第3話

 再び戦場に立つ。

 以前とは違う。私は、戦場に立つ者たちの本気を知っている。

 だというのに……、だというのにだ。私は身体の震えが止まらない。

 本気の恐ろしさを知った。それに負けぬよう、必死に鍛錬を積んだ。

だというのに、私は今、戦場に立つことを恐れている。死が恐ろしいのだと自覚してしまっている。

 今、私を弓で狙う者がいるかもしれない。

 草むらに足を踏み入れたら、即座に首を掻き切ってやろうと画策する者がいるかもしれない。歩を進めている今も、どうにか囲んで後ろから心臓を貫こうとする者がいるかもしれない。

 知ったからこそ考えてしまう。

戦場で己の生き死に以外に頓着する者などいない。勝てなければ死ぬのだとわかっているからこそ、そこで行われることに善も悪も無い。一歩ごと、敵の罠が張り巡らされているのではと神経を研ぎ澄ませる。


「……アイギス」

「…………」

「アイギス!」


共に歩いていたガラテインが叫ぶ。

驚いて、一瞬にして全身の毛が逆立ったような感覚に襲われる。

思わず、手に携えた槍をガラテインに向ける。


「いきなり大声を出すな! 敵国の騎士に見つかったらどうするつもりだ!」

「お前こそ大声だろう。だいいち、味方に槍を向けるな。友人に殺されたとあっては笑い話にもならん」


ガラテインが両手を挙げながら言う。

それもそうだ。唯一の同期騎士であるガラテインを殺したとあっては笑うに笑えん。

戦場での安全のためにと組まされたというのに、その仲間を自らの手で殺していては愚かにも程がある。


「一度落ち着け。全身に力が入っていては疲れてしまうだろう。いざという時の反応も遅れる。鍛錬で教わっただろう?」


ガラテインがそう言いながら私の肩を叩く。

そうだ。何を怯えきっているのだ。一度戦場の恐さを知り、それに立ち向かうだけの鍛錬も積んだ。

今回は随分と恵まれているのだ。前回は仲間すらいなかったのだから、ガラテインの存在は心強いことこの上ない。

普段はふざけた男ではあるが、実力は先輩騎士の間でも折り紙付きの男だ。

戦場で言うことくらいは信用してやってもいいだろう。


「それに見ろ、お前が待ちかねた敵国の騎士だぞ?」


ガラテインが指した方向には、敵国の騎士と思われる男が三人固まって歩いていた。

幸い、気付かれてはいないようだ。

鋭い目つきをしながら恐る恐る進んでいく彼らには、傍から見ても余裕が無い。

人数では負けているものの、こちらには気づかれていないという利がある。

ガラテインに合図を送る。

すぐさま私が槍を持って駆けだしていくと、三人の敵国騎士は驚きながら抜剣する。

その隙に、先頭に立っていた男の胸に槍を突き刺す。貫かれた男は力なく崩れる。

目の前の死に恐れをなしたのか、最も後方に立っていた男は腰が抜けてしまう。

もう一人の男はと言えば、何かわけのわからないことを叫びながら剣を振り下ろそうとしてくる。

スパッと刃の通る音がして、剣を構えていた男の首から血が流れる。


「戦場では背後にも気を配れ。そうでなくとも、戦場で三人に対して一人で突貫する奴がいたらおかしいと思わんか」


血を失って倒れる男の後ろに、返り血を浴びて鎧を汚したガラテインが立つ。

単純な挟み撃ち作戦ではあるが、多少の人数差ならひっくりかえせる上に、安全性もなかなかに高い。タイミングさえ良ければ、私とガラテインなら十人ほどを同時に掃討出来る。

