第四章-1:四月の桜とピアノ-2

 ……いた。

 何の心配もなかった。

「どうしたののばら」

「何でもない……」

 はああ、と長いため息を吐くと、明日香ちゃんが振り返って、答えてまたため息が出た。

 体育館に全校生徒が集まっての始業式。一年生はこの後に続く入学式まで入ってこないから、いつもよりちょっぴり人数の少ない始業式だ。だから前の方がよく見える。舞台に登って桜がどうのこうの言っている校長先生。舞台下の脇に並ぶ先生たち。その中で、ひときわ目立つ金髪碧眼。あれがエクソシスト兼守本中学校音楽教師の高橋だ。普段は優しい先生スマイルを浮かべて音楽の授業をしているけれど、実態は真顔で「最終手段」を五分に一回放っては魔物を捕まえたり逃がしたり捕まえたり逃がしたり逃がしたりしているはた迷惑な奴! ああもう、澄ました顔で壇上の校長先生を見てるのが腹立つ!

 安心してひとしきり怒ったら、気持ちが落ち着いてきた。……まあ、急にいなくなってなくてよかった。巻き込まれて、振り回されて、なんだかんだ言ったって、あたしは高橋のことが嫌いじゃないし、高橋がいなくなっていないかが心配になる程度には気になるのだ。

 そもそも、こんなことで心配になるのも、高橋が謎だらけだからだ。「高橋」という名もその後名乗った「ノディ=エンティ」という名も仕事用の偽名で、本名は不詳。年齢を尋ねられて二十四歳って言ってたけどそれも真偽は怪しい(同じエクソシストの伊吹さんが年齢詐称しているからなおさらだ)。諸々の事情で家具配達の受取の代理をしたことで現住所は知っているけれど、その前にどこに住んでいたとか、出身がどこなのかも不明。金髪碧眼だし、ヨーロッパのどこかなのかなあ、日本語ぺらぺらだけど。高橋は特に自分のことを話さないので、家族がどうとか、趣味がどうとか、そういったことも一切不明。高橋と何度も出会って、何度も喋って、そこにいたはずでそこにいるはずだけど、どこか遠い、そんな感じ。もしかしたら、聞けば教えてくれるのかもしれない。もちろんだめかもしれない。「仕事上、秘密だ」って断られたって、それは仕方がないことだから別になんてことない、はず。だけどあたしはまだ、聞けないままだ。

 ……まあそれはともかく、つまりは高橋が謎だらけなのが悪いのだ! あたしはそう結論付けた。始業式後のホームルームが終わったら、文句の一つや二つくらい言ってやろう。それくらいなら言えるのだ。


 あたしたちの足がすっかり冷え切ったころ、始業式は終わった。相変わらず校長先生の話は長い。その文句だとか、春休みの宿題がどうだったとか、どこに遊びに行っただとか、他愛ない話をしながら教室に戻る。列の先頭あたりはともかく、後ろの方は好き勝手に歩いているので、もうとっくに名簿順になってない。

 席に着くと、明日香ちゃんがこっちに駆け寄ってきた。

「ねえねえのばら、聞いた!? 三組に転校生が来たらしいよ」

「そうなの?」

「うん、男の子なんだって! さっき三組の子が話してるのを聞いたの。ね、見に行こうよ!」

 そう言ってあたしの袖を掴んで引っ張る。

「えっ、今から!?」

「まだホームルームまでちょっと時間があるもん! ね!」

 そう言われて時計を見れば、確かに五分くらいは時間があるし、木村先生も戻ってきていないけれど。

 仕方なく立ち上がるとそのまま扉の方へ引っ張られたんだけど、明日香ちゃんの足が止まった。くるっと方向転換して(あたしは転びかけた)、教室内の前方左端に向かって駆け寄りながら、着くより前に大声で呼ぶ。

「ねえねえ転校生見に行こー、花折ちゃん!」

「ぶッ」

 まさかの人選に、明日香ちゃんの行方を追っていた女子たちと、そして名指しされた伊吹さんが同時に吹き出した。そりゃあそうだ、まずゴシップを持ちかける相手じゃない!

