第2話
「すいません、迷惑でしたか。」
彼はわざわざ席を立って、申し訳なさそうに笑った。
凛と澄んで、心地の良い声だった。
「そんなことないんです、此方こそすいません。覗き見たりして。」
私は緊張していた。そして少しだけ恥ずかしくて、後悔した。
「あのっ、今の曲は何という曲なんですか?」
勇気を振り絞って聞いてみた。こんなことをわざわざ聞くなんて自分でも驚いた。
「今のは…シューマンのトロイメライです。人に聴かせるような出来ではないのですが…」
「そんなことないです。本当にそんなことないです。感動しました。私、久し振りに心の底から良いなと思いました。」
何故なのか自分は涙目になっていた。
「あの、その、聴きたくなったら聴きに来ても良いですか?」
そして、こんなことを口走ってしまっていた。
「ああ、はい、勿論です。緊張するな…」
彼は斜め下を向いて小声でそう言った。
「名前…なんて言うんですか?」
「僕はえっと、2年C組の清水颯太です。あの…その…」
「すいません、て、私も2年だった。私は2年E組の木下夏海です。敬語使わなくて良い…?」
「全然大丈夫です…」
いちいち赤面しながら話すので私は俄然興味が湧いて来た。
「聴かせてもらってて良い?今日。」
私はカメラを首にかけたまま、ピアノ近くの椅子に背を向けて腰掛けた。
「良いですよ。恥ずかしいですけど。」
キシ、とピアノの椅子が軋む音がする。
彼はそのまま黙って、ピアノを奏で始めた。
ぽろん、と一音一音が淡い水色に染められるように優しく、柔らかい音色だ。これは彼の色だ。
聴いたことのある曲だったが、他の誰が弾いたものでも感じたことのない気持ちだった。
悩んでいた気持ちや自己嫌悪なんかをしゅわしゅわと溶かすようにピアノの音が私を包み込む気がした。
涙が出る。この人は、どうしてこんなに優しくピアノを弾くのだろう。
夕日が教室を照らして、私たちの影を伸ばした。
私は泣いてるのを気付かれたくなくて、顔を埋めてそのまま聴いていた。
「大丈夫でしたか、なんか、あの…頭痛いとかですか…?僕のせいだったら、ごめんなさい…」
曲が終わったのに、私があんな調子だったのを気を遣ってか、清水くんは私に心配そうに声をかけてくれた。
「いや……大丈夫。何だか嬉しくて。なんて言う曲ですか?」
「ドビュッシーの月の光ですよ。とにかく頭痛とかではなくて良かったです。僕は続けますけど、気が済むまで、あの、その、どうぞ…?」
彼は最初不思議そうなぎこちない笑顔を浮かべてそう言った。
「御言葉に甘えて。」
それから彼はピアノを弾き始めた。
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