トラばあちゃんと源じい

 伝やんが一世一代の決心をし、ズボンを脱いで頭になんとか括り付け女に手招きし・・・川へ入るぞと女を背負い川面≪かわも≫に一歩踏み出している頃。

 伝やんの目前の川岸の対岸では、降りしきる雨と迫る夕闇の中、橋のたもとの街路灯が二つ薄赤く浮かび上がっていた。

 その街路灯の灯りに映し出されるようにこじんまりとした、まるで小屋のようなそまつな家が建っている。

 橋の番人、船場の源じいとトラばあちゃんの家だ。


 腰がちょくら曲がりかけているトラばあちゃん。ようやく風呂は(風呂釜の底に座り板を敷く典型的な五右衛門風呂)・・・「いい湯加減かなや!」と伸びあがり風呂釜に手を差し込む。「こりゃ、ちょくら熱めかなや」風呂場の窓を開け冷気を取り込む。

 ザア~、ザア~ザアザ・・・ゴゴ―、バシャバシャ、いきなり飛び込む冷気と川の音と雨音。そして、それらに混じり時折飛び込む耳慣れた音?~声「ヘヤ―、ダー、アー、アリゃー」ばあちゃんの耳には繰り返し繰り返しこう聞こえた。

 ありや~なんだ。絶対誰かが騒いでる。


 「じいちゃん、じいちゃん早よ、来てみい、来てみい、橋の向こうで誰か騒いで、いねいか・・・」


 トラばあちゃんは風呂場を出て台所に行くや、曲がった腰を思いきり伸ばし台所の窓から顔を出し橋の向こうの対岸に目をやった。

たしかに雨音に混じって誰かが騒いでいるが、聞こえるが、暗くて良く見て取れない。


 「ほれ、じいちゃん、来てみ、来てみてんだ」

 「なんだよ、もううるさいなあ・・・」


夏はアユ釣り、ほかには猫の額ほどの畑を耕すのが日課の源じいは、鍬の泥を竹べらで落とす手を止めて、短い白髪頭を掻きながら面倒くさそうに立ち上がった。


 「全く煩いんだから、そんなのどうでも良いから、早くアユ焼けてんだ、全く愚図な婆さんだ」


だけどこのままにしておくと、キューとした熱燗も、ほどよく塩がまぶったアユもなかなか出てきそうにもない・・・あの婆さんのことだ。壊れたスピーカーみたいにいつまでもがなり立て続ことだろう。

 仕方なくヨタ、ヨタとバアさんに促されるままに玄関戸を開け橋に向かった。


 この雨の中、どうやら橋の対岸側でやはり誰かが騒いでいる、「馬鹿か・・・」源じいは降りしきる雨を振り払うようにし橋の中程まで行き対岸を見やう。

 宵闇の蕎麦畑におぼろげによたつく人影・・・遠目には誰だかわからない。だけどあの悲鳴は叫び声はまさに聴きなれた馬鹿の声だ!


 「なんだよ、あれ辰やんとこの伝助でねえか・・・しゃないバカだ、橋の向こうの蕎麦畑辺りで、なんか騒いでいるぞ・・・」

 「あっちにヨタ、こっちにヨタして、深い、深って手をバタ、バタさせて、頭に なんか乗せて・・・」

 「しゃねいバカだ、また酔っぱらっているんじゃねえのか」


橋の見回りの役も受け持っている源じいは、ひと役目は済んだという顔をして、


 「ヨタ、ヨタ、どうどうめぐりしてっと」

 「バカだから、また飲みすぎてキツネッコにでも騙されていんだっぺ」

 「ふんじゃ、辰やんでも呼ばなくっちゃ」


心配顔のトラばあちゃんであった。


 「いい、裏の竹男でも行かせりゃいい・・・」

 「それより早く、アユ焼けって・・・」


晩酌時間の遅れと酒のツマミの遅れは源じいの苛立ちを頂点まで達しさせていた。


 その頃、伝やんは大変だったのである。

ズボンを脱いで頭の上にしっかり括り付け、

その中に雨傘をしっかり押し込み、

そしてあのうら若い女性をしっかり背負って、


 降りしきる雨の中、薄暗闇の川の中へ足を踏み出していたのである。

両足先だけの感触を頼りにあっちにソロ、ソロ、こっちにソロ、ソロと浅瀬を探しているのだが・・・思いの外、水かさは増し・・・

 一歩、足の感触を間違えばいきなりズボ~ンと顎あたりまで深みに足を取られてしまうのであった。

 伝やんは必死だった。


「あれ!深い、で丈夫だ・・・あれ!深い・・・で丈夫だで丈夫だ」


女を気遣いながら伝やんは二度程、ガブっと川の水を飲み込んだような気がした。

 今の伝やんを支えているのは背に負ぶったうら若い女のほつれ毛が、頬をくすぐり続ける心地よい感触と背中を覆うふくよかな女の胸元の感触だけであった。


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