め、慌てて拾いに行った。


「もー打つの強すぎだよー」


 ボールは練習場を囲む生垣も抜けて寮に通じる並木道に転がった。桜並木の満開に、積もる花びらを舞い上げていた。追う少女はボールだけに視線を固定し、勢い落ちて止まりかけるのを見計らい腕を伸ばす。だが、突如現れた二揃いのブーツと短靴がサンバイザー越しに、ボールは爪先に当たると靴の主が先に拾った。


「あっ!すみません」

「はい、どうぞ」


 凛とした声、ずっとうっとりと耳を傾けたくもあるような音色で、花びらの付いたボールをしなやか指から受け取った。高鳴る胸で少女が顔を上げると、どこか見覚えのある、美しく可憐な二人の少女。春の陽を反射させる金髪と黒髪が目に眩しかった。


「あなたは、ここの生徒さんですか?」

「え⁉︎は、はい。そこで部活してたんです」

「そうなの。私たちこの春から転入してくることになりました。私はフィアス・ネル・ゾルギアと申します」

「私はカノン・エルタです。よろしくね」

「フィアス?聞き覚えが・・・あ!」


 もう過ぎ去ったニュース、数ヶ月前ひっそり来たという麗しの亡命貴族その人たちであると、ようやく思い出した。あんまり綺麗なのは前からの人気で知っていたから、唯一撮影できたという軍港の幕の隙間から少し見えたフィアスの写真が表紙の週刊誌も買ってある。最近はジェスタ内戦の記事に追いやられていたが、それでも相手は有名人、少女は改めてドギマギした。


「あっあっ・・・王女様!」

「あら、そんなにかしこまらないで。もう私は王女じゃないんだから。そうだ、あなたは何年生?」

「わ、わたしは今年から二年生です!」

「じゃあ私たちと一緒ね。同じクラスになれると嬉しいわ」

「はい!私も楽しみにしてます!」


 同年齢だから特にかしこまらなくてもいいのだけれど、少女はしゃちこばって頭を下げた。身分失ってもなお高貴nobleな雰囲気に圧倒されたといってもいい。フィアスとカノンは会釈を返すと寮へ向かって足を進めた。少女はぽかんと立ちすくんで、あの美しい指に触れてもらえたボールを羨ましく眺めた。思わず唾を飲み込み溜息が出る。


「二人とも綺麗な人・・・びっくりした、まさかこの学校に入るなんて。寮で暮らすのかな。黒髪の人は従者?そうだ、私名乗ってない!」


 振り返るとフィアスとカノンは既に寮の入り口に到着していた。追いかけようとしたが一歩踏み出すと足を止め、それは絡み合う二つの指を見つけたから。恋人同士のような官能さすら感じてしまい、とても今知り合ったばかりの自分が介入できる隙はなかった。

 二人が寮内に入り姿が見えなくなって、入口まで走った。ガラス越しに見えるロビーに人影はなく、おそらく角の死角にある管理人受付の前に立っているはず。自宅生の少女には寮生の友人もいて普段は部屋に遊びに行ったりもするが、春休みは帰省中、二人を観察するというだけの理由で立ち入るのはさすがに憚られた。


「同じ学年って言ってたし、また会えるよね。なんだか素敵だなあ。これは必ず、お友達にならなくちゃ」


 寮の階上、新居となる部屋で荷解きしていると、件の少女が足取り軽くテニスコートへ戻っていくのにカノンが気づいた。


「あっ、フィス様、さっきの子です。ああ、行っちゃった」

「そういえばお名前伺ってなかったわね。元気でかわいい子だったわ」


 かわいいとは、まあフィアスは誰に対してでも言っていたから気にするほどのことでもないのだが、帰還以来彼女を独り占めしていたカノンにとっては自分自身にだけ耳に唇寄せてくれる言葉だと信じ込んでいて、ちょっとやきもちに頬を膨らませる。


「むう、フィス様、目移りですか?男が外に出れば七人の敵がいるって、ベルジュのことわざにあるそうですけど、この女学校は可憐な乙女揃いで有名みたいですから、ことわざは女の私にも当てはまりますねっ!」

