第18話 黒短髪の獄
今日もまた、政府の人間が訪ねてくる。初めは腰の低い彼らだったが、いくら訪れても一向に無気力で何も情報を打ち明けようとしないフィアスに、だんだん苛立ちを隠さなくなった。
「フィアスさん、いいかげん話す、いや、書いてもらいたいもんですなあ。あなた方をベルジュ市民として迎え入れたのは、ただ人道的保護のためだけではありませんよ。あなたの頭にある資源の情報、それが我々は一番欲しいんですから。ショックに浸るのも仕方ないが、このホテル、高いんですよ。国民の税金でみなさん泊まってるし、学費の支給や職のことだって、我々の手でやってる。何がお望みなんです?何をくれてやれば、口を割るんです?」
「無礼者!殿下に向かって!」
立ち合いの、脱出途中ですら気を荒くしなかったメイドは、ここに及んで初めて怒鳴った。掴みかかるだけの勇気は、屈強スマートで冷徹な視線を崩さないボディガード相手に湧き上がらないが、汗ばむ拳だけは震える。
「もう殿下じゃないでしょ。元王族だけど、今はただの市民です。それじゃ、また来ますからね。いいかげんにしなさいよ」
窓際に座り外を眺めるフィアスは、最後まで彼らに目を移すことなく見送りもしない。外に出た情報部の高官は、部下に小声で耳打ちした。
「やはり、あの曹長が言った通りか」
「我々だけじゃ駄目ですね。残留者の帰還を待たなきゃ」
「帰ってくるもんか。海岸は敵だらけ、今は知らんが。負傷して海に落ちたんじゃ、助からんさ」
「どうしますか」
「どうするもない。支援断ち切りを仄めかすか・・・やだやだ、また首相にどやされる。あんな小娘のせいで」
当の小娘、コツコツと靴音が遠のくのを夢の出来事のように聴き流し、この時間で父に吹き込まれた「未開発鉱山資源および地下天然資源についての情報」とやら、文字となり頭に浮かぶだけ浮かんで認識されず消えた。
脱出から一ト月が経ったとメイドは言う。だけどそんな実感なく、ベルジュへ来てから何十年も過ごしてる気がするし、それも、王宮を出た時からいきなりここへ飛ばされてきた感覚。カノンを想えば想うほど夢のような存在になり、恋があったという事実の確認は、落ちきって動かない心に無理やり空気を送り込む気持ち悪さ。どんなに胸に空気を吸い込んでも、どこか空いた穴から全て漏れ出るみたいに、息苦しい。涙はもう出なかった。一日中寝る時以外は窓際に座って、外を眺めて過ごした。歩く無数の人々の、それぞれにどんな人生があって今日何が起こり、何を考えて生きているのか。想像より、顔、顔、ずっと見て、色んな表情あれど、もしかしたら自分ほどのことが身に起きた人間もいるのかと思うとぞっとした。
陰鬱な色を窓ガラスに映し続けるフィアスを見かね、メイドは様々なことを画策した。大量の本、ジェスタのことでもちきりの週刊誌は避け、小説や漫画、他趣味雑誌を購入し、部屋に持ち込む。もとよりテレビにすら興味を示さないからほとんどの本は無駄になったが、漫画だけはこれまで馴染みがなく、新鮮さから手に取った。しかし内容がいけない、明るく楽しそうな表紙を、と選んだ漫画は今流行のラブコメである。数ページめくると眉を顰め、唇に力を入れ唾を飲んだ。目を背けると放り投げる、物をこんなにぞんざいに扱うフィアスを見るのは初めてだった。何がいけなかったのか、本を自室に引き上げて読むと二人とも見入ってしまい、満足した心の裏でどこが気に入られなかったのか考える。
「あ」
「あ」
メイドは顔を見合わせた。幸福がコミカルに描かれるのを嫌う理由、その幸福が手に入らなかったという事実を原因とすることは想像に難くない。だから、本屋では友情物語のような内容は避けた。もちろんカノンを喪ったことを考慮して。それなら今後、自由な恋愛が許されるフィアスには新たな淡い楽しみができるのではないかとラブコメを選んだ。しかし彼女は拒絶する。だとすれば、噂にあった親密な関係、親密とはいえ、そこは一国の王女、女子同士にはよくある姉妹のような仲の良さであると今まで思っていた。実のところ、噂を越えた関係が存在していたのではないかと、頬が染まる。メイドは言葉交わさずとも考えることは互いに通じた。
「違う、かな」
「わからない。ただ、男の人が後宮にはいないから、代わりに女の子同士で、その、愛し合う人もいたって、聞いたことがある」
「私も話だけならね。でもそれなら、そこそこの期間を私たちは男だけで編成された特務隊と一緒にいたから、同性愛が男女恋愛の代替であるなら、あそこまで心は揺れ動かないはず。現に、スクナーさんのことだってあったし、元特務隊の兵士と交際しようとしている警護隊の子もいるし」
