第3話

「あの、また本当に来たんですね…」

放課後音楽室に行くようになって、二週間ほど経った。

黙ってピアノを聴いて、眠って、そのまま帰る日もあれば少し話して、本を読んでいることもあった。

何となく、清水くんとは気の置けない仲になれそうな気がして初対面にありがちな煩わしさを感じなかったから行きやすかったし、かつての乾いた自分が潤うような、心の拠り所となっていた。

そんな事を思った矢先、ドアを開けた清水くんには少し引き気味の反応を頂戴した。

「だめ?もう来ちゃったから、帰る気は無いけど。」

「はぁ…良いですよ、もう。」

諦めた清水くんはピアノへ向かう。 椅子に腰かけ楽譜を譜面台に広げて、骨ばった指先を鍵盤に置いた。

昨日とは打って変わって激しめな曲だった。

聴くとぞわっと鳥肌が立って来た。

私はそれをグランドピアノの前の椅子で、黙って聴いた。

こんなに激しい曲なのに滑らかな音色は健在なんだな…と素人目に映った。

「凄いね、発表会とかあるの?」

曲が終わった直後、ぱちぱちと拍手をして私は鍵盤の方へ向かった。

「コンクールの課題曲なんです。練習はしてるのですが、なかなか。」

「そんな事ないよ、凄かった。」

私は本当に圧巻された。世の中には本当に凄い人がいるんだな。

「それは良かったです。あの、何でその、木下さんは旧校舎に来たのですか?」

清水くんは言いにくそうにそう言った。木下さん、なんて言われて何だか気恥ずかしい。

「ああ、それは夕焼けが綺麗だったから。」

私はそれだけ答えた。

「夕焼け?それだけですか。」

清水くんは不思議な顔をした。眼鏡越しの真っ直ぐな眼差しにどきっとする。

「あの、私実は、写真家になりたくて。いろいろ撮ってるんだ。難しいことは分かってるけど、ここまで来ても諦めきれなくて。」

こんな事、誰かに言ったことは無かった。叶うはずもない夢を誰かに語るなんて。

「素敵ですね。木下さんならなれますよ、うん。」

清水くんはしみじみそう言って、斜め下眺めてうんうん、と頷いた。

この人は、心の底からそう思ってくれてる。

確証の無い確信があった。彼は社交辞令やお世辞なんかを言わない人だと思ったからだ。

「木下さんはきっと良い写真を撮るだろうなあ…僕は何となく、こういうものには人格が映ると思うのです。だからきっと、良い写真家になれますよ。」

清水くんは窓の外に目を向けながら、続ける。

この人は…………

不思議な気持ちだった。胸の奥の何かがふわふわと浮いていて、何だか泣きたくなった。

「し、清水くんは何かなりたいものとかないの?」

私は話を逸らす策に出た。

「僕ですか…?僕は………特にないです。つまらない答えで申し訳ないですが…」

清水くんはバツの悪そうな顔をしてそう呟いた。

「そっかあ…これから探せば良いよ、時間はまだまだいっぱいあるし。」

私はそう言った。清水くんにあんな顔はさせたくないなあ、と理由もなく思った。



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