 そう。しっかりとタイミングさえ合わせていれば、安全性は高いはずなのだ。


「ガラテイン、お前少し遅れただろう」

「いやすまない。腰を抜かした者を先に殺しておくか悩んでな」

「お前が悩んでいるうちに私が死ぬだろう!」


 私がガラテインに責任の追及をしようとすると、そばでガチャリと鎧のこすれる音がする。

 ああなんてことだ。戦場での情けは命取りになるという先輩騎士の言葉をガラテインが正しく覚えていればこんなことにはならないのだ。

獣も人間も、死を自覚し奮起した瞬間が最も恐ろしいと聞く。どうやら目の前の、おそらくは新米騎士であろう彼も、どうやら例に漏れず死を自覚し奮起したらしい。

それだけではない。その目は怒りに満ち、おそらくは自分の命を懸けただけでは足らぬ程の使命感に満ち溢れている。

幾度か見たことがある。いや、幾度では足りまい。なんせ戦場では、そう珍しくもない怒りだ。そして戦場ではなくとも、それは十分な殺意を人に与えるのだ。


「よくも我が友を……、殺してやる」


復讐だ。

大切な物を壊されたとき。

信ずる者に裏切られたとき。

愛する者を奪われたとき。

様々に動機はあれど、それはあらゆる者に強い力を与える。

なんと厄介なことか。


「うわああああああ!」


叫びながら突進してくる男の足元を私の槍で払う。あまりに冷静さを欠いた男は簡単に転び、私の目の前に倒れる。

槍の切っ先で男の手を突き刺し、剣を握れないようにする。

ここでようやく敵わないと知ったのか、男の顔には絶望が浮かぶ。

もう剣は握れまい。放っておいてもいいのではないか? そんな考えが浮かぶ。

生かしておいたところで、この男が私たちの脅威となる可能性は至極低いのだ。

それに、私は既に心が戦場を離れた者まで手にかけようとは思わない。


「何をしているのだアイギス、早くやれ」


ガラテインが私を急かす。

そうだった。情けは命取りであるという先輩騎士の教えを無にするというのか。

私は、地面に転がる男に槍を向ける。

うつ伏せに倒れながら首をひねってこちらを見る男の顔は、まるで駄々をこねる赤子のように濡れていた。目、鼻、口の全てからあらん限りの水分を垂れ流す彼は、先程の覚悟を決めて私達に向かってきた者と同一人物とは思えない。


「嫌だ。やめてくれ、私は死にたくない!」


男が叫ぶ。

彼がなんと叫ぼうとも遅いのだ。彼は既に、戦場に立ってしまっているのだから。

ここで彼が生き延びるために「貴方達には二度と危害を加えない」と言ったところで、いったい何を信じることが出来るだろう。

生憎と、私もガラテインも捕虜を得る気など全く無かった。その準備も無い。

ここで捕えることも逃がすことも出来ない彼を、私達は生かしておくことが出来ない。


「帰りを待っている者がいるんだ……」


残念だ。私にも帰りを待つ者はいる。


「帰ったらきっと幸せにすると言って残してきたのだ!」


哀しいことだ。私にも、不相応ではあるが守りたい者はいる。


「だから死にたくない……。どうか生かしてくれ」


どうしたって無理だ。ここは戦場で、私と貴方は敵として出会ってしまったのだから。

涙を流し命乞いをする彼を見て思う。

同じなのだ。いつか女神に助けられた私と同じなのだ。

私はあの時、女神に助けられた。彼には今、助けてくれる者などいない。

私は、あの時の絶望を知っている。

彼は、戦場とはどういうものかを本当の意味で知らずに挑んだのだろう。

きっと未来に希望を抱いて、いつか幸せにする者に誓いを立ててきたのだろう。

だが現実は違ったのだ。

彼の仲間は、既に私とガラテインに殺された。残る彼は既に剣を握ることも出来ず、私の槍にその命の生死を委ねられている。

もはや残ったのは、この戦場へ赴くことを決めた自分への後悔しかあるまい。

私の仲間も、こんな風に殺されたのだろうか?いつかの私や今の彼のように、必死に命乞いをしたのだろうか?必死に命乞いをした挙句、それを聞き入れられることなく死を迎えたのだろうか?

どんな最期だっただろうか?

今から私がするように、槍を心臓に突き立てられたのだろうか?

剣で喉を斬られたのだろうか?

