あの夏に、私は恋をした
常夜
第1話 夏のはじまり
身体を売ったという実感はなかった。
男性のものに触れて、口に含んで、一時間もかからずに二万円という大金をもらった。本当は一万円くらいらしい。私が初めてだったことと、制服を着ていたことに加えて、行為の最後に少し苦しい思いをさせてしまったから、と報酬に色を付けてくれた。
私はお金が欲しくて、男性はそういうことを女に求めていて、そこに善悪などない気がした。ないのだと、思い込むようにした。
その日、世の中に男という生き物がいることを知った。
夏のはじまりは、その日から少し遡る。
私には父親がいない。祖父母と会ったこともなくて、友達の話で聞くような田舎に帰るだとか、親戚と遊ぶということもなかった。
朝から夜遅くまで働く母親との二人暮らしで、六畳二間のアパートに住んでいた。中学に入る頃に、ようやくそれが少し普通とは違うものであることを知るようになった。
私の家は貧しい。
そのことを自覚したのは、たぶん小学校の高学年か、中学の初めの頃だった。そうなった理由を母に問いただそうとするほど私は子供ではなくなっていて、どうにもならない現実を受け入れらるほど大人にもなりきれていなくて、未来への漠然とした希望と、目の前にある絶望が、頭の中で混沌としていた。
そういうものなのだと受け入れた日がいつだったのかは覚えていない。でも、少なくとも高校二年のあの日、私は欲しいもの全てを諦め、忘れることを知っていた。
月曜から土曜まで働いて、日曜日にはほとんど家で横になったままの母は、いつも疲れている。小学生の頃であれば、無理矢理お願いして遊園地に連れて行ってもらったこともあったが、自分の置かれた状況を知った今となっては、家のことをできるだけ自分でするといった方法で、母の負担にならないよう行動することが習慣になっていた。
今日、高校二年の一学期が終わる。
教室では、この後どうするか、夏休みはどうするかと言った話題で騒いでいるクラスメイトの声が、嫌でも耳に入ってくる。
カラオケに行こうとか、何かを食べに行こうとか、楽しそうなやりとりの先に、どんな世界が広がっているのかを私は知らない。
私よりもっと酷い生活の人もたくさんいるだろう。ちゃんと食べることが出来て、寝る場所があって、学校にも行くことができる。
私は恵まれている。
でも、クラスメイトの姿に憧れる。お金があったら、あの輪の中に入れるかもしれないのにと。
窓の外の景色を見る振りをして、教室の中の光景を盗み見る。誰も私には声をかけないし、誘われもしない。声をかけられても、誘われても、遊びに行くようなお金は持っていない。私の財布に入っているお金はそういうことに使っていいものじゃない。
上手にやりくりをして誤魔化せば、いくらかのお金が残るかもしれない。事実、節約と誤魔化しで、五千円ほどの自由にできるお金を作ったこともあった。けれども、それを自分のために使ってしまうことはできなかった。今日まで育ててくれた母親を、裏切るような気がしたからだ。
一年の時には――メイクをすると先輩たちに目を付けられるから――みたいなことを言っていた同級生の女子たちも、二年になると半分以上は薄いメイクをしてくる。してない人は、真面目なのか、そういうことに興味がないのか。私は、真面目なふりをして、興味がないふりをしていた。
今更お金があったとしても――遊ぶ相手もいないのだから――と自分に言い聞かせて、鞄を手に教室を出た。
高校一年の夏には、家計を助けるためにコンビニでアルバイトをしたことを思い出す。今年は母から勉強しなさいと言われていたため、できそうにない。
成績は中の上で、奨学金をもらったりするにはもっと勉強を頑張らないといけない。でも奨学金も借金なのだから、あとで苦しむことを考えると、進学自体が現実的ではないように思った。進学を希望しないという気持ちは、まだ先生にも母にも伝えていない。
考えても仕方のないことを抱え込んで、それでどうにかなるわけでもなく、校舎を出て携帯を見ると、メールの着信マークが表示されていた。
差出人の名前は、悠真。小学生の頃からの幼馴染だ。
ひとつ年下で、この前の春に同じ高校に入ってきた。
一緒に帰ろう、というメールの内容を見て辺りを見渡す。学校の門のところに、見慣れた男子生徒の姿を見つけた。悠真も私に気付いた。
近付いて来る悠真を見上げる。高く伸びた背は、私より十五センチほど高い。去年の初め頃、追い越されたことを思い出す。
小、中と一緒だった悠真とは、昔良く一緒に遊んでいた。
一昨年は、私が高校受験なこともあって、ほとんど会うことがなかった。去年の一年間は、彼が受験ということもあり、たまに勉強を教えたり、たまに遊びに行ったりする関係だった。
彼が高校に入った今も、偶然帰りの電車が一緒になるくらいの時に世間話をする程度で、頻繁に顔を合わせる感じではなくなっていた。
今までも時折メールが来ることはあったけれど、一緒に、という文字を見たのがいつ以来になるのか、思い出せない。
「メール見たよ、どうしたの?」
「終業式だし、この後暇だったら何かしないかな……と思って」
遠い昔に、――なにしてあそぶ?――と、私にくっついてきていた、小さな男の子の姿が、彼の姿に重なる。
伸びた背以外は、あの頃のままのそんな表情に、思わずかくれんぼや鬼ごっこでもしようか、と提案してしまいそうになり、慌てて下を向いた。小学生じゃないのだから、そんなことを言っても仕方がない。
用事はないので暇だった。でも、彼と何をすれば良いのだろう。
私の家のこともある程度理解してくれているので、余計な嘘をつかなくても良いかもしれない。気楽に、何かをして遊べるんじゃないかと、そんな風に思った。
でも、悠真には悠真のクラスメイトがいるのだから、その輪の中で楽しんだほうがきっと良い夏休みになるんじゃないかとも思う。
私に付き合っても、カラオケや美味しいものを食べに行ったり、何か楽しいイベント事を満喫できるような夏は来ないのだから。
「友達は?」
「うーん、凛が用事があるならしょうがないけどさ……」
「友達と遊んできなよ」
言ってしまってから、自分の声の硬さに後悔した。でも、それで良かったのかもしれない。そうでなければ、悠真は高校生らしい生活を楽しめなくなるような気がした。
「……わかったよ」
渋々と校舎に戻っていく悠真の後ろ姿を見送って、空を見上げる。
真っ青な空と白い雲は、どこまでも続いていて、その何もない広い空間に寂しさを感じた。孤独が、どこまでも続いていた。
電車に乗って四十分かけて家に着く。
古いアパートの一〇三号室の鍵を開ける。
自分の部屋といったものはない。母親がほとんど家にいないので、必要性も感じない。鞄を降ろして、干していた洗濯物を畳む。昼間の家の中は暑い。
昔は何をして遊んでいただろう。公園で走り回っていた。集まって何かすれば、それだけで楽しかった。子供はお金なんて持っていないから、違いを感じることもなかった。
アルバイトをしたい。でも、母に隠れてしたとしても、連絡が行けば見つかってしまうだろう。家計の助けになれば、母も楽ができるだろうし、アルバイトの給料の一部を自分のために少し使う程度だったら、罪悪感もない。
育ててもらって、大学に行かせてもらっても、母を楽にできるような職につけるとは思えなくて、勉強は大事だと思うけれど、それで何かがうまくいくようには思えなかった。
冷蔵庫に入れたままのおにぎりを食べてから、宿題をしようと食卓に色々と広げてはみたものの、三十分程で気力が尽きた。
暑い。勉強は図書館でしよう。
夏が始まってしまったことが、憂鬱だった。
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