第10話 恋をした
巾着に入れたハンカチを取り出すこともせず、溢れた涙をそのままにした。あれほど輝く花火も夜店の暖かな灯りも、もう私を照らしてはいないのだから。
私の手を引いて前を歩く悠真の姿は朧気で、でもそこに居るというのははっきりとわかる。力を入れなおすようにして、彼の手がぎゅっと私の手を握り、そこから微かな震えが伝わってきた。
だんだんと喧騒から離れ、それから辺りは完全な闇になった。どこまでも続く川沿いを歩くうちに、溢れる涙がようやく収まる。口を開けば零れてしまいそうな嗚咽をどうにか我慢しながら、いつもの自分に戻ろうと喉を鳴らす。
「ゆ、ゆう……」
かすれた声は、最後まで出なかった。
もう大丈夫だと伝えたくて、でも言葉にはならない。
悠真の足が止まって、私が少し遅れて足を止めた。ふわりと、何かに包まれた。ゴツゴツとした腕の力強さが、全てを受け止めてくれているような、そんな気がした。
「凛が弱っているときに……こういうことするのは駄目かもしれないけど、何か悩んでるなら、話してほしいなとか思うし、泣いてたら心配だし、元気になってほしい……」
ゆっくりと頭に手が触れて、撫でられる。再び溢れる涙とともに、嗚咽が漏れる。彼の肩に顔をこすりつけるようにして、そうせずにはいられない。
懐かしい感覚だった。
私が転んで怪我をしたこともあったし、悠真が転んで怪我をしたこともあって、その度にお互いこうしていた。傍にいてくれる人がいて、頭を撫でてくれる人がいて……暖かくて、痛みがなくなって、だから笑顔になれる。
男女の関係だからとか、お互いを好きだからとか、そういうのじゃなかった。恋も男女の違いも知らないただの幼馴染同士が、相手に笑っていてほしいから、お互いに支え合っていたに過ぎない。
「全然、駄目じゃないよ」
根っこのところで、それはたぶんお互いに変わっていないことなのだと思う。悠真が泣いていたら、私だって元気になってほしいなと思うだろうし、助けたい。
でも私にはそれ以上の気持ちがある。
可愛いと言ってくれて舞い上がる心も、抱きしめられて守られるような感覚も、伝わってくるぬくもりも、全てが特別なもので、手放したくない。独り占めしたい。
友達や幼馴染という関係で、それを望むのは変だ。
こんな私に、時間を取らせて、楽しい時間を無駄にさせてしまって、でも離れたくはない。
泣き疲れ、頭がぼんやりとして、離れたくなくて彼の浴衣を摘んで、顔をくっつける。どれくらいの時間が経ったのか、もうわからない。涼しい風が身体を撫でて、ようやく冷静に言葉を紡ぐ。
「ごめんね……せっかく友達と楽しんでたのに、ごめんね」
大きな手の平が頭の上に乗せられて、息を吸い込む音が聴こえた。
「そんなの、どうだって良い」
いつもより低くて、少し怖い声だった。
「凛が元気なほうが嬉しいし、だから悲しんで、苦しんでたら俺も辛いし……俺、頼りないかもしれないけどさ、傍にいるから、だから――」
「あんまり優しいと、私、勘違いする……」
離れようとして腕に力をこめるものの、悠真の腕にきつく力が入る。
「凛は小さくなって、可愛くなった」
私が小さくなったわけじゃなくて、悠真が大きくなったのだ。
でも、すっぽりと腕に収まってしまう今の状態に、小さく溶けてしまいそうな感覚に陥る。手触りの良い毛布にくるまっているような、この感覚がずっと続けばいいのにと思う。
「悠真は大きくなって……昔と全然違ってて……昔は普通に遊んでたのに、受験勉強を見るからという理由がなければ会いづらい気持ちになって、もう昔みたいには遊べなくて……」
「凛が高校に入った時、遠いなって思った。すごく大人に見えて、俺はすごく子供に思えて……終業式のあの日、すごく悩んでメール打ったんだ。だって、昔はなんて声をかけてたんだろうって思い出せなくて。でも、声なんてかけてなかったんだ。一緒にいることが当たり前だったから」