「ちょっと何、」

「早く早く! 先生来ちゃうよ!!」

「待ちなさいよ、こら、ハ……せさん!」

 戸惑い、慌て、うっかり魔物としての名前(ハマル)を呼びそうになった伊吹さんの袖も掴んで引きずって、明日香ちゃんは元気よく二組を飛び出した。あたしと伊吹さんは転ばないようについて行くので必死だ。

 三組は隣の教室。早速明日香ちゃんが廊下の窓から中を覗く。あたしたちのクラスと同じように、三組の生徒もめいめい騒いでいる。しばらく皆の顔をなぞるように見ていると、見慣れない顔が目についた。

「あの子かな!」

 あたしが気付くとほぼ同時に、明日香ちゃんが指差した。

 左から二列目、前から二番目。少し茶色がかった癖のある髪の毛が、窓からの光に揺れていた。カーディガンを羽織っていて、なんだか少し大人っぽい。周りに集まった男子や女子から質問でも受けているのか、笑いながら絶え間なく話している。

 明日香ちゃんが真剣な顔で耳を窓に寄せる。ふんふん、と頷き、

「……なるほど……彼はカワカミくんというみたいだね! 三本の『川』に『上』、『香る』に『深い』で川上香深くん」

「よく聞こえるね、明日香ちゃん」

「羊は耳がいいからね!」

 ぐっと親指を立てた。そうなのか……。

「ううん、なかなかかっこいい。後で三組に遊びに行こうっと。三組には大谷さんがいるし。大谷さんに会いに来て、その二つ後ろの席の川上くんに気付いて話しかけるという流れ……よし、これだね!」

 大谷さんはバレンタインデー前に一緒にチョコを作った友達だ。クラス替え後一時間もたたないうちに、他クラスの状況まで把握しているとは。

 再度親指を立てる明日香ちゃんを、伊吹さんがじろりと横目で見る。

「あなたねえ……これを私に見せて、どういうつもりよ」

「……えへへー、別にー」

 そんな視線は意に介せず、明日香ちゃんはまだ川上くんを見ていた。

 ……何だろう。あたしは明日香ちゃんの言い方に、少しの違和感を覚えた。その「別に」は、何かをもったいぶるような言い方みたいだったから。

「明日香ちゃん、」

「初瀬さん、それに原さんと伊吹さんも。休み時間は終わってるわよ」

 木村先生の声が割り込んだ。見れば、木村先生は三年二組のドアに手をかけて、苦笑している。

「はーいっ、すみません!」

 ぱっ、と明日香ちゃんが窓から身体を離した。明るくそう言って、先生の元へ駆け寄り、先に教室に入る。なんだか拍子抜けしてしまってぽかんとしていると、伊吹さんが先に歩き出したので、あたしも後を追う。

「明日香ちゃん一体何だったんだろうね、伊吹さん……、伊吹さん?」

「……、そうね」

 からかわれ疲れたのか憮然とした顔をしていた伊吹さんは、あたしの呼びかけで一つ息を吐いて、肩をすくめた。


 中学三年生にもなれば自己紹介タイムも不要。プリントを配り、春休みの宿題を回収し、ホームルームは滞りなく進んでいく。

 その裏で、静かに……けれど確かに、緊張は高まっていた。

「今日は、明日の入学式の準備を行うので、体育館は使えません。体育館を使う部活動は注意するように」

 連絡事項が書かれてるんだろう紙を長い人差し指でなぞりながら読み上げていく。その指が。

「……今日の連絡事項は以上ね。さて」

 止まって。ああ。告げる。

「それじゃあ、時間もあることだし……」 

 来た。来てしまった、このときが……――。


「――委員会を決めましょうか」 

 ――委員会決めがッ!!


 ……いやいや、これは学校生活において非常に重大なイベントなのだ。どの委員会に所属するかがこの上期の半年間を左右すると言っても過言ではない。

 木村先生が黒板に委員の名前を書いていく。学級委員、風紀委員、清掃委員、放送委員が二人ずつ、体育委員、音楽委員が一人ずつ。

「まずは立候補する人がいるか、聞きましょうか」

「はーい、風紀委員は花折ちゃんがいいと思います!」

「ハっっ……!?」

 立候補、と言われているのに、前の席の明日香ちゃんが立ち上がって手を挙げて伊吹さんを推薦した。早速クラス中に笑いが起こる。明日香ちゃんの溶け込みっぷりはすごい。大声で名指しされた伊吹さんはというと、「ハマル」の「マ」の口の形をしてしまったところでなんとかこらえていた。わなわなと震えていたけれど、五秒くらいでなんとか澄ました表情になって(その結果、妙に目力の強い表情になった)、咳払いの後、鈴のような声で答えた。

「わ、私でよければ、よろこんで」

 ……ちょっと震えた鈴だった。最後に明日香ちゃんに鋭すぎる冷たい視線を飛ばしたのを、あたしは見逃さなかった。明日香ちゃんがけらけら笑った。

「他に立候補は? 推薦は後から聞きますからね、初瀬さん」

 先生がにこやかに皆を見回す。

 ……そうは言われても。クラスの人数は四十人(明日香ちゃんを入れると四十一人)、委員の定員は残り七枠。

 まず学級委員になったら、深く考えるまでもなく大変だ。普段から先生の手伝いやホームルームの司会なんかをしないといけないし、七月の体育祭で誰がどの種目に参加するかを決めたり当日の運営も手伝ったり。文化祭は十一月だけど、文化祭で行う劇の準備は体育祭終了後から始まるから、何の劇をするのかを決めて、役を割り振って練習して、……うーん忙しい。

