第3話 二万円

 熱くなった顔を誤魔化すようにして、鏡に目を落とす。留めていた髪を降ろして、息をゆっくりと吐きだした。

 口元が上がってしまうのが恥ずかしくて、でも鏡を見てしまう。

 自分で可愛いと思ってしまうのは変だろうけど、それでも前より、私は可愛くなっているような気がした。


「ありがとう」

「全然いいよ。あ、化粧落とすときは化粧落とし使わないと取れないから気を付けてね。凛のママもってるだろうから借りると良いよ」

「うん」


 お手洗いを借りてから戻ると、彰人さんと由依がこっちを見つめてきた。座っていた場所に戻って部屋の時計を見る。五時になっていた。


「あのさ、凛ってお金困ってない?」


 唐突な由依の言葉に、言葉が詰まる。室内に目を泳がせながらも、なんとか言葉を紡ぐ。うちは貧乏だし、お小遣いもないし、欲しいものも買えない。お年玉をもらったこともないし、旅行に行くこともない。

 それはあまり、人に言うことじゃない。


「……困ってないよ?」

「化粧品とかって、全部そろえたら一万くらいするし、お小遣い稼ぎとか興味ない?」

 

 テーブルの上に広げられた化粧道具のことを思い出して、それくらいで揃うのかと思った。けれどもすぐに、そんなにするんだという気持ちが込み上げる。

 必要じゃないことに、そんな風にお金をかけるのは、悪いことをしているようで……どっちみち、私は親に勉強を頑張りなさいと言われているから、働くのは無理なことに気付く。


「今年アルバイト駄目って親に言われてて……」

「大丈夫。バレないから。というか、どっちかというとバレたら良くないから? 時間は一時間くらいで、一万円なんだけどしてみない?」

「……何するの?」


 あまり思い浮かべたくないことを、必死に頭の中から追いだそうとした。由依と彰人さんの関係が、想像できなかったわけじゃなくて、考えないようにしていたことに気付く。テレビのニュースで時折見かける、自分とは関係ない世界が、ここにあるのだということが、信じられなかった。


「ぷちだよ。彰人がさ、凛はそういうのしないかなって今言ってて。ほんとは私がする予定だったけど、譲っても良いよ?」

「凛ちゃん可愛いし、イチゴでどう? 嫌なら良いから気にしないでね。由依が、凛ちゃんがお金とか困ってるかもって言ってたから」


 由依の言葉に続いて、彰人さんが口を開く。ぷちって何だろう、イチゴってなんだろうと思っている間に、由依が言葉を続ける。


「えっとね、男が出すまで、口とか手でするだけだから。というか凛、わかる? 入れるのはなしだから安心だよ」


 そこまで聞いて、ようやくなんとなくわかった。気付きたくなかっただけなのかもしれない。頷くものの、それは、してはいけないこと。


「わかるけど……だめだよ。あの、由依はそういうのしてるの?」

「してるよ。でもさ、時間かからないし、慣れると楽だし、誰にも迷惑かけないし」


 夢の中のことのようで、現実感のない言葉が飛んでくる。

 小学生の頃の由依は、もういない。

 

「一万五千だってさ。するなら、私一緒にいてあげるし」


 その金額を聞いて、お昼に携帯で見た浴衣のことを思い出す。浴衣を買って、お化粧もできる。けれど、買った後親には何と説明したら良いだろう。隠して誤魔化せば、気付かないだろうか。

 お金をもらうことを前提に、そんなことを考え始めた自分が恐ろしくなった。


「か、簡単……? 手とか、口とかで……?」


 男の人がそういうことをしたがるとか、聞いたことはあっても、実際にどういうものかは知らない。


「うまくできなくても良いよ。俺、初々しい子好きだし、それに凛ちゃん制服だし」

 

 彰人さんが私にそう言うと、由依が呆れた顔で続いた。

 

「ほんと彰人は変態」

「なんでだよ、男はみんな変態だろ」

 

