第20話 忘れもの
黒染した時のショック未だ生々しい美容師は怯えつつ参上した。だが目の前に立つと、前にあった痛々しい影は消え、代わって泣き腫らした瞼が儚げに、華奢な弱さが、今度は鋭利な刺を持たずして何かを諦めていた。だから落ち着いて施術ができた。例えるなら黒染は他人の痛みとの戦いで、今回は衰弱した小動物の息を絶やさぬよう、そっと治療するような。むしろ焦燥しきっているのはメイドで、こちらの方が心配になった。
ホテルの外まで送ってもらいメイドはポケットから報酬の入った封筒を出したが、受け取ることに引目を感じた。前回も仕事の内容に合わないような高額な報酬を貰ったということと、傷心に沈む彼女たちから料金を受け取れないような気がした。しかしプロの在り方、さすがに無報酬ではよろしくなく、封筒から相応の紙幣を抜き取ると残りは返した。
「これだけ頂戴いたします。前回も高額な料金をいただいてしまい申し訳ありません。当美容室の規定に基づき、超過の分も差し引かさせていただきます」
「そんな、いいんです。お国から幾らかのお小遣いはいただいてますし」
「それでも、お客様から過分なご料金をいただくわけには参りません。十分な量はいただいてます」
少し強く言うと、黙って頷いた。美容師は頭を下げて礼を述べる。
「でも、お心遣い感謝いたします。今度は、皆さま笑顔で当店にご来店くださりますよう、お待ちしております」
「はい。この次は、私共もフィアス様も、元気になって参ります」
にや、と笑いくるり背を向け店への道を踏み出した。普段客にする作り置きの笑顔でなく、多少なれども元気を与えられるような親しみを込めた笑顔。メイドもその気遣いを染みるように感じて、ベルジュに来てから初めて受けた異国人からの親切、フィアスにも見せてやりたかった。
金髪に戻って幾日かが過ぎた。あの朝目覚めたら涙を流していたが、最後の時間をカノンと過ごせたと、変な諦観が身に付き、自ら紅茶を淹れ音楽を聴くくらいの余裕はできた。レコードをくれたメイドもフィアスがオーディオに耳を傾ける姿を見ると少しは安心した。政府の人間も最近は来ず、穏やかな日々。心の穴はそのままに、ひょっとしたら上手く傷と付き合って生きる方法もあるのかと、精神の防衛のために生み出された考え方が楽にしてくれた。辛苦の根源が癒された訳ではないけれども。
雲一つなく晴れた、春間近の昼。この度初めて触れたジャズをかけて窓にもたれたまま、フィアスはうたた寝していた。見る夢もないまま、扉のノックで薄く目を開けた。メイドであれば、鈴の合図をしない限り挨拶してそのまま入ってくる。しかしノックは繰り返されて一向に入室してくる気配はなかった。声もない。扉の前に立って覗き穴を見ると、思いがけない顔。
彼の野戦服でない、ネクタイ締めた空軍の青い制服を見るのは初めてだった。ジータを迎え入れると会話用ノートを取り文字を書く。彼は軍帽を脱いで帽子掛けに引っかけると勝手に窓際の椅子に腰かけた。
「元気?というわけでもないか。でもぼちぼち過ごしてるようでなによりだ。髪切ったんだ。それも似合ってる」
『ありがとう。コーヒー?紅茶?』
「自分で淹れるのか」
『最近はね』
「紅茶。灰皿使っても?」
思えばこの男を見る時、いつでも煙草をくわえている。フィアスは溜息で呆れた視線を向けながら、これまで出番のなかった灰皿を差し出した。
『着飾ってるけど、プロポーズにでも来たのかしら』
「へえ、冗談の一つも言うようになったんだ」
煙草に火を点け、吐く煙を纏い襟章が光った。野戦服にも彼は階級章を付けていたが、意匠が異なるのに気づく。進級したのか降格したのかは知らず徽章を指差した。
「これか?」
首肯するとジータは得意げに襟章を摘んでみせる。この分だと進級したようだ。
「准尉に進級した。それで、士官学校行ってもないのに将校勤務の見習士官。間もなく除隊する時少尉に任官して予備役少尉になる。かなり特例だけど」
『軍隊をお辞めになるの?』
「そう、辞めるさ。他の仕事に就く。でも王女サマと結婚するのに下士官でなく将校なら、下級士官といえども分相応だし」
『まあ、ほんとうにプロポーズ?』
「だとしたら?」
『お気持ち嬉しいけれど、お断りしますわ。あなたのことは好きだけれども、恋とは違う』
「それはよく知ってるさ。俺がプロポーズするというのは半分冗談」
『半分?』
「そう、半分はね」
ジータは煙草の灰を落とすとくわえ直して立ち上がった。時計を見て紅茶にもあまり手をつけず退出の模様。
『もうお帰りになるの?ゆっくりしていけばいいのに。紅茶も』
「また訪ねるさ。この後軍医の検診があるんでね」
『どこかお悪いところでも?』
「ちょっと怪我した。腹の辺り。なあに、大した傷じゃない」
『そう。お大事に』
「ありがとう」
フィアスは軍帽を取ると差し出した。その時ちょっとだけ、受け取る手が触れる。
思い出される、あの夜のこと。結局彼とは何もなかったけど、太い指は、諭してくれた優しさが懐かしい。
「今更だけど、まだ声が出ないんだな」
