第2話 お化粧をして
図書館で勉強をして、家のことをして、あとは暑さにぐったりとする毎日が過ぎていく。
そんな中、再び悠真からメールが来た。四日後の八月二日の花火大会の誘いだった。
去年は悠真が受験で、その前は私が受験だったため、最後に花火を観に行ったのは、もう三年も前のことだ。別にひとりで行っても良かったはずだ。でも、母が苦労している中でひとりで遊びに出かけることに、気が引けてしまったのもあるし、余計なお金を使うことに抵抗もあった。
しばらく悩んだ末に『友達といってきなよ』と返せば、即座に返信が返ってきた。
『友達も誘ったけど、凛も一緒に行こうよ。花火の日、予定ないよね?』
最後の文には、頷くしかない。私が混じって、浮いてしまうのではと考えるものの、そうなったら途中で帰れば良いかなとも思う。友達と遊ぶついでに、私を誘ったのかもしれない。そう思えば、いくらか気が楽になった。
友達は、悠真のクラスメイトだろうか。そのことに心のどこかで安堵しながら、了承の返事を返した。
花火大会は見るだけなら無料だし、綿菓子とか、たこ焼きとか、食べたくなるものは多いけれど、気温の下がった夜に川沿いで、空を見上げたときのことを思い出すと、心が少しだけ踊る。『当日夕方に迎えに行くから』というメールが悠真から届くころには、少し楽しみになっていた。
図書館やスーパーの買い物は、大体制服で通している私も、流石に花火大会に制服で行く勇気はない。
けれども、着古した私服が多い。着ていく服がない。夜だから、そんなに気にしなくても良いかもしれない。
自分の服を漁ってみる。下着のサイズも合わなくなってきて、でもこれはあと三ヶ月は我慢できるような気もした。――あと三ヶ月我慢できる――を四回繰り返して、一年にしてしまうこともあった。
一通り漁って、ため息が出る。
携帯をいじって『浴衣 値段』で調べることにした。四千円から一万円くらいでいろいろと出てくる。普通の服を揃えるより、四千円で浴衣のセットが買えるのなら、こっちのほうがお得だと思った。母に頼めば買ってくれるかもしれない。
でも、四千円あればとても豪華な夕食が作れる。というより使い切れないだろう。
浴衣なんて買っても、お祭りのときに着るくらいしかできない。そもそも、私の服なんて別に誰も気にしない。私がただ着てみたいだけなのだ。お金がないくせに、私は見栄っ張りなのかもしれない。
母に言ってみるべきかどうか、迷いながら、結論は出ない。時計は三時を少し過ぎていた。
夕ご飯の食材を買いにいこうと、お財布と買い物袋を手にして家を出た。駅前の繁華街を歩いた。お店がたくさん並ぶ中、ゲームセンターの入り口に集まる女子たちの姿を、思わず見つめてしまう。
「あれ、凛じゃない?」
別のところから声がして振り向く。明るく色を入れた髪、長いまつ毛、整えられた眉。笑顔で私を見る目。その笑顔はあの頃のままなのに、私とは世界が違う生き物のように見えて、十秒ほど考えてからようやく言葉が出た。
「もしかして、由依?」
「だよ。ひさしぶり~。何してるの?」
小学校で仲の良かった同級生だ。別々の中学になってしまってからは、会う機会もなかった。
「夕飯の買い物だよ。ほんと、すごく……ひさしぶり」
私はどう見られただろう。髪も黒いままで、昔よりは長く伸ばしているけど、でも変化と言えばそれくらい。
「へぇ、偉いね。って、メイクとかしてない? したら絶対可愛いのに」
「え、してないけど」
「しないの? 学校厳しいとか? でも夏休みでしょ? 私がしてあげよっか?」
話す内容は変わっても、性格は変わらない。由依は昔から、可愛いシールやレターセットを分けてくれたり、髪留めやシュシュを『これ絶対可愛いからあげる』みたいな有無を言わさない勢いで手渡してくることもあった。半分ありがたいけど、少しびっくりもする。
ふと、視界をずらせば、由依の後ろに男性が立っていることに気付いた。由依の友達にしては大人びていて、でも知らない人にしては距離が近くて、そう考えていると、由依が私の視線に気付いたのか、口を開く。
「あ、気にしないで。友達だから」
すらりとした背の高い男性が、軽く会釈するのに合わせて、私もお辞儀する。二十代の人かな。大人の年齢はわかりにくい。お兄さんとおじさんとおじいさんの中で考えれば、お兄さんだった。
「というかせっかく会ったんだし、私してあげるよ。メイク興味ない? あ、連絡先とか交換したい」
興味はある。やり方もしらないし、化粧品もないから、してないだけで。
「でも悪いよ。連絡先は良いけど……」
「悪くないよ。私するの好きだし」
一度だけで良いから、してみたい。
大人になったら、きっとうんざりするほど毎日することになるのだろうけど、それでもこの夏に、私はしてみたかった。気がかりは、後ろの男性だった。