「あら妬いてるの?かわいい」

「困っちゃった、フィス様、女ったらしになっちゃう。でも、確かに気立てのよさそうでかわいい子でしたね。私が先にお近づきになっちゃおうかなあ」

「あら、ひどいわカノン。お友達になるなら、私も一緒に」

「なら、一緒にお友達になりましょう。


 わざと強調した「お友達」、光る瞳、「親友はたくさん作っても、貴女だけはこれからもずっと特別なんです」そう語っている。


 窓際の縁、花が挿してある花瓶の側に座っているカノン、フィアスは爪先から上に掌で触れながら横に座った。座ると腰に手が伸び、今日はカノンからエスコートしている。密着する腰の温かさに頬を染め、彼女の視線の先に目を向けると、広大な学園敷地のはるか先に、美術館のように優美な身をどっしり据える校舎が見て取れた。ガラス張りの教室に小さく影が動く用務員の姿、一つの顔を思い出す。


「まさか、ジータさんもこの学校に来るなんて思わなかったわね」

「そうですね。他の仕事に就くとは言ってたけど、まさかここの用務員兼警備員の学校職員だなんて」

「私たちのお目付け役ってところかしら」

「一応政府からは、ズーラン派スパイからの攻撃の可能性が無いわけではないから、護衛の名目で出向してきたらしいですよ。私たちのことをよく知ってるし。でもなんだかおせっかいかなあ、いいお友達にはなれたけど」


 ホテルに編入先の学制服を持ってきたのはジータだった。私服で訪れた彼は除隊したと言って学校職員章を出し、これからも長くなりそうな付き合いを仄めかす。制服のファッションショーの客となりつつ、彼はフィアスが持つジェスタの秘密を聞き出した。これが、ジータの軍人としての最後の任務だった。ただ、学園に居る亡命者たちの護衛と世話役が、政府の人間として新たな任務が待っている。

 未だ続くジェスタでの内戦を考えれば、ズーラン派から狙われる生活も待っているのかもしれなかった。だけど心配はしていない。何があっても、二人が共にいること、それはどんな謀略や兵器よりも最強で、誰にも侵し得ない世界を意味している。


「ねえフィス様、ジェスタが恋しくないですか?」

「恋しくない、といえば嘘になるわ。お父様も、カノンのお父様のことも、今は行方不明で心配だし。何しろお国が無くなってしまったのだから」

「故郷の置いてきぼり、ちょっと寂しいです」

「終わらない戦争はないわ。いつか平和になったら、共にジェスタへ帰って、お父様たちを探しましょう。それに故郷の置いてきぼりはしていないわ。あなたがこうして側にいてくれるのだから。故郷は、カノンの中にある」


 フィアスは、とん、とカノンの顎に鼻を当て愛おしそうに擦った。カノンもフィアスの髪に顔を沈め香りを胸一杯に吸い込み、微笑む唇、彼女の頭を離すとそっとキスをする。長いキスで、二、三度ついばみあって、そのままフィアスを抱いてベッドに下ろした。恍惚とした瞳で見下ろされて、覆い被さる恋人にキュンと胸が鳴る。


「まだ・・・明るいわ。それに真新しいシーツ」

「そう、なんですけど、フィス様、ごめんなさい、わたし」

「欲しがりね、カノンは」

「それはフィス様だって。くださらないんですか?この恋人に」

「そんな瞳で見つめられちゃ、あげないわけにはいかないわ」

「フィス様、私」


 何かを言い出そうとしてカノンが大きく口を開いた時、内線の電話が鳴った。カノンが残念そうに受話器を取ると先程寮を案内してくれた寮母の声で、学園長に挨拶に行くため迎えに来た職員がいると言う。どうやらジータのことらしい。そういえば、彼が迎えに来ると事前に知らされてあった。


「はい、では身支度して参ります。ありがとうございました」


 受話器を置いて溜息、いたずらっぽく笑うと「お邪魔のジータさん」とうそぶき、フィアスもおかしくて無邪気に笑った。

 トランクから制服を出し、襟の白い黒のブラウス、学園の生徒としては初めて着る。互いにネクタイを確かめながら、髪を梳いた。


「何を言い出そうとしたの?上になった時」

「え、なんでしたっけ」

「ほら、電話が鳴って遮られてしまったけど」

「そうだ、大事なこと。何万回も言ったけど、大切なことです」


 鏡の前で最終確認、カノンはしゃんとした姿であるのを確かめ、背後から肩に手を添えるフィアスの、鏡の中の瞳を見つめ瞼を閉じた。くるりと彼女に向くと耳に唇を添えて、軽く息を吹きかけるように、唇も鳴らして。


「惚れてます。フィス様に心の底から恋してます。好きです、大好きです。愛しています」


 風が吹き、窓から桜の花びらが舞い込んでくる。寮母が用意してくれてあった、窓際の花瓶に活けてある二輪の百合が香しく、抱きしめ合う二人を包んだ。

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