情報を吐かせるために拷問を受けた者もいるのかもしれない。

捕虜にされた挙句、火にくべる薪の如く炎に身を投じさせられた者もいるのだろう。

私は、私の仲間を殺した者と同じになるのだ。いや、そんな覚悟さえもう遅い。既に殺してしまったではないか。

今更どんなに覚悟を決めようと、今更どんなに懺悔をしようと、私は既に人を殺しているのだ。それが自分の命を守り、愛する者を守ることになるのだと言いながら。


「アイギス……、お前、敵に情けをと考えているんじゃないだろうな?」


ガラテインが静かに私を叱責する。

わかっている。わかっているのだ。

こうしている今にも、敵は私たちの元に来るかもしれない。この男一人に時間をかけている暇など無いのだ。どれだけ命乞いされようとも、敵である彼を生かす道は無いのだ。


「アイギス!」

「わかっている!」


再び強い口調で私を叱責するガラテインに、私も叫び返してしまう。

躊躇う私を見て、少しは希望があるのではないかと思っていたのだろう。彼は、先程よりも強い絶望の表情を浮かべていた。


「生きて帰りたいんだ……。頼む」

「……私もだ」


槍を突き立てると、地面にジワリと血のシミが広がる。少し苦しんだのだろう。彼は叫んでいた時より少しだけ呼吸を荒げると、その少し後には蝋燭が消えるように命の炎を絶やしていた。

その一瞬、彼は何を考えたのだろうか?

戦場へ来たことの後悔だろうか?

ここに私たちが現れたことを不運だと思ったのだろうか?

私への恨みを宿したのだろうか?

こんなはずではなかったと、自らが武勲を挙げる未来を思い描いてみたのだろうか?

帰れば得られるはずだった幸福を胸に抱いたのだろうか?

私の希望で、彼と彼の仲間の騎士たちを埋めてやった。

少しでも見つかりやすいようにと、墓標の代わりにと剣を突き立ててやった。

ガラテインは終始「敵を殺すたびにいちいちこんなことをするつもりか」と文句を言っていたが、結局は私を手伝ってくれた。


×××


 国を守れば武勲がもらえるのか、人を殺せば武勲がもらえるのか、少しわからなくなった。

騎士とは、どういう存在を言うのだろう?

 戦争が終わって帰ってくると、私とガラテインは王国から武勲を授かった。

 私が先の疑問を口にすると、ガラテインは「そんなことを気にしていては騎士は務まらん」と言った。本当にそうなのだろうか?

私には、ガラテインが「そんなこと」と言ったことが大事に思えて仕方ない。

彼女は言った。「生きていることを誇りなさい」と。

私達は生き残った。

敵国の騎士の命を奪って。

では、殺された彼は何なのだろう。誇りなき騎士なのだろうか?

また少し、騎士とはどういうものかわからなくなった。彼女は、まだ私のことを覚えているだろうか?

ぼんやりとそんなことを思いながら街の外れの教会に訪れる。

軋む音を立てるドアを開けると、やはり最後列の席には彼女がいた。


「アイギス、生きて帰って来たのですね」


静かに彼女が声をかけてきてくれる。

私は彼女の隣に腰かけ、小さな声で返事をする。そして、「少しだけ、悩みがあります」と言って話し始めた。


「私たちは、何故戦争をしているのですか? 皆生きたいと願っているはずです。それなのに何故、私達は争うのですか?」


私が言うと、彼女は黙ってしまう。

神にとってさえ難しいのだろうか? 神である彼女でさえ、答えを見つけられないのだろうか? そうであるのなら、騎士達は答えのない戦いに身を投じて命を落とすことになるのだ。

