第8話 とがった石

 私の胸の中に、とがった石がある。

 あの日から、もらった二万円を使うたびに、胸の中でことりと転がって、鋭い痛みが奥のほうから広がる。


 ――好きかもしれない。


 そう思った途端、胸の中の石が跳ね回って、思わずしゃがみこんだ。


「どうした? 足痛くなった?」


 上から響く悠真の言葉に、首を横に振る。深呼吸をして、少しずつ気持ちを落ち着かせる。


「凛、大丈夫?」

 

 肩に手をかけられて、悠真が覗き込んでくる――前に、勢い良く立ち上がった。


「……大丈夫、ちょっと立ちくらみ。行こうよ」

「どこかで休んでく? 体調悪い?」

「大丈夫」


 納得できない表情のままの悠真から目をそらして、駅までの道を歩く。少し後ろからついてくる彼の足音を聞きながら、出来るだけ気持ちを冷静に、落ち着くように、胸に手をあてた。

 何も悪くない。秘密にしていれば、誰も何も思わない。

 浴衣を着て、お化粧をして、花火大会に行く。そのために必要なことだった。


 頭の中で言葉にすればするほど、それが本当に必要だったのか疑わしくなってくる。母親に相談したら、もしかしたらお小遣いをもらえたんじゃとか、ほんの数日、短期間のアルバイトくらいだったらできたんじゃないかと。


 一時間で二万円もらったのも、ただの仕事だ。母親にお小遣いをもらうのは心苦しいし、短期間のアルバイトをするくらいなら、一時間で二万円もらえたほうが効率が良い。いろいろな選択肢の中から、たまたまそれを選んだだけで、問題ない。


 浴衣は買ってもらったけれど、自由に使えるお金があれば、お祭りも楽しめるし、夏休みも、もっと悠真と遊べる……私、悠真と遊びたかったの?


 それって本当に大切なことなの? 

 もう、昔みたいには遊べないのに。

 

 好きになったからって、何かが変わるの? 

 悠真と私の距離は、八十センチ。つかずはなれずの微妙な空間は、気持ちだけでどうにかなるものだとは思えない。


 何のために、私は今ここにいるの?


「混んでるね」

 

 駅のホームを見て絶望の顔色を浮かべた悠真の言葉に頷く。

 車内はお祭りに行く人たちで混んでいて、先に乗った悠真に手を引かれて、なんとか乗り込んだ。すぐ後ろで閉まるドアの音とともに、周りの体重が一斉に押し寄せてくるのを身体を固くして待つ。

 けれども、一向に押し寄せては来なかった。私を包むようにして、悠真が目の前に立っていた。気付かないふりをして、私は特に関心のないことを尋ねる。


「今日って、悠真の友達も来るんだよね?」

「うん、男子三人に女子二人だけど……別に一緒に回る必要もないし――」

「大丈夫、普通に一緒で。ついてくから」


「凛がそれで平気なら……」と悠真が答えてしばらくしてから、目的の駅に着く。一斉に電車の中から人が降りて、駅の外に出るまでが一苦労だ。歩きづらい下駄も相まって、一気に疲れてしまうものの、暑苦しい電車の中から解放されてほっとする。


 悠真が友達に連絡を取り合って、近くのコンビニで待ち合わせすることになった。特徴的な入店の音と共に、冷たい空気が通り抜ける。普段あまりコンビニには入らないので辺りを見渡していると、悠真はスタスタと雑誌コーナーのほうに向かった。


 ファッションやテレビ番組や、旅行や、色々な雑誌の中で、夏の特集のタイトルが目立つ。旅行やデート、みたいな文字が気になってしまうものの、手に取る勇気が出ない。そんなことを考えていたら、悠真がちょうどそれに手を伸ばした。


 ぱらぱらと、雑誌をめくる音。気になって、覗いてしまう。

 

