第19話 遠い昔の

 十代始めの王女にはあまりにも広すぎるベッドで目が覚めた。カーテンは開いているし着替えの用意もあるのに、付き添うはずのメイドがいない。だけど不思議には思わず、しょぼついた瞼を擦り顔を洗って身支度を済ませた。食堂へ向かうと長い食卓、いつもはお父様も奥の席に座っているのにいないし、自分の席にだけ朝食が置かれていた。香り、味も薄く、ベーコンの歯応えもなく、風邪を引いた時のように感覚はふわふわ浮いている。一つだけはっきりと判る、漂う懐かしいばかりの匂いは何なのだろう。王家の紋章が記された、父のくわえる食後の葉巻の煙と、王家御用達職人が活けた花の香も混じる。匂いは長くは続かなかった。朝食を残さず食べ終わると王宮から出た。

 勝手知ったる広大な庭、足の赴くのは近衛兵の兵舎や水車小屋など物陰多い場所。確信も疑問も持たず、そこに行きたいから佇んで、じっとした。何が起こるわけでもない、ただ誰もいないのに、その場所では孤独を感じなかった。池にボートを浮かべ陣営具庫から持ち出した軍用毛布を被ってみても同じだった。

 色んな場所を回ってみて、最後馬小屋で足を止めた。ここは更に特別な場所である気がする。入口に、なぜか逆さまに置かれたバケツ、誰かの影が虚い、老人の面影。だけど孤独でない本当の証は小屋の中にこそ存在していると、今度は確信を持った。馬のいない閑散とした中で、清潔な寝藁が規則正しく置かれている。靴も靴下も脱いでその上に座ると、足の裏のこそばゆさ心地よくうっとり溜息を吐いた。自分を産んだ時母は亡くなったはずだから記憶は無いのに、その心地よさは、母に抱かれる安心感に似ていると、ふっと笑って瞼を閉じる。

 靴に異変があった。履いてきた革短靴ではなく、野暮ったいゴム長になっている。確か庭師の物。その隣に騎兵ブーツが置かれて、男性用のものではなく小柄な女性用だった。

 また、孤独が消えた。暖かく、甘酸っぱい香り、鼻で嗅ぐというより心に流れて纏わりつく。空の容器を満たしていく。王女の心、身体全てを。そして唇に、軽く柔らかな熱い感触、思わず指を当てる。


「カノン、そこにいるの?」


 フィアスの一月ぶりに聴いた自分の声が、夢の終わりを告げている。景色が白くなり、長い金髪が風に揺れた。目の前に薄く象られた少女の影に、微笑んだ彼女は涙を滲ませた。影もまた薄い唇を弓形に優しく笑っていた。


 ひどく残酷な夢、失ったもの全てを見せて体験させる夢。目覚めたら辛くなるのは判っているけれど、今だけはとても幸せだった。

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