第6話 祭りの前に
ゲームをしていたのに、胸の鼓動が抑えられなかった。緊張を笑顔と何気ない話で塗りつぶそうと頑張った。でも、昔のようには、上手く遊べなかった。
どこかぎこちない表情をする別れ際の悠真の顔を見て、はっきりとわかったことだ。
六時。まだ明るい中、いつものスーパーに向かって夕飯の食材を買って、帰宅する。洗濯物を取り込んで畳み、少しだけ部屋の中を掃除する。
夕飯は何を作ろうかと考えながら、勉強道具をテーブルの上に広げたものの、手元の携帯をただあてもなく弄ってしまう。
赤く染まり、暗くなっていく室内で、三日後のお祭りのことを考える。
浴衣を買ってもらった時、浮かれて、楽しみにしていたはずだったのに、どうしてこんなにもすぐ、気持ちが変わってしまうのか。
一緒に遊んでも、昔のようにはならない。そのことを知ってしまったせいだ。
部屋の灯りをつけて、台所で野菜を切る。キャベツとタマネギと、ニンジンとピーマンで、簡単な野菜炒め。
帰ってくる時間はいつも遅いから、ご飯を炊いてひとりで食べる。テレビをつけて、笑っている芸能人を見るものの、その会話は頭の中に入ってこない。
悠真はずるい。
勝手に大きくなって、男の人という、得体の知れない生き物になってしまった。だから、前みたいに話しかけにくいし、前みたいに遊びにくいし、どう接していいかわからなくなる。
鏡を手にして、その奥を見つめた。前髪を少し切ったほうが良いかもしれない。
高校になって長く伸ばし始めた髪が、肩に触れる感触には、もうすっかり慣れた。細い肩と、筋肉のなさそうな腕、膨らんだ胸を意識してしまう。私も、何か得体の知れない生き物になってしまったのだと、気付いた。
お金があれば、あの憧れたクラスメイトたちのように、誰かと楽しく過ごせると思った。浴衣を着て、お化粧をして、お祭りに行って、悠真と楽しく過ごせると思った。
楽しみに三日後を待つだけで良いのに、昨日の彰人さんの姿が、悠真に重なった瞬間を思い出して、吐き気がしてくる。
病気かもしれない。あんなことをしたから、頭の中がおかしくなったのかもしれない。
夜の十時過ぎ、帰ってきた母はどこか不機嫌な感じがした。夕食を温めてテーブルの上に運ぼうとしていると、早くお風呂に入りなさいと言ってきた。頷いてから、花火大会のことを言っておかなければ、と思い出す。
「お母さん、二日の花火大会、行ってきてもいい?」
母がタバコに火をつけて、匂いと煙が部屋に広がった。
「そうね、あまり遅くならないように。勉強はちゃんと――」
「してるよ。ちゃんとしてるから」
お風呂からあがったあとは、タバコの匂いが嫌で、隣の部屋に行く。お布団を二人分敷いて、携帯をいじる。『幼馴染』という言葉をネットの検索欄に入れて、少し考えてから空白を入れて『男の子』と続けた。
『幼馴染の男の子から告白されたけど、どうしたら良いでしょうか』という内容の文章を読む。相談事で、私と同じ高校生で、返事に迷っていると書かれていた。
色々な人たちの回答を少しだけ読んで、携帯を置く。
好き、ってわからない。
好き、ではない。
別々の生き物なのに――昔のように――と考えていた私が、おかしかった。私が悠真に「友達と遊んできなよ」と言ったように、私も同年代の同性と遊ぶことが自然なはずで、だから楽しく過ごすためには、終業式の日、あのクラスメイトの中に入って、話して、遊びに行ったほうが良かったのだ。
小さく、テレビの音が聞こえる。もうすぐ零時だった。
ぐるぐると考えることをやめて、目を閉じた。
お祭りまでの毎日はいつもどおり。午前中は家で勉強して、お昼からは図書館で勉強して、夕方からスーパーに買い物に行って、そのあとは家のことをする。