そんなのは、あんまりではないか……。


「答えてください」


口に出てしまう。

意地の悪い問いだったとは思う。

彼女が考えているのもわかる。

だが、戦場に立ったことを後悔した私だからこそ、適当な答えでは許せない。

それどころか答えが出るのかさえ分からないのだ。私は思わず苛立ちを感じてしまう。

答えてくれ。

教えてくれ。

私に示してくれ。

神である貴女が答えられぬ問いに命を懸けられる程、私は強い人間ではないのだ。

私が再び苛立ちに任せて問い詰めようとした瞬間、彼女はゆっくりと口を開いた。


「私にも……、わかりません」


彼女は言った。言ってしまった。

神である彼女でさえ分からないのだという、途方もない答えを示してしまった。

思わず彼女の肩を掴む。

私に肩を強く掴まれて振り向いた彼女の瞳は、涙に濡れていた。


「私にだってわからないのです。どんなに考えても……、わからないのです。貴方が教えてください、アイギス。貴方が私に示してください」


そう弱々しく言う彼女に、私は毒気を抜かれてしまった。そして場違いにも、綺麗だと思ってしまった。

強い彼女は美しい。誰よりも逞しく、煌いて見える。

弱い彼女を守りたい。時に私達と同じように苦しむ彼女を、この手で包み込んでやりたい。

そうだった。彼女は神でこそあるが、私達と同じように思い悩む一人の女性なのだ。

だからこそ私は――――――


「貴女を守りたい」


口に出ていた。

自分でも驚く程自然に、想いが口からこぼれ落ちていた。

それだけではない。いつの間にか、彼女が私の腕に抱かれている。

今、何が起きているのだろう? 腕の中には彼女がいて、私は想いを告げている。

彼女は固まったまま動かない。私も固まって動けない。

彼女の柔らかい肌の感触が、布越しに伝わってくる。

美しいエメラルドの髪が肌に触れる。

こうして抱きしめてみればよくわかる。彼女が神であるか人間であるかの違いなど、私には至極どうでもいいことだったのだ。

もう少しだけ強く抱きしめてみる。彼女の身体が震えているのがわかる。

彼女は、私が抱きしめていることを許してくれているのだろうか? 私にはよくわからない。なんせ、今まで女性を抱きしめるという経験が無い。

そんな私が、よもや神である彼女を抱きしめようとは……。


「離してください!」


突き飛ばされ、教会の床に手と尻を着く。

 すぐに我にかえる。

私は何をしていたのだろう。

 恐れ多くも、神である彼女に抱きついた。

その結果がこれだ。こんなのは、女性を抱きしめたことが無くともすぐにわかる。

それはそうだ。恋仲でも無い男に抱きつかれたとあっては、神でなくともこのような反応をするだろう。彼女の目には、明らかに怒りが宿っているように見えた。


「何故そんなことをするのですか?」

「……………………」


私が応えられずにいると、彼女は背を向けて教会を立ち去ろうとする。

ダメだ、何か言わなくては。このまま行かせてしまっては、二度と会えなくなってしまう。


「待ってください!」


 バタン。教会の扉が閉まり、私の声を掻き消すように響く。

 追いかけなくては。だが、追いかけて何を言えばいい? これ以上言葉を間違えては、本当にもうどうしようもなくなってしまう。

どうすればいい?

 身体が熱くなるのを感じる。

 どうすればいいのかわからない。

 鉛でも括り付けられているのかと思うほど重い身体を引きずり、教会の外へ飛び出す。

 誰もいない草原が広がる。

 もう二度と会えない。そんな思いだけが確信に変わる。

 今まで女性を好きになることなど無かった。そんな私が初めて好きになった女性が、私を拒絶して去って行ってしまった。

 胸には、何故かジクリとした痛みが残った。


×××


「兄様! おかえりなさい!」

「…………ああ」


 ガチャリと荷物を降ろし、家の中へと入っていく。

 ここに帰るのもいつぶりだろうか? 随分と長い間返っていなかった気がする。

 階段を上がり、自分の部屋のドアを開ける。いつ帰って来ても綺麗にされている。ありがたいことだ。

 ずっしりと重い身体をベッドに横たえる。

 あれが失恋というものなのだろうか?

 彼女を抱きしめた日から一週間ほど教会に通っては見たものの、彼女に会えることは無かった。もう二度と来るつもりは無いのだろうか?


「兄様、何かありましたか?」


 私には、彼女に会える場所の心当たりと言ったら教会しかない。

 彼女にとっては、「男に突然抱きしめられた」という嫌な思い出の残る場所になってしまったのだ。教会に来るたびにそれを思い出すとすれば、二度と来ないと決心するには十分だ。

 もう少し恋愛というものに接しておけば良かったのだろうか?

 そうすれば、こんな状況でも打開出来るのだろうか?

いや、そもそもこんな失敗をしなかったのかもしれない。後悔だらけだ。後悔しか心に残っていない。


「あ、あの兄様?聞こえていらっしゃいますか?」


 何が「彼女を守りたい」だ。一番傷つけてしまったのは私じゃないか。

 彼女は私のことを嫌いになっただろう。

思い出したくも無いだろう。

私の顔を見るたびに嫌な思いが蘇るのだろう。

 結局のところ、彼女を傷つける私が傍からいなくなることが最も彼女を守れているのではないだろうか? ああ、きっとそうだ。

 こんなことをガラテインが知ったらなんというだろうか?

 きっと、「騎士の風上にも置けん奴だ」と言うのだろう。

 まったくだ。愛する者の心すら守れない男が、どうして王都を守る騎士を名乗れよう。


「兄様!」

「ぶっ!なんだ?」


 いきなり頬を両側から掴まれる。

 ぐにゃりと変形した口から、情けない声が出る。


「いったい何をする」

「兄様が無視をなさるからです!」


 少し涙目になった娘の顔が見える。

 無視とはいったい何のことだ?