「・・・深く考えないようにしましょう。私たちの忠誠はそのままに、自由に生きるフィアス様を応援しなくては」
「でもそれも、エルタさんがいなければ・・・」
「何か、少しでも心が晴れるようなことはないかな」
「そうね。そうだ、私、考えてたんだけど」
あくる日、メイドはヘアーセットの道具と化粧道具、買い込んだ衣服を持ちフィアスの部屋に現れた。長く美しい髪はいじり甲斐がある。後宮に居た頃は小難しい髪形を作るのを従者は楽しんでいたが、脱出行では軽く纏めてしばるか流したままであった。また、着ている服も動きやすいというだけの地味な物。どんなに気が落ち込んでいてもやはり女の子、美しい変化があれば心にも動きがあるかもしれない。フィアスは気乗りしない様子で無反応だったが、メイドの強い勧めで渋々鏡台の前に座った。二人はは夢中で髪を梳き、編み込み、手に染み付いた技術を久々に奮って楽しかった。
「お化粧もいたしましょう」
ノーメイクでも、どこの世界でも通じる肌と端正すぎる容姿をフィアスは持っている。だが鼻息荒いメイドは更なる美を求めて化粧を施した。ノーメイクでもいいような肌艶なのに化粧のりも抜群、ストレス抱えてもなおこの肌を保っていられるのかと改めて羨む。服もちょっとしたドレスに着替えさせて、まるでお人形。
「うわあ・・・綺麗」
「ほんとうに、お綺麗ですわ、殿下・・・」
フィアスの表情は変わらないが、メイドは出来上がった芸術作品にうっとり溜息を吐いた。全方向から舐め回すように見終わると、髪を解き化粧も落としてしまう。服も別のを用意した。メイドはまだまだやり足りなかったし、なにより当のフィアスに、心の変化があるようには見受けられない。様々な髪形、化粧、服を次々に試しその度二つの歓声が上がった。ジェスタで流行っていた物、ベルジュで流行っている物、カジュアルな物、レトロな物、個性派な物、なんでもよく似合った。
しかしすっかり着せ替え人形と化したフィアスは、ついに両手を突き出し何着目かのジャケットを拒んだ。厳しい視線は「放っといてちょうだい」と言っている。舞い上がっていたメイドは急に冷まされ固まっていると、彼女は寝間着に着替えてベッドに入ってしまった。やりすぎを後悔し消沈するメイドは一気に衣服とその他道具を抱えてとぼとぼ部屋を後にした。
ベッドに入ったフィアスは、手をつけなかった夕食の匂いにファンデーションや整髪料の香りが混じるのが鼻についた。化粧の香り、女の香りを司るもの。落としきれていない濃い口紅を舐め取った。舌でなぞられる唇、カノンの唇を思い出せないものかと、湿る紅に指を添えた。
思い出せない、思い出せない。記憶を文字にすれば、花の香りに
しかし今日の、正直鬱陶しくもあった着せ替えごっこは、ひとつ見出させてくれた。
「え、フィアス様、しかしそれは」
「そうです、そんなにも美しいのに。梳くことは喜んでいたしますが、そのようなことは」
翌日、メイドはフィアスの申し出にたじろいだ。白紙だらけのノートに書いた文字、強い筆跡で「どうしてもやって」と、シャープペンシルの芯が折れる。困り果てたメイドは観念し、美容師を探した。
「ほんとうにいいんですか?おっしゃる通りに致しましても、きっとお似合いになるとは思いますけど」
ようやく見つけた美容師、偶然担当の客がキャンセルして暇なこともあり、二人の亡命異国人の下げる頭に応じてやって来た。元はといえ王女、それもついこの前までワイドショーを賑わせていた悲劇のヒロインを目にできると緊張と興味膨らませた。だがいざ対面するフィアスはあまりにも暗い影を落とし、頼むことへの言わずとも解る理由は、まるで失恋だとおかしくなった。
「お嬢様のような美しい髪、見たことありません。これがたなびく姿を想像しただけで・・・でも、いいんですね?」
カクンと首肯する。美容師は覚悟を決めて、ピストルの
どんどん髪が短くなっていくフィアスにメイドは耐えきれず嗚咽を漏らす。洗面室の白い床に落ちる金髪一筋を見つけると素早く取り、抱きしめて泣き続けた。また、近くに並べられた黒染め用ヘアカラーの存在が威圧的で、直視できる代物ではない。ショートボブ、脱出行終盤でカノンの伸びかけた髪とそっくりだった。涼しくなったうなじを撫でる様官能的で、指先は確かに無くしてしまった愛情を模索していた。美容師はもう何も聞かず、美しすぎる黒い陰に飲み込まれまいとヘアカラーの底を強く叩いた。
「お待たせしました、お疲れさまです。よく・・・ほんとうによくお似合いです」