 二人は慣れているのだろう。

 私にとってはすごく大きなことで、すごく勇気が必要なことで、やっぱりやってはいけないことだと思う。

 それでも、お金があったら……メイクして浴衣を着ている自分を想像してしまう。色々と好きなだけ夜店の食べ物を買えるかもしれない。周りの人に気を使ってもらわなくても大丈夫になる。

 終業式の放課後に、楽しそうにこれからの夏のことを話すクラスメイトたちの姿が、はっきりと頭の中に浮かんだ。


 私の知らない、その先に広がる世界を見たい。


「私、六時までには出ないと、スーパーに行って夕飯の支度しないといけなくて」

「そんなかからないよ。六時までって約束でも良いし、どうする? 嫌だったら、帰って大丈夫だよ」


 そう彰人さんが答える。

 帰って大丈夫、という言葉が心の奥底に沈んでいく。メイクしてもらったし、帰って、母親に見せたらどう思われるだろう。そんな余計なことを考えて、決まっている結論を口にするタイミングを、ほんの少しだけ先延ばしにする。少し我慢すれば、お金がもらえるという言葉に、私は立ち上がることができない。


「あの、どういうことすれば……もらえるの?」

「手で握ってもらって、なんていうか動かしたり、あと口で咥えてもらったり――あれ、引いちゃった? ミスったかな」


 別に子供ができるわけじゃない。誰にも迷惑はかからない。親しくない人でも手を握ることはあるかもしれないし、それと同じだ。


「します……」

「大丈夫? というか、言わない方が良かったかな」

「大丈夫、です」


 そう短く答えると、由依が立ち上がって彰人さんの隣に座る。


「じゃあほら、彰人出しなよ」

「ムードないな」

「彰人がムードとか、ありえないんだけど。凛、こっち来て。っていうか見るの初めてだよねたぶん」


 近付くと、由依が私の右腕を掴んで、ソファーに座った彰人さんのグレーのハーフパンツのほうに誘導する。そこに何があるのかを知識では知っていた。けれども、不安になる。

 ゆっくりと私の腕が誘導されていく。

 女子にはない変な感触が手に伝わってきて、思わず手が震える。幼いころに男子のを見たことはあっても、何かついてる、くらいのぼんやりとした記憶しかない。


「ていうか、凛はほんと経験ないんだよね?」

「ないけど……」

「じゃあ、ここ。あるのわかるでしょ? ていうか、あと彰人が指示したほうが良いんじゃない?」

「かな。じゃあ、触ったままで、俺の足の間に膝立てて座ってよ」


 彰人さんの言葉に従って、ソファーの前に座る。膝を絨毯につけた状態で、そうしているうちに手の平に何かが当たる感触が強くなっていく。

 私の右手を彰人さんが捕まえる。ごそごそと彰人さんがジッパーを下げると、見たことのないものが視界に入った。


「握って」


 彰人さんの言葉に従って、指先で少しだけ触れて、ゆっくりとそれを言われた通りに握る。伝わってくる体温が気持ち悪くて、血の気が引いていくような感覚になる。


「あの、どうしたら」

「そのまま動かして」


 彰人さんが私の右手に手を添えて、上下に動かす。手の中のそれが、大きくなっていくのがわかる。熱くて、人の身体にあるものだとは思えない。手の中に収まらなくなってくるそれを見て、息が止まる。石のように硬い。


 しばらくそうしていると、彰人さんが私の後頭部に手を当てる。その意図を察して、視界一杯に広がる物体の、その先に口を付けた。

 口の中に含んだり、舐めたり、と言った彰人さんの言葉に従って、口を動かす。こんなに大きいものが下に入るのなら、初めてが痛いという噂も、なんとなく理解できた。


「凛、慣れてきた?」 


 由依の言葉に顔を上げる。急に恥ずかしさが込み上げてきて「わからない」とだけ答える。


 実際、わからない。

 本当にこれで、男の人は気持ちいいの? 嬉しいの? 変な味と、変な匂いと、時々彰人さんの身体に力が入るのがわかる。

 