「兄様に無視され、アリスは悲しいです!」


 涙目の娘――アリスが詰め寄ってくる。

 随分と怒らせてしまったようだ。眉間にはしわが寄り、普段ならば兄の私でさえかわいらしさを認めざるおえない顔はぷっくりと膨らんでいる。


「そういえばアリス、以前も交際を申し込まれ断ったそうだな。随分と気前と育ちのいい男だったと聞いた。何故断ったのだ?」

「私は兄様より良い男でなければ認めません! もっとも、兄様よりもいい男など生まれてこの方見たことが無いですが」

「こんなどうしようもない男が上だとあれば、断られた者に申し訳が立たないだろう……」

「決めるのは私ですから」


 そう言ってアリスはそっぽを向いてしまう。

この妹はいつもこうだ。なんだかんだと理由をつけては近づく男を全てはねつけてしまう。

理由にされる兄の身にもなってほしいものだ。以前、戦争からこの街に帰って来た時は、家の前でおそらくはアリスに振られたのであろう男に呼び止められた。

やれ「貴方がアリス殿の言う兄様か」だの、やれ「どうしてこんな男の方が上なのだ」だの、それはまあ随分な言いようであった。まあ、そんな男はこちらとしても断固願い下げではあるが。

 それに比べればよっぽどマシな男が現れたと思っていたのだが、アリスのお眼鏡にかなうことは無かったということか。


「それよりも兄様、随分と落ち込まれていたようですが、どうかされたのですか?」

「…………」


 私が黙り込むと、アリスが訝しむように顔を寄せてくる。

 私が落ち込んでいる理由は例の教会での出来事に他ならないのだが、身内とはいえそう易々と話せるものでもあるまい。


「あまり話したくない」

「…………っ!?」


 私がそう言うと、アリスは心底驚いた顔をして固まってしまった。

 そのあまりの驚きように、むしろこっちが驚いてしまう。私はそんなに驚くようなことを言ったのだろうか?


「アリス?」

「兄様が……、私に隠し事を……? 私は必要無いということでしょうか……、そうですか……」


 アリスはそうつぶやくと、俯きながらふらふらと部屋から出て行ってしまった。

 顔は青ざめ、まるで魂が抜けきってしまったようであった。大丈夫なのだろうか?

 アリスが去って行った部屋の中で、一人ベッドに腰かける。

 アリスは私の悩みを解決しようとしてくれていたのであろうか?

 だとするならば、私の言葉に対する反応も頷ける。それは随分申し訳ないことをしたような気がする。

 兄の私が言うのもなんだが、アリスは非常に人気がある。一度だけ王都に二人で出かけたことがあるが、少し目を離した隙に数人の男に囲まれていた。

 私が助けた方が良いかと思いきや、駆け付けたころにはアリスが鋭すぎる言葉の剣で男たちを切って捨てた後であった。

 そんなこともあってか、アリスは男をあしらうのに慣れている。母に相談するのも良いが、少々気恥ずかしすぎる。

 アリスはまだ相談に乗ってくれるだろうか? 心配してくれたアリスに対して、少々邪険にしすぎたような気もする。

 自分の部屋を出て、アリスの部屋のドアの前に来てみる。


「アリス? 少し兄の相談に乗ってはくれないか?」


 呼びかけて、少し待ってみる。

 返事は無い。

 やはり怒らせてしまったか。

 普段は聞き分けもよく、気品のある素晴らしい娘ではあるのだが、一度怒らせてしまうと話は別だ。以前、怒らせてしまった時は丸々一週間以上まともに口を利いてもらえなかった。結局、それが現在の最長記録となっているわけだが。


「アリス、お前にしか話せないのだ」


 もう一度呼び掛けてみる。

 やはり今回も長期戦になるのだろうか?

