間章2:スリーミニッツバスターズ-2

 たん、と軽く高橋はアスファルトの地面を蹴った。その身体はあっという間に周りの屋根よりも高い位置まで跳び上がる。電柱のてっぺんを踏んで跳び、隣の電柱、二階の屋根、街灯、と次々と渡っていく。

 って、電話、電話!! 有無を言わさず渡された携帯電話の画面を見れば、どこかの番号へ電話がかけられている! 誰に!? 魔物の回収をするよう言わなきゃいけないの!? あたしが!?

 無情にも画面の表示が変わり、「通話中」の文字が表示される。ひい、電話がつながってしまった!

「も、もしっ、もしもしぃっ!?」

 完全に声が裏返った。

「えっと、えーっと、あ、そう、高橋ですッ、あ、いやあたしは高橋じゃなくて代わりにかけてるんですけど!!」

 もう自分でも何を言っているかよく分からない。当然、電話の向こうからは、一瞬の沈黙の後に戸惑った声が聞こえてくる。

『……梨川駅前まるまるうどんですが、ええと……?』

 ただ、そのどこか柔らかな困り声と、うどんというキーワードに、あたしは聞き覚えがあった。ぴんっ、と頭がその名前をはじき出す。

「ジルさん!?」

『いかにもジル=ノウェアだけど、……あ、ああー、のばらさん!?』

「そうです、原のばらで、ッうわ、わっ!」

 安心したところに、すぐ真上でどんがらがっしゃんと派手に何かが崩れる音がした。見上げると、横の家の二階の屋根瓦が一、二枚崩れて落ちてくるところだった。思わず身構えるも、少し離れた地面に落ちて粉々に割れた。もう一度上を見れば、こちらをちらっと振り返って片手を挙げつつ遠ざかっていく高橋の背中と、そして高橋が追う黒い四足のシルエットが見えた。あ、あいつ走り回っているうちに人の家の屋根を壊しやがった……。

『のばらさん!? どうかした?』

 電話越しのジルさんの優しい言葉が身にしみる。

「大丈夫です、高橋が逃げた魔物を追ってるんですけど、間違って壊しちゃった屋根瓦が近くに降ってきて」

『後で殴っておくね!』

「ええ!?」

『冗談だよ、冗談じゃないけど。それでのばらさん、この電話は?』

「あ、ああ、そうでした! 実は」

 あたしがこれまでの経緯をなんとかかいつまんで伝えると、「なるほど」とジルさんは言った。

『つまり二発殴る案件ということだね!』

「ええ!?」

『冗談だよ、冗談じゃないけど。仕方がない、今から行くよ、』

 そこで一度ジルさんは言葉を切って、沈黙が五秒、そして、

「来たよー」

「うわあああ!」

 声が耳元と、そして背後から同時に聞こえて、あたしは大声を上げて振り返った。耳から携帯電話を遠ざけて、きゅうっと目を瞑るジルさんがそこにいた。あたしの大声が耳を直撃してしまったらしい。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、驚かせた僕が悪かったです……」

「まさかこんなに早く来るとは思ってなくて……どうやって来たんですか?」

「飛んできたよー、カラスだからね」

「飛ぶのってこんなに早いですっけ!?」

「……のばらさん鋭いね……そう、まあちょっと、空間をいじって」

「『ちょっと空間をいじって』!?」

「おっと、これ以上は」

 ウィンクして唇に人差し指を当てる。

「魔物といえど、エクソシストとして過ごしているからね、あんまり大きな声では言えないんだよね。社会で生きるって面倒だね」

 ぱちん、と小気味いい音を立てて、ジルさんの手にあった折り畳み式の携帯電話が閉じられた。

「それで、これから少なくとも二回殴られる予定のエクソシストは、二回で済みそうなのかな?」

 左手にはめた腕時計を見れば、高橋が魔物退治を始めてから一分と二十秒ほど過ぎたところだった。横の家の瓦屋根を壊してから、姿が見えないけど、大丈夫かな。

 そのとき、背筋を凍えるような震えが駆け上った。

「ひッ……!?」

 何度も身に覚えのあるこの悪寒は、間違いなく、魔物の残り風だ。近くに魔物がいる!

 慌てて辺りを確認しようとしたあたしの耳に、聞きなれた声が届く。

「――最終手段」

 見上げた先、電柱を蹴って飛び降りてきた高橋が、右手を大きく振りかぶる。その手には煌々と輝く白い光。

「発」

「ちょっと待ってノディイイイイイッ!!」

 遮ったのは、ジルさんの大慌ての大声だ。

「僕消える!! 僕も消えちゃうからそれ!!」

「あ、本当だ」

 そういえばそうだった、程度の感じでそう言い、高橋が右手を軽く振った。白い光が霧散する。とん、と地面を蹴り、再び魔物を追って走り出した。

「あ、危な、危なかった……」

 胸のあたりを掴み、弾む息を抑えながら、最終手段の巻き添えを食らって危うく「裏」に送り返されるところだったジル(魔物)さんが、切れ切れに言う。

「三発殴らなきゃ……」

 ……高橋の同僚をやるのは大変そうだ。

「いやまあ、ノディ程度に易々とやられるつもりはないけど……それにしてもあいつ、時間、大丈夫かな」

 再び時計に目をやれば、さっきから二十秒ほど経過していた。これで一分四十秒、残りは一分二十秒、半分を切っている!

