第4話 浴衣えらび
母の化粧道具の中からメイク落としを見つけて落とす。鏡に映された素顔を見て、少しだけほっとした。――元に戻らなかったらどうしよう――普通に考えるとそんなことはないはずで、でもそんな焦りが胸の中に渦巻いていた。
使ったことがばれないと良いなと、少しだけ減った容器の中身を眺めてから、夕食の準備に取り掛かる。
昼間に見ていた浴衣のページを開く。もらった二万円は母親に見つからないように鞄の中に隠した。どんなのが良いだろうと眺めながら過ごしていると、悠真からのメールが届いた。
『明日の朝、十一時くらいにそっちに行っても良い?』
『良いけど、どうしたの?』
『浴衣買いに行きたい』
男の人は甚平みたいなイメージもあったけど、浴衣も綺麗かもしれない。それに、私も見てみたかった。実際に見たほうが選びやすい気がした。ネットで買ったら届くまでに時間がかかってしまいそうな気もする。
『良いよ』
『じゃあ、十一時に行くから』
悠真からの最後のメールが帰ってきて、携帯を置く。
いつからだろう。着る服を気にしだしたのは。メイクした顔を見せたら、悠真はどんな風に思うだろう。頭を振って意識を切り替える。
幼馴染って、よくわからない。
友達のように思えるし、親友のようにも思えるし、家族のようにも思える。兄弟姉妹がいないのでわからないものの、もし弟がいたらあんな感じなのかもしれないと、昔は思っていた。
気を張ることなく、自然に会うことができる相手だと思っていたのに――どう見られるのだろうということが気になって仕方ない。
着ていく服のことを考え出すと、明日出掛けることが憂鬱になってくる。
次の日の朝、母を見送ってから、部屋にかけた制服のスカートを手に取って、顔を近づける。匂いが残っているような気もしたし、でもよくはわからない。濡れたタオルで叩くようにしたけど、クリーニングに出してしまいたい気持ちもある。
いつもより念入りに歯磨きをして、洗濯物を干す。
暑くなってきた部屋の中で私は手に取った水色のワンピースに着替えた。ワンピースは探せば安いものがあるし、上下を買わなくて良いし、着るもの簡単だし、涼しいし、良いところばかりの服だと思う。
そろそろかなと思う頃玄関のチャイムがなって、ドアを開ける。悠真が立っていた。
「準備できてる?」
「うん、できてるよ」
駅前のデパートで探そうよ、という悠真の言葉に従って、歩きなれた道を並んで歩く。
横目で隣を歩く悠真を盗み見た。骨張った手や、力強そうな腕、首筋。ほんの些細な違いだけど、それらは悠真が男の人なのだということを訴えてくる。
いつもより距離を取ってしまう自分がいて、それが少し悲しくなった。
こんな風に出掛けるのは久しぶりのことで、昔はいつだって何も考えずに、適当に話して、適当に遊んで、それが楽しかったはずなのに。
「宿題順調?」
聞かなくても大体わかっていることを、私は尋ねた。
「えっと、それなりに」
少しの間をおいてそう言った悠真は、私と目線を合わせようとしない。悠真はいつも通りの夏休みを過ごしているようで、何も変わっていない。
ほっと息を吐き出して、でも良くわからない緊張が続く。
デパートの中に入って、浴衣のコーナーを遠くに見つける。売り場を通り抜ければ、他に欲しいものが目に入ってくる。服や下着だけじゃなくて、化粧品も、アクセサリーも、小物も。お金を持っているせいか、いつもは素通りしてしまうところに、目が移ってしまった。
けれども、浴衣が優先だ。
「悠真は、甚平とかは着ないの? 浴衣が良いの?」
そう言って男性向けの渋い色をした浴衣のほうに足を運ぼうとしたら、悠真に引き止められた。
「凛の選ぼうよ。去年勉強とか教えてもらったしさ、お礼って言うか――凛が前、浴衣もってないとか言ってたし……今日、浴衣、凛の分も俺が買うから」