笑顔に少し哀愁を混ぜて頷く。ジータは憐むような色は見せず、猫みたいに目を細めて、人懐こそうに笑ってみせた。
「今に出るようになるさ、必ずな。じゃあまた」
敬礼して廊下の角に消えていった。軍靴の音が小さくなりエレベーター到着の合図を聞くと扉を閉じた。ジャズはいつのまにか終わっていて次のレコードをパッケージから出す。続いて流れるのはジャンル同じくジャズで、ピアノがまばらな静かな曲。耳を傾けてジータの残した紅茶に口をつけた。
ジータは不思議とカノンと似た香りを持っていた。それは彼女としたことと近しいことを、未遂だけれどしたからなのか、親しみを持っているからなのか、おそらく両方だろう。だけどカノンに対して持っていた恋は彼にはなく、友達としての親しみ。
ジータはふと思いついたかのような結婚の冗談に半分は本当と答えた。何が半分だったのか知らず仕舞いだったけれど、縁談でもあるのだろうか?もしそうであっても応じる気はない。心の中にカノンを生かし、輝かしい思い出だけを供にして一生を過ごすと、決めている。夢の中ですら会えなくても、瞼の裏に彼女を思い浮かべれば、そこに居るのだ。
「忘れものがあった。俺のじゃないけど」
またジータの声。忘れ物、彼は煙草とライター以外は出さなかったし、この部屋にある物は何も持ち出していないはずだった。俺のじゃない、とは?変な物言いをする。覗き穴も見ずにドアノブに手をかけた。
「ほら、忘れもの。取り戻すのに随分手間取ったぜ。俺だけまた出撃するのにも部隊長や役人共を説得してさ。でも裏金用意した時に見た汚い連中の醜態が、脅しに役立った。貫通銃創のお土産までもらっちまったけど」
ジータの声はある人物の背後から聞こえた。もっとも彼の声は耳に入らず、目の前の少女に釘づけとなる。
前のフィアス程ではないが髪が伸びて、美しいブルネットの黒が肩まで垂れていた。肌も少し焼けて、痩せて筋肉が落ちたのか、より細身になっている。でも涙を湛える大きな瞳は変わらず、薄い唇の艶、そのままで、頬は健康的なピンクを一層紅潮させていた。
彼女の唇が開く。震えた桃色に触れたくてたまらず、フィアスはそっと掌を頬に添え、指を涙が伝った。
「・・・痩せたわね」
「え」
第一声、誰しも幸福なロマンチックを予想していた。しかしフィアスの口から出た言葉は、押さえる頰肉への素直な感想。未だ自分の苦労自慢を続けるジータも丸く口を開け、続いて笑いが起きた。
「はははあ、痩せた、たしかにそうだろうな。地元の貧乏漁師に助けられて大したもんは食ってなかったんだ。見つけた時はもっと痩せてたぜ。バストも縮んだんじゃないかと思ったが」
「もう!タミヤ見習士官の馬鹿!」
カノンはふくれて軽蔑の眼差し、一瞬ジータに向けると、唇にフィアスの親指が当てられた。顔を戻すと恋人の涙顔、微笑む涙顔に、グラマラスな唇が光る。カノンも同じく彼女の頬に手を添え、唇を指でなぞった。
「フィス様、フィス様の唇変わりませんね。よかった。でも髪切っちゃったんですか?」
「私、カノンと同じようになれたら、きっと、心では、カノンとずっと過ごせるって・・・ごめんなさい、まだしゃべりにくくて」
「もう、フィス様もおばかさんなんですから。そんな必要はありませんよ。私、心だけじゃなく身体も持って、ずっと一緒にいますから」
互いに相手の指を口に含んだ。暖かさが愛情が心が、舌と唇の潤いを通して戻って来るように、ここから再び始まる出発点、ようやく道が修復され、どこまででも香り高い二人の人生が再構築を始めた。同時に、フィアスの中からカノンのいない人生の設計図が星となって光り、どこかへと消えていく。
ジータの言ったとおり、忘れものだった。何もかもを詰め込んだ器を落として、いや盗られて、自身が器に近づき忘れようとしていた。器は戻ってきた。戻ってきて、中身が飛び出してフィアスに入ってくる。
「ただいま、フィス様」
「おかえりなさい、カノン」
ジャズが流れている。不器用な恋人たちの賛歌がピアノに乗って紐となり、白い光に包まれる二人をきつく結んだ。二度と離れないように。離れるはずもないけれど、彼女たちにとって契約の音楽だった。
プロポーズ、身一つでウェディングドレスも指輪もない、だけど心の中でさえ身につけていれば、はっきり見える互いの美しい姿で、薬指にダイヤが光る。ベールを取り去って微笑む唇同士、キスをした。
ジータは唇重ねる二人に自分の姿はどこにも関知していないと見えて、部屋から出て扉を閉じた。最後の任務を終えたと思って、カノン救出の際負った傷の診察を受けに行く。しかしホテルを出てから、もう一つ本当にジータ自身の忘れたことを思い出した。
「あ、未開発資源のこと聞き出すように言われてたんだ。まあ、またでいいや」
ホテルを見上げると、フィアスの居室の窓にカーテンがかけられるところだった。
軍靴も軍服も銃も剣も、硝煙晴れる百合園に、今や用はない。
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