 高橋は家の塀から再びどこかのお宅の屋根へと駆け登る。けれどその足が止まった。辺りに魔物の姿が見えない。

「ノディが最終手段を発動させようとしたのを見て、まずいと思って姿を消してしまったようだね」

 小さな声でジルさんが呟く。

 追うべき相手を見失い、高橋は動けない。こうしている間にも時間は刻々と過ぎていく。小さな腕時計の、聞こえないはずの秒針の音が聞こえてくるみたいだ。五秒……十秒……。

 どうしよう、どうしたらいいんだろう。魔物は壁や家や、こちらの世界のあらゆるものをすり抜けてしまうから、道なんて関係ないし、どこにいるか見当もつかない。だからって、当たるのを祈りながら最終手段を適当にぶっ放すわけにもいかない、ここには魔物のジルさんがいるんだから。

 どうにか、せめて魔物のいる方向だけでも分かる手段はないの!?

「ジルさん」

「しっ」

 呼びかけると、短く鋭い抑えた声で、ジルさんが静かにと言った。えっ、と思わず聞き返しかけた口を押さえる。ジルさんは目線をこちらに向けず、ゆっくりと目だけを動かしていた。息遣いすら聞こえない。僅かなものも見逃さず、聞き逃さないように。

 見れば、屋根の上に立つ高橋も、北風に髪を、マントを煽られながら微動だにしない。碧の目を伏せて、静かに、静かに、待っている。

 そうだ。魔物はこちらの世界のあらゆるものをすり抜けてしまうけれど、それはこちらに来たばかりの魔物の話。こちらの世界歴二年の明日香ちゃんやジルさんまでとはいかずとも、少なくとも一度捕まってから逃げ出す程度の間こちらにいる魔物は、僅かでもこちらの世界になじみつつあるはずだ。だから、すり抜けるはずの物に当たって、もしかしたら何かが揺れるかもしれない、何か音が鳴るかもしれない。

だけど、そんな微かな変化を、エクソシストだからって感じ取れるんだろうか。冬の冷たい風は強く吹いて、木々を揺らし、音を立てている。残り……四十秒……。

 高橋が右手を胸のあたりに上げた。その手に再び白い光が灯る。まさか、一か八か最終手段を使う気!?

 けれどその手は、風にはためく黒いマントの中に仕舞われた。そのまま、右手にぐるぐるとマントを巻き付ける。何重にも覆われて、眩い光は、ほぼ見えなくなった。

 え、何してるの……?

 困惑するあたしを他所に、ジルさんは変わらず真剣な表情で集中している。

 高橋の唇が動く。

 ――最終手段、発動。

 分厚く黒いマントの下から発された光は、淡く、淡く、辺りに広がった。柔らかな波動が身体を通っていく。残り、三十秒。ジルさんが小さな、小さな声で教えてくれる。

「……今放たれた最終手段は、『裏』とこちらの境界を歪ますほどの威力はない。けれど『こちら』側の光に満たされて、この辺りはいつもよりも『こちら』側に傾いている。それは、この近くにいるはずの魔物も同じ。こちら側に傾く……つまり、通常よりも急速に、こちら側に馴染んで、形を持ち始めているということ。少なくとも、そうだね、表面くらいは」

 残り二十秒。高橋の右手から外されたマントがふわりと風に靡き、そして、降りた。

 風が、止んだ。

 張り詰めたこの場に訪れた、奇跡のような静寂。

 それを破る、……鈍く重い衝突音!!

「そこ!」

「そこだ!」

「そこか」

 あたしの、ジルさんの、高橋の、声が重なる。三人が指差す、道の先に、ブロック塀にでもぶつかったのだろう、うずくまる魔物の姿。

 高橋が駆ける。

 残り十秒。九。八。急に物にぶつかって混乱した様子だった魔物が、向かってくる高橋に気付いて立ち上がろうとする。七。だけど、もう逃さない。右手をマントで、今度は一重だけ覆う。六。真っ直ぐに走る。五。四。真っ直ぐに!

 三。もはやお馴染みの淡々とした声が、ここまで届く。

「最終手段」

 二。輝きを増す、その光が。

 一。

「――発動」

 辺りを、再び淡く包んだ。

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