「え、それは悪い」
「悪くないって。というか親から、世話になったんだから何かお返ししときなさいって、軍資金ももらってるし……」
悪い気がしてくる。
家庭教師をしっかりできるほど頭は良くないし、教えたというより手伝ったというか、さぼらないように見張るというか、そういうことしかできていないように思う。
それに昔から悠真の親にはお世話になっているし、小学生の頃はとくに、私は悠真の家族に混ざって遊びに連れて行ってもらったことも多い。
たくさんお世話になっているのは、きっと私のほうだろう。
「……お小遣いもらったし、私も買うつもりで来たから」
「それはほら、何か好きなの買えば良いじゃん。とにかく今日はお礼ってことで」
こんなに頑固だったかな。と違和感を感じながら、どうしようと悩む。悠真の顔が困っていた。……頷いておこう。
「うん……ありがと」
「良かった」
一瞬で笑顔に切り替わった悠真が、女性用の浴衣のコーナーに向かっていくのを追いかける。たくさんある中で、どれが良いかなと見比べる。周りにも私と同じように浴衣を選ぶお客さんの姿が見えた。
色とりどり、様々な柄の生地を前にして、悩んでしまう。暗めの色が良い、明るめの色が良いか、どんな柄が良いか。
「どういうのが良いのかな」
思わず口に出た独り言に、うーんと唸りながら、売り場を眺めていく悠真。明るい色で、涼しい感じのものが良いかもしれない。値段も四千円から八千円くらいで幅広い。
水色に、淡い紫色の百合の花が散った浴衣に手が伸びる。涼しく見えて、綺麗かもしれないと思った頃、悠真が背後から声をかけてきた。
「これとかどう?」
悠真が手にした浴衣を見る。淡いクリーム色の生地に、ピンクと水色の朝顔が咲いていた。鮮やかな色の線が入った、朱色の帯が目を引いた。
「似合うかな?」
「どういうの好きとかわかんないけど、可愛いと思う」
その言葉に、体が一瞬だけ固まってしまう。
「あ、でもそっちも良いかもね」
私の手にした浴衣を見て、悠真はそう言った。
別に私が可愛いと言われたわけじゃなくて、例えそう言ったとしても、悠真の『可愛い』は、そういう意味じゃない。
いつからだろう。その言葉のひとつひとつに、意味を探すようになったのは。
悠真の背が私を追い越したときからだろうか。昨日の出来事のせいなのか。今朝からか。
公園でくたくたになるまで遊んで『凛ちゃん』と呼びかけてきていたあの頃から、何も変わらないはずだったのに。
手にしたものを売り場に戻して、悠真の持ってきた浴衣に手を伸ばす。
「悠真が持ってきたのにする。アサガオ、可愛いね」
黒塗りに白い緒の下駄がセットになっていた。巾着も選びなよという悠真の声に従って、淡い桜色のものを選ぶ。悪いなと思う気持ちもあるけど、悠真の様子というか、『巾着も』という言葉から、さっき聞いたとおりに悠真の母親が後ろにいることは間違いないような気がして、もう良いかと、好意に甘えることにした。
自分の着る浴衣を五分で選んでしまった悠真は、紺色に白い波模様の入った浴衣を手にして「これかなー、適当でいいか」と、買い物カゴに入れた。
「え、ちゃんと選びなよ。時間あるし」
「選んだから大丈夫だよ」
そう言ってレジに向かって、お会計をする。適当に選ぶなんて、もったいない。袋を二つに分けてもらって、その二つを右手に下げた悠真が「これでお祭りの準備はできた!」と楽しそうに笑った。
つられて笑ってしまう。
「なんかごめんね。ありがと」
「大丈夫だって、でもお腹減った」
携帯を見ると、もうすぐ一時だった。
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