 風紀委員は伊吹さんになったからおいておこう。

 清掃委員も忙しい。教室のゴミ袋の補充や掃除用具のチェックといった日々の仕事や、月に一回の委員会への出席、さらには五月と十月の校内一斉清掃や七月のグラウンド草刈りを取り仕切らないといけない。三年生になれば委員長や副委員長を任される可能性も高い。毎昼の放送を行う放送委員も同じようなものだ。体育委員と音楽委員は授業の準備と後片付け程度なのでまだ楽かな。

 運を天に任せて委員に選ばれないよう祈るか、あるいはその中でも楽な委員に、さっさと立候補してしまうか。委員決めは運と戦略の蠢く、新学期の戦いなのだ。その戦いをあたしはどう乗り切るか……というところなんだけど。

 あたしは去年、後者を選んだ。音楽委員に立候補したのだ。あたしの狙い通り、音楽委員は楽だった。週に二回の音楽の授業がある日に、音楽室の掃除をするだけ。音楽室と言っても楽器は別の部屋に片づけてあるから、教室より少しだけ大きな黒板を消して椅子を整頓すればオッケー。うん、楽だ。ならば今年も音楽委員に立候補するのが一番楽なんじゃないだろうか。……いや、でもそんな、楽な委員をあたしが二年も独占するのはよくないんじゃないかな。ほら、他の女子生徒も今年は特に音楽委員をやりたいかもしれない。あ、うん、手を挙げそうな子が何人もいる。それにあたしが立候補したら、なんだかほら、諸々の理由で諸々の奴らから妙な誤解を招くかもしれない。うん、そうだ、今年は体育委員にしよう、そうしよう……。

「ね、ね、のばら」

 明日香ちゃんが、二つにくくった長い髪と一緒にくるりと振り向いた。

「のばらは音楽委員、やらないのっ?」

「うえっ!?」

「こらそこ、おしゃべりは後で」

 不意打ちだったので大きな声が出てしまい、木村先生に目ざとく注意されてしまった。

「じゃあ順番に聞いていきましょうか。まず学級委員に立候補する人、いますか?」

 先生が黒板に書かれた委員名を指差しながら尋ねていく。

 肩をすくめて前を向き直した……ふりをして、一秒も経たないうちに明日香ちゃんがまた振り向いた。

「で、やらないの、音楽委員?」

「ど、どうしてよ……」

「次、風紀委員。女子は決まったので、男子はいませんか――……」

 今度は注意して、木村先生の声にかき消されるような小さな声で、答える。すると明日香ちゃんが目を丸くした。

「だって今年も高橋先生が音楽の担当でしょ?」

 核心を突かれてしまってあたしはむせた。

「だ、だって、って理由になってる!?」

「なってるなってるっ、ほら早く!」

 そしてあたしの手を掴んで挙げさせようとしてくる!! 立候補は、あたしの意志とは何なのか!!

「ちょっともう明日香ちゃ、わっ!?」

 避けようとした手が不意に触れて、明日香ちゃんとあたしの間で「静電気」が起きた。思わずあたしは手を離す――上へと。

「原さん、音楽委員に立候補?」

「えっ……!?」

 あたしは――手を挙げていた。

 あ、ああ、あたしの名前が黒板に書かれていく……でも「間違いです」なんて言ったら明日香ちゃんとふざけていたのがばれてしまう……! ふざけていたのは明日香ちゃんだけなんだけど! あたしはとばっちりなんだけど……!

 あたしの胸中なんて誰にもくみ取られることはなく、無情にも黒板には「音楽委員 原のばら」の白い文字が書かれ、木村先生は不人気な委員の推薦を呼びかけ始めた。とたんに盛り上がる推薦の声。

 ああ、新学期は、浮かれる春は、非情である。昔の人がそういうことを俳句に詠んだりしてないかな、なんて考えるくらいには、あたしは現実から目を背けたい気持ちでいっぱいだった。く、くそう……! いや、そこまで嫌なわけでも……ないけど……!

 今年も音楽の授業を担当し、片付けの時間にそこにいるのだろう金髪碧眼の似非音楽教師の姿を思い浮かべて、机に突っ伏す。

 あたしは文句を七、八個言うことにして心を落ち着けた。この間のニュースで、野球の試合は七対八のスコアが一番面白いって言ってたし。文句も七、八個言うのがきっといいはずだ。

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