「でも、その人は大丈夫なの?」
後ろで私たちの会話を聞きながら待たせている男性に悪いんじゃないかと思う。友達にしては年齢が離れてて、でも友達と言われれば友達にも見える。不思議な感覚だ。
「彰人の家でしてもいいよね? 小学校の頃の親友なんだよ。そのあと、いつも通りって感じで」
「別に良いよ」
彰人と呼ばれた男性は、由依の言葉をすぐに了承する。でもその前に、すごい言葉を聞いた気がする。
「え、この人の家に行くの?」
「うん、今から行くところだったから。うちはここから三十分くらいかかるし、彰人の家だったら十分だし」
「うーん……」
「良いじゃん行こうよ。彰人も良いでしょ?」
彰人さんは頷いて、押し切られるようにして私は二人に並んで歩いた。
ワンルームのマンションはきっと一人暮らしをする人にとっては普通の選択なのかもしれない。けれども綺麗で、少しだけ入り辛い気持ちになった。
「じゃあ凛はそこに座って、彰人、何か飲みものをー」
「ええと、お茶とコーヒーだとどっちがいい?」
「ジュースで!」
由依がテンション高くそう言うと、氷の入ったアイスコーヒーが出てきた。
「凛ちゃん? もどうぞ、遠慮しないでね」
そう言いながら、彰人さんは私の前にもコップとシロップを置いた。
「あ、すみません」
黒いジュース……というつぶやきが由依のほうから聞こえた。シロップを入れて混ぜる。一口飲んだところでクーラーのスイッチが入ったのか、冷たい風が室内を通っていく。昔は良く友達の家に遊びに行っていた。由依の家にも遊びに行っていた。こんな風に、知らないところにくるのは久しぶりだった。
「メイクって、時間かかったりするよね……? 私夕飯の準備あるけど平気かな」
「三十分くらいかなー、いろいろしても一時間くらいかな。というか、ご飯作ったりもしてるの?」
「うん、ほらうち、母親だけだし」
「あー、そういえば……。まだ四時前だし、大丈夫だよ」
彰人さんに見えないように少しだけ座る向きを変えて、由依がバッグから色々な道具を取り出す。
「あ、俺シャワー浴びてくるね」
「はーい。あ、凛が洗顔してからで!」
「ん、おっけぃ」
そんな由依と彰人さんのやりとり。お風呂と一緒になった洗面所に入る。
こんなに人の家で色々して良いものかと悩みながらも、洗顔フォームやタオルを借りて、顔を洗う。鏡の前の自分の顔を見て、突然恥ずかしくなってくる。
「私、やっぱり化粧しても変わらないんじゃ……」
戻って由依に伝えるものの、由依は頷かない。
「大丈夫だよー。彰人も凛可愛いって思うよね?」
「あぁ、そうだね。可愛いよ」
彰人さんが何を言ったのか咄嗟にはわからなくて、意味を理解した途端に顔がほてるように熱くなった。気付かれないように、テーブルの上に広げられた化粧道具に視線を落とす。母が持っているものを見ることはあるけど、同じものだとは思えないくらい輝いていて、まるで宝石が散らばっているように見えた。
「眉とかは普段してないと変になるからちょっと整える程度にしとくね」
真剣な表情で私の顔に手を近づけた由依は、小さなはさみと毛抜きで眉を整えていく。ところどころで鏡を見せてもらって、すっきりとしていくその形に驚く。きっと自分じゃできない、なんて思いながら、されるがままに身を任せる。
「BBクリーム使うと楽だから、もし買うならこれが良いかなーって思う」
色々説明を聞きながら、由依の手が動く。全部覚えきれないけど、時折見せられる鏡から、自分の顔がどんどんと変わっていく。アイライン、アイシャドウ、マスカラで整えられたあとは、整形でもしたのかというくらいに目がぱっちりになっていた。
「化けてるみたい」
「それはー……化粧なんだし?」
カラーの入っていないリップを塗られて、唇に馴染ませる。
「これで完成! チークとか入れると、ちょっとケバくなりそうだったからやめといたけど、良い感じかも?」
そう言って鏡を手渡され、改めて見る。私に合わせてくれたのか全体的には控えめで、でもいつもとは違う私の顔がそこにあった。
「私、高校生みたい」
思わず出た言葉に、由依が「……何言ってるの? でも可愛いよね?」と、言い放って、横に振り向く。由依の視線の先には、シャワーを終えてラフな姿になった彰人さんがいた。こちらを見ないように、スマートフォンをぐりぐりと動かしていた彼が、私を見る。
見定められるようで、一瞬だけ身体が強張ってしまう。
「可愛い可愛い、元が良いしね」
半分茶化すような物言いだったのに、冗談だとわかっているのに、顔が再び熱くなった。
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