考えることをやめれば、お祭りは楽しそうだと思うことができた。商店街のポスターを見て、花火の光景を思い出す。
浴衣の着方を調べて、慌ててスポーツブラを買いに行った。普通の下着だと、浴衣の上から線がかなり目立ってしまうらしい。実際のところはわからないけれど。
必要なときに必要なものが買えるって、素晴らしい。
頭の中で計画を立てる。当日は七時過ぎから始まるので、準備のことを考えると悠真の家には夕方より少し前には向かったほうが良いかもしれない。
心の中で混ざり合った理由のわからない嬉しさと不安が、ぐるぐると私の胸をかきまわしていた。
お祭りの日、悠真の家に向かう。インターホンを鳴らすと、悠真の母親がにこにこと出迎えてくれた。
「あら、凛ちゃん。ひさしぶりね」
「おひさしぶりです。あの、お祭りで――」と伝えると、話が伝わっていたようで、どうぞと言われる。
その前に、浴衣のお礼を言わなければ。
「浴衣とか、ありがとうございます」
頭を少し下げて、それから悠真の母親を見る。
「……ええと、浴衣って何かしら?」
予想していなかった言葉が相手から出てきて、言葉に詰まる。「気にしないでいいのよ」みたいな、そんな言葉が返ってくるはずだと思っていたのに。
「悠真くんに、受験のときのお礼でって、この前浴衣を買ってもらって……。親から言われて、お金ももらったって言ってたので……違うんですか?」
にこにことした表情を張りつかせたまま、悠真の母親が「ええと」と考え込む。その表情を見る限り、浴衣のことなど知らなかったようで、気まずい。
じゃあ、あのお金は――。
「あ、凛来てたんだ。あがらないの?」
悠真の声が聞こえた。ちらりと、悠真の姿が玄関の奥のほうに見えた。
「か、勘違いだったみたいです。すみません。お邪魔します」
そう言って足早に玄関に入った私の耳元に、悠真の母親の声が小さく響く。
「ええと、悠真……夏休みに入ってから少しの間、アルバイトをしてたみたいだから、きっとそれね」
「そう、なんですね」
悠真のあとについて部屋に行って、浴衣と化粧品の入った袋を手に――どこで着替えよう。そう悩んでいると、「凛ちゃん着付けしてあげるからいらっしゃい」という悠真の母親の声が聞こえた。
悠真の顔を見る。
「なんか、凛がうちで浴衣着るって伝えてから、うちの親テンション上がってる」
「……うん、いってくる」
悠真の両親の寝室に案内される。しばらくして悠真の母親が戻ってきた。
「おばさん、なんかすみません」
「こっちも楽しいから良いのよ」
浴衣を取り出すとおばさんが近付いてきて、今の浴衣は可愛いねと、それを手に取った。服を脱いで、携帯で調べたら和服用の下着もあるみたいだったけど、スポーツブラでも平気だと書いてあったので、一応それをつけている。
浴衣の袖に腕を通して、そこからはおばさんが手伝ってくれた。一枚の布を綺麗に着るのは難しくて、手伝ってもらうことが出来て良かったと、心の底から思った。
「うん、これでいいかしら」
私の周りをぐるっと回ってそう言ったおばさんが、「次は髪ね」と言って、私を鏡台の椅子に座らせた。楽しそうな表情をしていて、断り辛くて、私は頷くしかなかった。
でも、言わないといけない。
「あの、メイクしたいって思ってて……」
立ち上がって、ドラッグストアの袋の中身を取り出す。どう思われるかとか、必要ないとか言われるんじゃないかとか、そんな緊張は一瞬で消えた。
「あら、じゃあそっちからね」
できるだけ自分でしようと思って、でもアイラインが上手くいかない。美術の時間で絵具を上手く塗るのが苦手な、自分の不器用さを思い出す。そこだけをおばさんに手伝ってもらって、なんとかメイクを終わらせる。
「母さん、凛の準備まだ?」