私がそう思った瞬間、部屋の中からバタバタと音がし始めた。

 バタン。ドアが開いた。


「兄様! やはり兄様には私が必要なので……、どうされたのですか!? 何故鼻血が!」

「アリスよ、ドアを開けるときは正面に人がいないのを確認した方が良い。兄からのアドバイスだ」


 随分な勢いで開けられたドアに激突し、床に血だまりが出来る。

 最近は訓練や実践でも血を流すことが少なくなってきたというのに……。


×××


「大丈夫ですか兄様?」

「ああ、随分収まってきた」


 自分の部屋のベッドに寝ころびながら、アリスに返事をする。


「それで、相談というのは何ですか?」


 話が出来る状態になったところで、アリスが本題を切り出してくれる。

 実の妹が話相手だ。気を使うことも隠し事も必要あるまい。


「実はな、ある人に振られてしまってな」

「却下です」


 バッサリと……、それはもうバッサリと切り捨てられた。


「私の知らないところで想い人を作り、しかも振られているだなんて! いったいどこの女性ですか!? いえ、恋人になられていても困るのですが……。とにかく却下です!」

「そ、そうか…………」


 若干、いや、かなり話はズレているが、アリスにも反対されてしまったのだ。もうこの世界の誰も私の恋を応援してくれる者はいないだろう。

 思えば、そもそも不釣り合いだったのだ。なにせ彼女は――

「神なのだから…………」

「兄様…………、神とはどういうことですか?」


 アリスの声が、急に真剣味をおびる。いや、恐れ戦いているだとか、怯えているだとかいう表現の方が正しいのかもしれない。

 ともかく、鋭い声とは裏腹にアリスの顔は青ざめていた。


「いったいどの神に誑かされたのですか!? まさか愛の女神達ですか!? ヴィーナスですか!? アフロディーテですか!?」

「ア、アテナ様だ! 王都の守護神の…………」

「そ、そうですか…………」


 私がアテナ様の名を告げると、アリスは再び椅子に腰かける。

 愛の女神達の話は、よく耳にする。神々さえも虜にする美貌に一度魅了されてしまえば、人間では決して逆らうことが出来ないらしい。その魅力に魂そのものを犯され、全てを女神に捧げる傀儡となり果ててしまうのだとか。

 ある者は愛を叫びながら炎に身を投げ、ある者は自分の親族を皆殺しにしたらしい。


「でも、兄様にはそのような傾向は見られませんね。一応は正気であるようですし……」

「一応……か。これでも至って正気のつもりではあったのだが」

「心配の必要は無い。ということなのでしょうか?」


 私の目を覗き込んでくるアリスに反論してみるが、どうやら届かなかったようだ。

 アリスの言う「心配」というのも、一応はわかっているつもりだ。

 神とは、存在そのものが信仰の対象にもなり得るのだ。その信者たちからすれば、私は信仰の対象である神を不届きにも穢した男ということになる。

 それだけではない。神は、それぞれが人間などでは到底及びつかないような強大な力を持っている。もし、彼女がその気になれば、私の周囲の者を全て葬り去ることも出来るのだ。きっと彼女自身はそんなことは望まないだろうが…………。


「兄様は知らないでしょうが、アテナ様と並び処女神として名高いアルテミス様と恋仲になった人間がいたそうです」

「ア、アルテミス様と恋仲に!?」

「ええ。ですが、その男――名をオリオンと言いますが、彼はつい先日アポロン様の策謀によって亡くなったそうです」

「…………どういうことだ?」

「詳しくは私もわかりません。ですが、神々とはそういう存在なのです。オリオンは高名な狩人だったそうですが、その彼でさえいとも容易く殺してしまえるような存在なのです」


 オリオン――その名は私も知っていた。百発百中の弓の腕と、ライオンさえ殴り殺す屈強な身体の持ち主であったという。


「アテナ様の勇名は私にも届いております。彼女が如何に素晴らしい人物であるかも存じ上げております。ですが、兄様がアテナ様に近づくことを周囲の神々はどう思うでしょうか?」

「そ……れは…………」


 アテナ様の周りにどんな神がいるかはよくわからない。

 私の存在を疎ましく思うだろうか?

邪魔だと思うだろうか?

排除しようとするかもしれない。

もし神々が本気を出せば、私などは路傍の石と何ら変わらない。


「わかっていただけましたか?」


 アリスが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

考え直す必要があるかもしれない。私の心ひとつで、この妹を、家族を危険に晒すのだ。


「…………わかった」

「ありがとうございます兄様」


 アリスに頭を撫でられる。

 こんな時、アリスは凄く母に似ている。

私の悩みや苦しみを、全て包み込むような温かさを与えてくれる。


「泣いてもいいのですよ?」

「…………妹の前で弱みなど見せれるものか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る