「凛は、水族館とかいってみたくない?」


 ページをめくる手を止めて、悠真がそう言った。小学生の頃、悠真の両親に誘われて、四人で行った記憶がある。電車で二時間ほどかかるけれど、楽しかった。

 魚やくらげや、ペンギンやイルカの写真が、広がっていた。ライトアップされた水の中は、写真だとしても、とても綺麗で……でも、入場料や電車賃のことを考えると、尻込みしてしまう。


 悠真に彼女が出来たとか、誰かと付き合ってるみたいな話は聞いたことがなくて、こういうところは付き合っている二人が行くようなところに思えて、私を誘って、楽しいのかな。

 私と、行きたいのかな……。


「綺麗だけど……」

「あのさ」


 悠真が私の言葉を遮る。


「別にお金とかは、気にしなくていいし、俺アルバイトしてたりとかしてて……」


 私が断る理由なんてお見通しで、でもお金以上に、私には受け入れられない理由がある。とがった石が、心の中を跳ねる。どきりとして、嬉しさを感じるたびに、鋭い痛みが走る。

 いくら否定しても、自分がとても、汚いものになってしまった気がした。悠真が頑張って貯めたお金で遊ぶ資格なんて、私にはないと思った。

 

「それは悪いから」


 何でもないように装って、痛みが治まってくれるようにじっと耐えて、そうしているとコンビニの入り口から声がした。


「あ、長峰ながみねはっけん!」

 

 ぞろぞろと店内に入ってきた彼らが、悠真のほうへ向かってきて、思わず悠真の後ろに移動する。『長峰くん』なんて呼んだことがないけど、悠真の名字だ。店内の時計を見ると、六時十五分。

 ちらりと彼らを見ると、男子三人と、女子が二人。女子はふたりとも浴衣を着ていて、男子は甚平を着ている人がひとりで、あとの二人は私服だった。


「暑い、もうコンビニから一歩も出たくない」

「何のために来たんだよ」

 

 悠真の前に来るなり座り込んだ男子を、後ろから来た男子が無理矢理立ち上がらせる。自己紹介とかしたほうが良いかな……。


「もう移動する?」


 女子の一人がそう言って、その子と目があった。その子が口を開く。


「あ、長峰くんのカノジョさん?」

「だから、幼馴染だって。ええと、こっちが一緒行くって伝えてた幼馴染で、同じ学校の一個上の先輩で、凛って名前。で、こっちがクラスの友達で――」

 

 私が否定する前に、悠真が少し慌てながら説明していく。

 暑くて座り込んでしまったのが藤下ふじしたくんで、彼を引っ張って立ち上がらせたのが黒須くろすくん。

 目があった女の子が糸永いとながさんで、その後ろにいる男の子が竹原たけはらくん。女の子が及川おいかわさん。一気に覚えきる自信がないけれど……。


「――みたいな感じで、まぁ適当に」


 おどけた調子で悠真が紹介を締めくくる。


「悠真の知り合いって言うから、男子かと思ってた。凛さんは……うちの学校の先輩なんですよね?」


 糸永さんがそう言って私をじっと見てくる。


「うん、ええと、沢谷さわや凛です。くっついてきました。邪魔かもしれないけど……」

「むしろうちらが邪魔じゃないデスカ? 長峰くん的に?」


 にんまりとした笑顔で、糸永さんが悠真を見上げる。くすぐったい恥ずかしさが込み上げてくる。というよりコンビニの中でこんなに喋っていたら注意されそうだ。


「邪魔とかじゃないから。ていうか、ここで話してもあれだし行こうよ」

 

 悠真がそう言って、みんなでコンビニを出る。

 自然と悠真は男子の友達の中に入って行って、私はその後ろからついていく感じになって、糸永さんと及川さんが私の隣に来た。二人とも足の爪にマニキュアを塗っていて、少しだけ後悔した。


「えと、私は恵未めぐみなので大体めぐって呼ばれてて、及川さんは愛華まなかだから大体か、まなちゃんって呼ばれてる感じで、先輩はなんて呼んだらいいですか?」


「え、大体……沢谷さんとかだけど……。じゃあ、恵未ちゃんと愛華ちゃんって呼んでいいかな? あ、あと敬語とか別に良いよ」

「それでお願いします! 敬語は……先輩だと思うと出てしまいそうですけど……」

 

 恵未ちゃんがそう言って、愛華ちゃんはこくりと頷いてくれた。

 高校では親しい友達がいないので、あだ名で呼びあったことがないかもしれない。小学生や中学生のときも、名前自体が短いから、『りん』か『りんちゃん』だったような気がする。


「うーん、沢谷先輩……だと、なんだかカタイです。あ、じゃあ、長峰くんからはなんて呼ばれてるんですか?」

「凛って……昔は凛ちゃんって呼ばれてたけど……」

「わぁ、なんかすごい……じゃあ凛先輩で!」

 

 恵未ちゃんが目をきらきらさせて私を見つめる。


「逆に、凛先輩は長峰くんのことなんて呼ぶんですか?」

「……え」


 幼馴染で、昔から呼んでいるから、その点に関して意識したことがなかった。こうして改めて聞かれると、言いづらい。


「悠真って呼んでるかも……」


 声が小さくなってしまう。変かもしれないと思い始めると、恥ずかしい。

 でも幼馴染の人だったら、こういう感じに呼びあってる人多いんじゃないのかな。私の周りで、幼馴染がいる人がいないからわからないけれど。

 横目で恵未ちゃんのほうを見る。


「まなちゃん、なんか凛先輩が……かわいい」

「めぐ、やめなよ……」

「えぇ……だって、長峰くんはきっとこう言ったんだよ。『凛、俺とお祭りに行ってくれ』って。そして凛先輩は……『私も悠真と行きたかったの!』みたいなやりとりがきっと……」


 声色を変えて恵未ちゃんが変なことを言い出す。


「言ってないよ、そういうの言ってないから。ただの幼馴染だから!」


 咄嗟に放った言葉が、思ったよりも大きくて、慌てて口をおさえる。


「えと、冗談です……!」

「めぐ、からかい過ぎだから」


 恵未ちゃんが少しわたわたとしたあと、まなちゃんに脇腹をつつかれる。

 前を見れば足を止めた悠真が振り向いていて――。


「な、なんでもないよ」


 そう言うと、コクコクと悠真は頷いて、再び歩き始める。


「調子にのってすみません。でも凛先輩、長峰くんのこと……って思って。すごく気合入ってるし、なんていうか、顔赤くなってますし!」

「なってないよ! そんなことなくて……昔から、よく遊んでるから、そう見えるだけかも……」


 気持ちを全部見透かされている気がして、恥ずかしい。


「うーん、わかりました。でも、ふたりきりに……みたいな作戦もできると思うので、頼ってください!」

「めぐが頑張ると先輩の迷惑になりそうだから私は何もしないほうが良いと思う……」

 

 笑顔だった恵未ちゃんの表情が、愛華ちゃんの一言で凍り付いた。 


「おとなしくしてます……」


 少し元気がなくなってしまった恵未ちゃんを気がかりに思っていたら、すぐに元気になって色々と話を始める。勉強のこととか、秋の文化祭のことを聞かれたり、クラスで悠真がどんな風だとか。

 

 花火会場が近付いて来る。お店の灯りと、大勢の人の影。いつの間にかあたりは薄暗く、あたたかな光景が広がっていた。

 話すこと自体が下手かもしれないけど、同世代の女子とこんな風に話す機会もなくて、少しだけ笑顔になれた。


 悩みごとや考えごとを、全て忘れて、今は楽しみたい。

 だって私は、今日を楽しむために――。

 

 とがった石が、まだ胸の中にあることだけははっきりとわかった。

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