部屋の外から悠真の声が聞こえた。
「まだよ。お祭りまで時間まだあるでしょ」
「はーい」
遠ざかっていく足音を聞きながら、心臓が一回だけ跳ねた。この顔を見られたら、悠真にどう思われるだろう。おばさんの手が私の髪に触れて、ゆっくりと櫛が流れていく。心地がいい。
「左右を小さく編み込んで、後ろでおおきく三つ編みを作ってお団子にしようかなって思ってるけどどう?」
「えと。おねがいします」
どう? と言われても、そんな髪型をしたことないのでわからない。いつも降ろすか結ぶかで、でも携帯で見た浴衣のモデルさんたちは、髪をアップにしていたから、そんな感じになったらいいなと思う。
「久しぶりだからごめんね」とおばさんは言いながら、何度かやり直しをしつつ、なんというか、絵本の中のお姫様っぽい髪型が完成した。横を向いたりして、後ろにできた三つ編みのお団子を眺めて、口が緩んでしまう。
最後に小振りな水色の花飾りをお団子につけてくれた。3本の細いワイヤーにビーズが通してあって、涼し気に、さらりと揺れる。
「やっぱり似合う。良かった」
もしかして、わざわざ用意してくれたのだろうか。そんな思いが頭を過ぎる。
「色々すみません、ありがとうございます」
「凛ちゃんも大人になったのねぇ。昔は『おばちゃんありがとー』みたいな感じだったのに」
少し笑いながら、おばさんが鏡越しに私を見つめていた。少し遅れて、自分の姿を見つめる。
最後に悠真とお祭りに行ったのは中二の夏。
その時の記憶が、脳裏によみがえった。
あたたかな夜店の光が連なる中、華やかな浴衣で着飾った人たちが、楽しそうに歩いている光景を。
空に広がる、火花の光景を。
ぼんやりとした記憶の中で、悠真が言った言葉だけが、はっきりと心の中に残っていた。
「凛は、浴衣着ないの?」
それは何気なく、たぶん周りの人たちと私を見比べて、ただなんとなく、言った言葉なのだと思う。
でもその言葉を聞いて、そのとき、はじめて周りの姿に憧れた。
「いつか、着てみようかな」
「うん、凛が着てるの見てみたい」
同世代の男子は幼く見えて、ひとつ年下の悠真の言うことなんて、少し気になったことがあったとしても、聞き流すことがほとんどで、深く考えたことなんてなかった。
それなのに、今になってその言葉を思い出してみれば、自分の気持ちがそのころから脈々と続いて、今もまだ、細長い川のように流れ続けていることを知る。
キラキラと輝いていた、憧れたあの姿を、悠真に見てもらいたい。理由なんて、わからない。
「悠真はちゃんと着れたかしらね。あ、お祭りに行く前に写真撮ってもいいかしら?」
「……はい」
立ち上がって、初めて着た浴衣に戸惑いながらも、足を前に出す。歩きにくい。化粧道具や携帯やお財布を巾着に詰め替えて、改めておばさんにお礼を言う。
「気にしないでね、私がしたかったことだから」
悠真のところに行かないといけない。部屋を出るドアに向かおうとするものの、遅く歩いてしまうのは、浴衣だけのせいじゃない。
ドアを開けて、廊下を見て、誰もいないことにほっとした。でも、ひとりだと行けそうにない。
振り返ると、おばさんが使った櫛や道具をしまっているところだった。
「おばさん、あの、一緒に……」
締め付けられた帯のせいか、上手く声が出てくれない。
「あれ、もしかして恥ずかしいの?」
「いや、そういうのじゃ……」
からかわれているのがわかった。少しおどけた様子のおばさんの言葉を否定しようとする。でも勇気が出ないし、足も進まないし、声も出ない。顔が熱くなる。
こんな生き物じゃなかったはずなのに、私は、こんな生き物になっていた。
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