当たり前のことが当たり前じゃなくなって、もう随分と時間が経ってしまった。最初は、ほんの小さな違和感があった。距離が離れて、近付きたいけれど、近付けなくて、一緒にいるための理由を探して、それでも距離はどんどんと離れていく。
クラスメイトたちが、放課後遊びに行く姿が眩しかった。一緒にいる理由がたくさんあって、みんな楽しそうだったから。
貧乏だから。性別が違うから。年齢が違うから。
いろんな違いの積み重ねが、私と悠真の距離を、手の届かないものにしていく。その距離を縮めたいのに、接する度に違いが浮き彫りになる。一緒にいることが当たり前だったのだから、改めてその理由を探しても見つかるわけがない。
だから、そんな方法じゃ上手く行くわけがなかった。
「俺、一緒にいられる理由を探して……」
悠真はそこまで言って、口を閉ざした。頭で考えられることなんて、些細なことばかりで、どうしようもなくて、説明できることでしかない。
怖くないと言ったら嘘になる。胸の痛みがこの先消えるかなんてわからない。
汚い自分が、全てをさらけ出してしまったとしても、悠真はきっと抱きしめて頭を撫でてくれる。悠真は優しくて、私の胸の痛みも、私の後悔も、私の馬鹿な行動も、全てを包み込んでくれる。
そんなのは幻想かもしれない。でも、そうであってほしかった。
「理由なんていらない。理由がないと、こうしちゃいけないの? 私が泣いてないと、こうしてくれないの?」
恥ずかしいだとか、そんな気持ちはどこかに消えてしまった。
もう、離したくない。ただそれだけの気持ちで、彼の背中に腕を回す。
「理由なら見つけた」
「……教えて」
「俺にこうされてるのって、好き?」
「……嫌いじゃないよ」
「好き?」
嫌いだと言ったら、さっと離れてしまいそうな気がして、私はもうそれに頷くしかない。
「顔見せて」
「メイク、たぶんすごく崩れてる……けど……」
ゆっくりと、彼にくっつけていた顔を離して、少しだけ上を見る。私の顔はきっと変で、だから笑われてしまわないかとか、幻滅されるんじゃないかとか、そういうことが気になって仕方がない。でも、自分自身の汚さを、その瞬間だけは忘れられた。
「凛のこと大事だから、一緒にいたい。傍にいてほしいし、傍にいたい」
「……私もだよ」
「俺、男なんだ。可愛くて、手を繋ぎたいし、抱きしめたいって思うし、離れたくない。悩みがあるのなら支えたいし、苦しんでいるなら助けたい」
そうなのか……そうなんだ。そう思っていたんだ。
どこからどう見ても、悠真は男の人で、私はその先の、悠真が言わない欲望も知っている。昔のようには遊べない。男女だから、一緒に居られなくなったのだと、別々の生き物になっていくのが寂しかった。
でも、それで良いのかもしれない。それが良かったのかもしれない。
そうでなければ、こんな風にはできなかっただろうから。
「じゃあ……抱きしめて、離さないで。私も傍に……居たい」
枯れたと思った涙が、こんな時に出てくる。
ぎゅっと、悠真の腕に包まれて、ただそれだけのことで、胸の痛みが和らいでいく。浴衣を隔てた距離がもどかしくて、もっと近付きたいと、自分の腕に力をこめて、それでも足りなくて、彼を見上げた。
泣いている私を見て、彼はきっと少し、困ったような表情を浮かべていたのかもしれない。
「泣いている理由、聞いても大丈夫かな……」
「嬉しいから」
本当はもう理由なんてわからない。唇が重なって、目を瞑る。彼の体温がはっきりとわかって、頭も熱くて、身体から力が抜けていく。何か変な魔法をかけられたみたいで、意識がぼんやりとしてくる。
すっと、彼の唇が離れて、声が聞こえた。
「俺、凛のこと好きだ」
知ってる。もうわかってる。
抱きしめられている今だけは、胸の痛みを忘れられて、暖かくて、安心させられる。
まるで餌をねだるヒナのように私は上を向く。彼の手が私の頬を撫でて、唇に暖かいものが触れる。
自分がほしかったものが何なのか、私はその時になってようやく気付いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます