第1章 キフジ

 A市乳児誘拐事件。8月1日の火曜日に、病院から退院して間もない赤ん坊が誘拐されたという事件だ。この時代に、誘拐事件とは珍しい。これだから、新聞を読むことはやめられない。誘拐のような無謀なことをやってのける狂人がいることが、僕に生きる希望を与え、憂鬱な毎日を愉快なものにしてくれる。あぁ、一度でいいから、僕もこの事件の犯人と話をしてみたい。きっと犯人は、素晴らしい人間に違いない。いや、きっとそうだ。この親愛なる狂人に、神の加護あれ__。

 日本の若者である僕を、こんな恋人を想う敬虔なキリスト教徒のような感情にさせるのだから、僕の狂人に対しての想いは、一種の恋のようなものだろう。僕は、狂った事件について考えているとき、犯人の狂気に酔っているのだ。極上のワインを飲んだ後の、心地よい酔い。僕は酔いと恋は、同じようなものだと考えている。恋をしている間は、人々はみんなその想い人に酔う。恋は盲目というが、狂気には、僕も盲目になるのだろう。もっとも、24歳にして童貞である僕は彼女などいたことがないので、恋のことなんかよくわからないが。

 僕がそんなくだらないことを考えていた間に、インターホンが鳴っていたらしい。この僕に訪問者とは、珍しい。最後に僕の家を訪れたのは、確か6つ違いの妹だったか。確かに最近は、部屋が散らかり放題だった。瓶や缶が乱雑に置かれ、はずれた競馬券に、パチンコ屋で交換した菓子のや煙草のごみが部屋いっぱいに広がっている。きっとこんな自堕落な生活をしている兄を見かねて、部屋を片付けに来てくれたのだろう。健気な妹だ。

 ドアを開けた先には、妹とは似ても似つかない大男が立っていた。戸惑う僕を男はその巨体を生かし、黒塗りの外車の中に投げこんだ。これからどうなるのだろう。東京湾の前で、コンクリートブロックを抱えることになるのだろうか。いずれにせよ、24歳男性殺害事件、ということになったら、被害者として僕の顔が全国に知れ渡ってしまうではないか。きっと僕の経歴も広まってしまうだろう。24歳にして学生、親のすねをかじる人間の屑と報道されては、たまったものではない。狂った事件を見るのは好きでも、自分が巻き込まれるのは嫌なのだ。当然だろう。

 

「なぁ、びっくりした?びっくりしただろ?お前を驚かせるためだけに、この強面のおっさんを雇ったんだぜ?お前の青ざめた顔、最高だったぞ。」

 まるで悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべ、僕の隣に座っている男には、見覚えがあった。高校時代、僕の学校の生徒会長を務めていた男だ。名前は確か、三浦裕也。高校卒業後は、名門大学に行き、現在では一部上場企業の代表取締役社長を務めているのだと高校の同窓会で噂になっていたハズだ。そんなエリートが、落ちこぼれのこの僕に何の用なのだろう。

「今日、僕に尋ねてきたのは、一体どんな要件なんだ?三浦裕也。」

 僕は子供のような問いかけをする彼を無視して、訪ねてきた理由を聞いてみた。

「おう、それがな、高校時代パソコン部部長だったお前にしか頼めないことなんだがよ。」

 パソコン部といっても、部員数2人の、実態がほぼないような部活だったが。しかも僕は、どんどん難しくなる数学についていけず、途中で文系に転向したような半端ものだ。パソコンについても、普通の人より少し詳しいぐらいのレベルだ。

「俺の母ちゃんのパソコンが壊れちゃったみたいでよ。お前にはそれを見て欲しいんだ。」

 確かに彼の頼みは分かったが、それなら大きな疑問が一つある。

「パソコンが壊れたのだったら、新しいパソコンを買えばいい。システム的な問題なのだったら、その手の専門家を雇えばいいじゃないか。その強面のおじさんを雇ったみたいに。」

 そう、わざわざ僕を訪ねる理由がないのだ。なのに彼は、なぜ僕に頼むのだろう。

「だって、友達を自分の実家に招くのと、知らない人を招くのだったら、絶対友達に来てもらえる方がいいに決まっているだろ?」

 彼はさも当然のことであるように、僕に言った。

 僕がこいつの、友達?たった数回しか話したことがないのに?こいつの友達の定義だったら、同じ高校に通っていた同級生のほとんどが友達になってしまうのではないだろうか。

「とにかく僕は忙しいんだ。そんなことにかまっている暇は無い。他をあたってくれ。」

 当然のことだろう。ほぼ誘拐まがいのことをしておいて、二つ返事で承諾する人間がどこにいるのだろう。さぁ、早く僕を解放しろ。早く解放して、僕と二度とかかわるな。という言葉が口から出かけた時だった。

「これは知り合いの金融業者から聞いたことなんだけど、君、数百万ほど借金があるんだって?それを俺が帳消しにしてやる、といっても君は断るかい?」

 僕は二つ返事で承諾した。



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葡萄とロベリア @kuroboss

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