全ての施術が終わった美容師は震える手で道具を片付け、報酬を受け取ると走ってホテルから逃れた。
恨む恨む、キャンセルした客を。キャンセルしなければ、フィアスの元へ赴き美しい痛みに触れることはなかったのにと。
「やっぱり、やっぱりそうなんだ!」
メイドは最後に頼まれた服をフィアスに持っていくと、戻った自室でベッドに潜り込み身を寄せ合った。被った毛布は慟哭に震えて、過日疑いを持ったフィアスの痛みの原因を確信する。
恋人を喪ったということ。国も地位も豊かな生活も、家族すら失い、最後心の砦だったはずのカノン。もちろん従者たちへの慈愛は身が裂けるほど受けているし与えている。だがそれすらも埋め得ない深い穴が空き、その中に落ちていた。
暗い暗い、穴の底で、フィアスは鏡の中の幻影、それを真実であると思い込もうと、歪んだ笑い、震える指で押さえきれず、蛇腹服のフック一個一個をはめていく。今までに、カノンを筆頭に幾人ものうら若き乙女たちがこの軍服を纏い目の前を過ぎていったか、もはや思い出せないけれど、自らが紺に包まれるのは初めてだった。肩章は、銀星一つ付いてることを除けば意匠が異なって少尉でなく伍長を示している。しかし階級章のことは結局二等兵から大将まで判別し得ることができなかった自分、銀星一つ輝いていれば、赤線金線本数で区別される将校下士官の違いは気に留めない。
襟を詰め喉元のカラーを整えると、髪だけカノンと同じの、紛い物が出来上がる。違うところばかり、背丈もフィアスの方が僅かに長身で、胸も大きかった。顔立ちも、溌剌としたカノンに比べればおっとりとした目元、そして唇は、いくら薄く作ろうと努力してもグラマラスに弾けんばかり。でも髪だけは同じ、髪だけは。髪だけじっと見つめて、彼女の面影を探し、不思議とだんだん似てくる。心臓の動悸が始まり、少々窮屈な軍服の胸元が苦しかった。おそるおそる性感帯である耳まで手を持ち上げ、カノンの唇だと思い指で挟んでみる。ゾクゾクと背筋を渡り脳天を直撃する快感、切ない声発すること叶わぬが、薄く目を開け鏡に映る、カノンそのもので、彼女もフィアスの手管に感じていた。かけたばかりの襟ホックを外し胸元まで解く。シャツの隙間に細い手を挿し入れ、硬くなった乳頭回しながら、鏡にキスをした。傍目どんなに淫らな姿で、正直特殊な自慰に興じているという懸念はもはや念頭にない。彼女は作り出したカノンの幻影を実体として取り入れ、確かに身体を重ねていた。両の手も自分のものではなく恋人のもの、的確に弱いところを責め立て、快楽を引き出してくれる。ズボンもズロースも脱ぎ払って、デルタの若草に指を沈めた。
前よりずっと上手、どうしてこんなに上手になったの?ねえカノン。ああ、そこ、そこがいちばん・・・
答える相手、いるはずもないのにそんな問答を夢で繰り返し、絶頂は唐突に訪れる。口が嬌声の形だけ作って肺から空気が漏れた。
立ったままの脚はガクガク震え耐えられず、股を開いたまま椅子に落ちた。深呼吸を繰り返し落ち着いてくると、急速に自我が身体に戻った。右手の指はぬらぬらと白い粘液が絡みつき、自分のものであると知り恐ろしくなった。鏡に向き直ると、黒短髪というだけの自分自身、汗の玉をいくつも作って顎から滴っている。上気した頬はみるみるうちに蒼ざめ、後悔はないが行為のおぞましさ、自分のなにもかもが汚らわしく映った。興奮過ぎ去ればカノンは消え、不調和なフィアスだけが取り残される。快楽に耽る時だけしか美しくカノンを感じられないのは、どこか性欲に塗れた心を意識させ虚しかった。
自分で洗濯をしたことはほとんどない。いたずらの罰として命じられ嫌々やった数少ない体験か、幼少期にすぐ飽きる好奇心からメイドの手伝いをしたくらい。それも、干して畳むということしかしていない。
汗と愛液の付いた軍服と下着を少し湯を溜めた浴槽にぶち込んで、おそらく洗剤といった物はメイドの部屋にしかないのだろう、鎮座しているボディーソープを上から流した。全裸で浴槽に屈みぬるつく底に足を取られまいと、踏ん張る爪先が痛く、一体何をしているのだろうかと、刺す匂いの指先で洗濯ものをこねた。
シャワーを浴び拭きやすくなった髪を乱雑にタオルに絡め、寝間着を着る気力もなく裸のままベッドに潜り込んだ。また明日、この黒髪をもう戻してしまおうと、できるだけカノンが想像に登場しないうちにうろ覚えの美容師の顔を思い出す。久々に使った体力で、間も無くやたら長いレム睡眠が始まった。
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