第2話 秘密の園
「突撃銃手、前へ」
カノンは腰の6.5インチ銃身リボルバーのグリップずっと握りしめ、合図するように銃を振った。突撃銃手というのは
長い20連弾倉を付けた拳銃を構え、銃手が忍び足に近寄るのはトンネルの終わり、森の入り口にあたる鉄扉。陽はすっかり落ち、満月の光に幻惑されるその向こうに白く見えたのは2軒の山小屋だった。銃手は素早く小屋に駆け寄ると中を確認する。懐中電灯に浮かび上がる陣営具や糧秣缶を覆う軍用防水ゴム袋が、
「安全が確認されました。分隊前へ。一、二班は周辺警戒、三班は宿舎清掃」
ぞろぞろとトンネルから出てきて誰も残っていないのを確認すると、鉄扉を施錠し挿したままの鍵を両手握りサーベル軍刀の鞘で叩き折った。これで、もし敵がトンネルを辿ってきても容易には扉は開かないはずだった。
偵察や天幕設営を終えた一行は数人の歩哨を出し荷を解いた。フィアスは炊事の火が煌々と上がるのを小屋の中からぼんやりと眺め、ウォッシュタブに注がれる湯の音を聞いていた。
「殿下、お湯の支度が出来ました」
メイドが告げる。フィアスが頷いて上衣のボタンを外し始めるとメイドの一人が靴を脱がせにかかった。手際よく脱衣が進められすっかり一糸纏わぬフィアス、発育の良さを誇る胸を揺らして足から湯に浸すと心地よい痺れに小さく身体を震わせた。
「フィス様、お食事を持ってまいりました」
カノンの声だった。ノックにすぐさまメイドが「只今ご入浴中です」と言い、謝って扉から離れようとしたがフィアスがそれを引き留めた。かき上げた長髪から石鹸の泡玉がいくつも飛んだ。
「入ってきて、カノン」
「え、でも」
「いいの、久しぶりに背中を流してくれないかしら。あなたたちは外してくれる?みんなとお夕食をとってきなさい」
メイドたちが出ていき入れ替わりにカノンが入った。目に入る白い艶肌、肩甲骨の影とくびれが美しく、久々のフィアスの裸体に唾を飲み込んだ。幼少期はメイド以外の者には秘密で浴槽を共にした仲で、浴室から濡れた顔と肩をのぞかせた幼いフィアスに初めて手招きされた時のことは今でも覚えている。
カノンは頬に熱を帯びるのを感じながらブラシを取りフィアスの背後に跪いた。手を背に添えると一瞬震え、その白さに反し秘める熱気を逃がさじとためらいがちに掌を押し当てた。
「悪いと思ってるわ」
「何をです?」
フィアスは潤いを染み込ませるように腕を撫で芯のない声で言った。
「あなたや、あなたの部下や私の従者を酷い目に遭わせてしまったわ」
「我々はフィス様をお護りする使命を帯びてここにおります。お気になさらないでください」
「ううん、皆に国を棄てさせることになってしまったわ。皆誰しも家族や友達、恋人だっていたかもしれないのに」
ピタ、とカノンは手を止めた。フィアスの言葉で国に残っている父のことが不意に思い出された。
フィアスと同じく、カノンにも父しか家族がいなかった。国軍下士官であった母はカノンを産んだ後若くして内乱鎮圧の戦闘で戦死したと聞かされている。無益な戦闘を止めさせるため白旗を掲げ停戦交渉に向かったところ狙撃されたが、その誇り高く尊い姿に心を打たれ戦闘は止んだのだと父は繰り返し語った。カノンもそれを信じている。
近衛師団長である父は首都に残り強大な革命軍や寝返った反乱軍に対し絶望的な防衛戦闘を指揮しているはずだった。しかし唯一の肉親と別れなければならないのはフィアスも同じで、むしろ皇帝である彼女の父は娘と二度と会えぬまま命を落とす可能性がより高い。カノンの父は俘虜になるか寝返るかで生き残れるかもしれなかった。カノンはそのような再会を望みはしないが。
「そんな・・・それはフィス様だって同じです」
「同じじゃないわ。私も王族ですもの。国が混乱に陥った責任は感じています」
「あれは腐敗しきった政府閣僚の責任です。いくら王族からの親任により政治家が国政を担うといっても、フィス様に責任があろうはずはないではありませんか!」
「どちらにせよゾルギア家の末裔、私がこうなるのは当然の末路ともいえましょうが」
この思考こそ、純粋ゆえの後悔であり重度のホームシック。ネガティブになりきり周囲の責任全てを自分に帰してしまう妄想ともいえる考えは、ひたすらあの王宮への慕情だった。帰りたい、というより離れたくなかったという後悔が頭を渦巻く。
カノンは痛いほどフィアスの心が理解できた。はっきりと言葉にはしないが、フィアスの発言は裏を返すと帰還を望むものばかりだった。カノンの部下たちにも同じことはいえて、彼女らが異口同音にぼやく「死ぬにしても王宮で死にたかったわ」というのは亡命への不安の証拠。皇女に殉ぜんとするその態度の内面では常に、街角のパン屋や大通りのクレープ屋、歩哨勤務中こっそり注文した焼豚サンドウィッチ、二度と見ることのない嗅ぐことのない風景と香りを反復させている。
「ね、なんだっけ。大昔カノンがこっそり食べさせてくれたあの脂っこいの。豚肉だったわ」
「ユミセ町二丁目アンジュ精肉店の煮豚でしょうか?」
「そう煮豚。美味しかったね、ニンニクの入ったたれに漬け込んであったから臭いですぐばれちゃったけど」
「私の好物だったからどうしても食べていただきたくて。ご迷惑をおかけしました」
「ううん、楽しかった。私が新しいことを感じるのをカノンと一緒にできたし、罪の共有も。ますますあなたを近くに感じることができるようになった」
フィアスはカノンの腕を引くと顔に回し、手を頬にあてがうと上からしっかり自身の掌を重ねた。カノンは切なさに耐えきれなくなり片腕も胴に回した。フィアスは
まざまざと思い出される、二人して受けた罰の、馬小屋掃除のことを。
「熱い息ね」
「・・・いけませんフィス様。こんなところで」
「あなたの可愛い声、それを持ち出せただけでもワガママな贅沢よね」
「ん・・・」
「その
許可外の飲食物を欲しがり、また渡した罰を二人で受けた。皇族及び近衛師団長参謀総長馬が暮らす馬小屋の簡単な掃除である。馬は出されていて、やることといえば飲み水の取り換えや寝藁や草の整理と補充であった。馬糞も既に片付けられている。
見張り、というより付き人は一人だけで、かつて厩掛下士官をしていた顔見知りの庭師。遊びみたいな仕事の気安さから、入口で逆さに置いたバケツに腰掛け居眠りをしていた。フィアスは箒で庭師をつつき起きないことを確認した。
「だいじょうぶ、すっかり寝てるわ。休憩しましょ、カノン」
「フィスさまぁ、真面目にやらなきゃダメですよ」
「いいのいいの、王女の命令よ」
ふふんと無邪気に笑うフィアスは、くるくると箒を回しそっと投げ置いた。カノンは手を引かれると困惑した表情を残したまま渋々とついていく。フィアスは一番奥に積まれた干草の上に腰を下ろした。
「ほら、カノンもお座りなさいな」
「は、はい」
おずおずと隣に座る。側近と王女がこのように並んで座るという事はよくあったが、いずれも国宝級の調度品の椅子などで、干草の上で尻を共にするという事はない。一見して友達同士のようで、そんな風景なのに隣の女の子は世界で一番高貴なお方なのだ。
その高貴なお方がゴム長と靴下を脱ぎ裸足になったので、側近も倣って騎兵ブーツを脱ぐ。軽くなった脚の素肌に触れる干草が爽やかだった。
「涼しいわね、こうしてると」
「はいフィス様」
「カノンとこうすることができて、おしおきも悪いものじゃないわね」
「恐れ入ります」
「かしこまらないで。ここには誰もいないんだから」
フィアスは拳一つ分カノンに寄った。ぴったりとくっついた彼女は、心臓の鼓動を早くさせてじっとしている相手の腕を取り自分の肩に回した。カノンにとってはまったく予想できない事だった。
「ふぃ、フィス様」
「ねえ、肩を抱いて」
「そんな!フィス様のようなお方にそんな恐れ多いことを」
「そればっかり言うけど、お風呂だって時折一緒に入ってるじゃない」
「それは、ただただバスタブにご一緒させていただいてるというだけで、触れることもありませんし」
「命令よ、抱きなさい。ぴたりとね」
「・・・はい」
紅潮した頬に一筋の冷汗が伝った。初めて触れる肩は思ったより丈夫な骨格を想像させ、しかし肌は柔らかかった。フィスは幸せそうにもたれかかり、顎の下に割り込むように頭をすりつけた。鼻の下を透き通る金髪が、花のような香りを誇っている。カノンの思考は溶けかけていた。
