鎮守の森とお稲荷さんの崖
鎮守の森は、高台の烏山町の崖端から広がるちょぴりこんもりした森でその森の中にはたいそう古ぼけてはいるがしっかりした神社がある。
聞くところによれば、源平合戦の頃のあの有名な逸話。
矢島沖か、どこか、記憶は定かではないが。
平家の漕ぐ小舟に括りさしだされたユラ、ユラ揺れる一本の扇を源氏の若者が見事に射抜いたという那須の与一を祭った神社である。
クネギ、ブナが鬱蒼と生い茂り、境内の中庭の中央には大きなイチョウの大木があり秋口には沢山の実を撒き散らす。
奥のお堂の中には、弓と太刀がいまでも飾られているというが見たという声は今まで聞いた事がないらしい。
さて、その鎮守の森の崖下一帯には下平という小部落がへばりつき、なだらかな傾斜をつくって田畑がひろがり那珂川の造り出す河原へと続いている。
この那珂川を渡ると伝やんの住む興野の小寒村である。
興野から高台の烏山に入るのには、那珂川の河原や田畑の真ん中を真っすぐに走る大きな広い農道と河原から直接入り込んだクネクネした狭い田畑の畔道がある。
大きな農道は、鬱蒼とした高台の崖淵の右側に入り込み急な傾斜を和らげるように幾重にも曲がりくねりだしながら登り烏山城下に入る。
田畑の畔道は、下平の小寒村に向かい田畑の間をうねるように流れそれは高台の左側崖下に着く、着いた畔道はいきなり崖にへばり付きながら登り一直線に上を目指し数十段の石の階段を登り切り烏山城下の間道に出る。
崖下には下平という部落があり、昔は卑民部落と呼ばれ蕎麦、川魚、堵殺を生業としていたようである。
つい最近までこの堵殺業は続いていたらしい。
見たことはないが、牛をしっかりと太い丸太柱に括り付け、動きを封じてから大きなハンマーをかかえ上げ、そして脳天へ一発である。考えただけでも残酷な光景である。また牛も殺されることを事前に察知するのか、堵殺小屋に運びこまれようとするときは大いに暴れ、泣き狂うらしい。ずっと以前に聞いた話である。
この堵殺のあった日には、血は大きな農道の脇を流れる用水路に多量にながれ込み、時として用水路を真っ赤にに染めながら那珂川へと流れ込んでいた。特に大雨が降った時などは、この真っ赤な血が濁流となり那珂川へ勢いよく流れ込む。その流れ込み口周辺ではちょっとした段差があり小滝のようになっていた。濁流は勢いよく落下し、白と赤茶の水泡を次々と沸きあげ渦をまき弾けては消える。白と赤茶の水泡からは小太りの鮒や鯉が気が狂ったかのように乱れ飛び跳ね出る。
「あの堵殺の血には肉片も混ざっているからなあ~栄養あっからな~」それを見ていた親父達の話だ。
洪水時に頭の片隅に残る異様な光景であった。
昔の話ではあるが、下平の人達には烏山城下への出入りは、商い以外は制限され立ち寄る場所にも制限があったようである。
行き来は、部落から直接登る急な崖道以外は許されず大きな農道は使えなかったようであった。
だから今でも、この崖路はたいそうな近道にて烏山町に行けるのであるが夕暮れ時の帰りともなると・・・
下平の部落の人か、
本当に急を要して帰る大の大人か、
はたまた・・・
中学のつっぱりガキ共が、夕刻の肝試しに面子をかけ挑戦する位しか使われないのである。
この崖下から坂を登りきった所に、そまつなお稲荷さんが祭られている丁度鎮守の森の左側の端にあたる。
昔よく那珂川が氾濫し、その度にこの下平の部落は水につかりたいそう難儀なことだったそうである。
お稲荷さんは、下平の部落の人達がお祈りして大洪水から守ってもらう為に建てたという話もあり今でも下平の人達の守り神でもあるらしい。
また話によると、この崖上で小キツネが沢山見られた年には那珂川の氾濫も起らなかったらしく豊作ともなり、いつしか洪水祈願と縁起の良い安産の守り神にもなっていったらしい。
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