 しばらく続けていると突然、頭を両側から掴まれた。その途端、くわえていたものが奥にまで入り込んでくる。混乱して頭を上げようとするものの、腕が頭を押さえつけてきて逃れられない。息ができなくなりそうで、声が漏れる。


「ちょっと彰人、それ苦しいってば」

「ごめん、もうすぐだから」

 

 由依の非難するような声と、彰人さんの苦しそうな声。

 それからすぐだった。口の中にあたたかい大量の何かが入ってくると同時に、彰人さんの動きが止まる。苦くて変な味が、口の中に広がる。

 押さえつけられていた頭が解かれる。逃げるようにして頭を上げて、慌てて口をおさえる。辺りを見渡して、飲み干したアイスコーヒーのコップに吐き出そうと思ったものの、耐えきれなくてそのまま吐き出した。慌てて手の平で受けると、白くてどろりとしたものが目に入った。

 由依からティッシュを受け取って、手に着いた液体を拭き取る。皮膚にしみこんでいくような感触と、口の中に残る液体の感触を、どうして良いかわからない。


「あ、スカートに落ちてる」


 由依がそう言って、スカートに落ちたものを拭き取ってくれた。けど、染み込んだ気がする。初めて嗅ぐ匂いに、頭の中がぐらぐらと揺れる。


「ごめんちょっと……」


 立ち上がって洗面所に走って、手を洗って、口の中をゆすぐ。二十回ほどゆすいで、それでも変な味と匂いが取れた気がしない。


「大丈夫? ってか口の中にいきなり出すとか、彰人ひどくない?」

「ごめんごめん」

「私じゃなくて、凛に謝らないと」


 部屋のほうから聞こえてくる二人の会話に、ひどいことをされたのか、と考える。でも、普通がわからない。本当は、苦しくないのかな。頭の中が混乱して、何も考えられない。

 洗面所から出ると、彰人さんが近付いてきた。


「ごめん。苦しかったよね。これ約束してたお金。五千円多いのは、最後悪いことしたからお詫びってことで」


 一万円札が二枚、私の前に差し出される。


「……良いんですか?」

「いや、最後悪いことしたから、ほんとごめんね」

「……はい。ごめんなさい、びっくりして」

「凛ちゃん好きだからさ、困ってたら連絡してよ。由依経由でも良いし」


 お札を受け取って、私は何といえば良いのかわからなかった。お金持ちの人なのかな。こんなにお金をもらって、大丈夫なのかな。


「帰ったら歯磨きしたほうが良いかも。結構残るよね」


 由依の言葉で、我に返る。


「私、帰らないと」

「……大丈夫? ごめんね。今度は二人で遊ぼうよ」


 由依が私を覗き込んでそう言った。

 私が選んだことだし、お金ももらったし、何も問題ない。少し申し訳なさそうな顔をしてる由依の姿を見て、自分が悪いことをしているような気がした。 


「うん、ごめん、平気。すごくお金もらったし」


 時計の針が、六時に近付いていた。おまけしてもらって、追加でもらったのもあるけど、時給二万円の仕事なんて、普通はない。

 買い物袋とお財布を手にして、玄関に向かう。


「凛ちゃんまた」

「またね」


 そう言う二人に頷いて、私は部屋を出た。

 二人の気楽な言い方が、私がしたことの重さを打ち消してくれるような気がした。特に気に病む必要もない、普通のことをしただけ。そう思える気がした。


 夕飯の買い物もそこそこに、家に帰った。飲み込んではいないはずなのに、胃のあたりがむかむかするようで、我慢できずにトイレに駆け込んだ。


 すごくたくさんのお金をもらえたのだから嬉しい。男の人も、これだけ払っても良いくらい、嬉しかったに違いない。

 だからきっと、これは何も悪くない。

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