「お父様がくださったご本、青春小説って分類らしいわ。それを読んだら色々なことを知れたの。例えば、世の紳士は愛する女性の肩をこうやって抱くんだって」
「フィス様⁉わ、わたしは紳士でもなければ、その・・・」
「あなたで試しちゃってごめんなさい。でも、そんな紳士は私には必要ないんですもの。だって、カノンそのものが・・・」
フィアスは少しだけ身体を離した。丸い目をぱちくりさせるカノンをわざと湿っぽく見つめ、もう一つのことをねだった。吸い込まれそうな瞳の奥、初めての緊張に紅くなる自分の顔が映った。
「もう一つお願いがあるの。これも、小説から知ったこと。ちょっと試してみたいの」
「な、なんですか」
「キスを知ってみたい。それも、恋人としての」
フィアスは素早く腕を解くと自分とカノンの指同士を絡ませ、押し倒す形で上に被さった。そっと顎を押し上げ唇親指でなぞる仕草、さも手馴れているように見せかける。
「こいびと・・・?」
「そうよ、恋人」
惚けた顔のカノンがフィアスから向けられる情熱の意味を知る前に、唇に軽い感触があった。最高級コロンの香りが脳を刺激し、白色の夢に思考は停止される。フィアスより細い薄桃のカノンの唇はたちまち虜にされ、グラマラスに艶を放つフィアスの口元離されると物惜しくなった。フィアスは小悪魔っぽく笑うと初めてのキスを深く味わうように、妖艶に紅い舌でカノンの名残を舐め取った。
「もっと欲しい?」
見透かしたようにフィアスは言う。なぞられる顎にカノンは少し悔しくなって、半開きの口から切ない抗議と疑問を漏らした。物欲しそうに眉を下げ、おあずけ食らう子犬のようだった。
「・・・いじめないでください」
「素直ね」
「なんでわたしを」
「恋してるからよ、ずっと前から」
「どうしてわたしに恋なんか」
「初めてあった時の、小さなあなたが凛々しく軍服着て指揮刀を掲げた姿、まるで王子様じゃない。幼い背を必死に伸ばして笑っちゃいそうになったけど、あの真剣そのものの顔、愛してしまうに決まってるわ。ああ、この方に命を託そうって」
もう一度、今度は長めの口づけを交わす。歯が当たり、離すと互いの舌先を透明な細糸が伝った。
「命に代えてもお護りしますって、言ってくれたわよね」
「生まれた時からこの命・・・フィス様に捧げています」
「命なんか要らない。心をちょうだい」
「ん・・・」
そうして再び、手慣れた気がして模索するように。
愛しているとフィアスは言った。しかし成長を経て大人としての恋愛行動を学んでも、思春期盛りの欲望に任せカノンを襲うことはなかった。彼女自身、同性では行為の結果が無意味になると信じていたし、恋人を傷つけることになると、いつかは別れなければならないことを納得していた。お互い将来は普通としてそれぞれ生きていくのだろうと。
だが傷つくか傷つかないかは結局経験がないので判然とせず、キスがエスカレートして多少きわどいスキンシップになることはしばしばだった。第一キスは、人目がつかないような物陰さえあれば素早く隠れて口づけを交わし、二人での散歩があまりにも増えたことに従者は首を傾げた。倉庫はもとより、休日の兵営や果ては水車小屋まで。池にボートを浮かべ、大きな軍用毛布を被って抱き合ってみたり。
熱の篭る汗いきれを感じながら、上半身くらいは脱いだりした。初めは首や肩、手から、身体中にキスの雨を降らす。それでも、昂ぶったカノンがズロースに手をかけることだけは抑えた。結局互いの裸体は入浴でしか目撃することはなかった。
「キスして」
カノンの指を口から離した。濡れた声にカノンは応じ、身体を離して手を絡ませた。
何も言わずそっと口づけをする。深くはならず、軽いキスを長く感じた。ほとんどの思考は止まり、相手の姿だけ漂うように溶け込んでいく。二人の間だけに、花の香りが流れてきて、まるで永遠を過ごしている、そんな気が。
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