第三章-2:あたしと魔界と逃亡者-7
「……そんなところで突っ立っていないで、座ったら?」
そう言われて、自分が座敷席のそばで伊吹さんを見ながらぼんやりと立っていたことに気付いた。
「う、うん」
おじさんはすやすやと眠っていて起きる気配もないので、あたしは伊吹さんの向かいの席に座った。机の端に置いてあった空のコップと水差しを引き寄せ、伊吹さんが水をついでくれた。あたしたちがうどんを食べてから、どれくらいの時間が経ってるんだろう。水差しには水滴が無数についていた。なんとなく、伊吹さんと何を話していいか分からなくて、あたしは水滴をぼんやりと見ていた。障子越しに差し込む冬の斜めの光は弱くて、外から伝わる冷たい空気と混ざって漂っていた。
「……高橋たち、大丈夫かな?」
水滴が三つほど、つうと流れたころ、あたしは伊吹さんに尋ねた。相変わらず頬杖をついて障子を眺めていた伊吹さんは、視線を一度あたしに寄越し、またもとに戻した。
「大丈夫でしょう。私の姉がいるもの」
「瑞穂さんが? ……ってごめん、ええと……」
思わず聞き返してしまって慌てると、伊吹さんがふふっと笑った。
「普段はどうしようもなくうっかりしてるけど、私の姉はすごいのよ」
「へえ……」
そういう伊吹さんの顔は、声は、とても穏やかで。あたしは頷きながら相槌を打った。
「まあ、そうは言っても、ただ待つってのも落ち着かないわね」
伊吹さんは、さっきまで自分が眺めていた障子に手を伸ばした。
「ここからなら見えるかしら。……わ、眩しい」
障子が開かれ、光が斜めから差し込んだ。冬の日とはいえ十分に強い光に、思わず目を瞑る。
徐々に目を開けると、柔らかな逆光の中に連なる家々のシルエットが見えた。
「あそこ」
伊吹さんが指差す。一軒の家の青い瓦屋根の上に、人間のかたちの影が二つ。少し離れた電信柱の上にもう一つ。そして、彼らの視線の先には、二階建ての小さなアパートの上に佇む巨大な四本足の黒い獣の姿。どれくらい巨大かというと、家と同じくらい。家の上に家が乗ってるような感じだ。大きすぎてぴんとこないんだけど、多分あの形は、狼なんじゃないだろうか。
普通ならありえないそのシルエットたちは、頑張って探すまでもなく、すぐに見つかった。すなわち、とっても目立っている。
「ねえ伊吹さん、あんなに白昼堂々、屋根に登って魔物退治して大丈夫なの? 逮捕されない?」
「されないわよ、まず誰も気付かないもの」
「気付かないの?」
「『人避け』って言って、」
伊吹さんが人差し指を立てる。その先に小さな光が宿して、机をなぞる。伊吹さんの手元にあるコップを囲む円が描かれた。最後にとん、と円をつつくと、……あれ、コップが見えなくなった……!?
目を擦る。あ、よく見たら、コップはある。だけどなんだか輪郭が曖昧というか、ぼんやりとしているというか。コップがあると知らなければ見逃しそうだし、知っていても油断するとまた見失いそうだ。
「『こちら』側の力で囲むことで、外から中が見えづらくなるのよ。例えるなら……私たちは暗いところで物を見ることはできないけれど、さっき障子を開けた時のようにあまりに眩しい場合でも逆に見えないことってあるでしょう。それと同じ。見慣れていない人にとっては、『あちら』側の存在って見えないものだけど、逆に強すぎる『こちら』も見づらいものなのよ。それを利用して、ここの辺り一帯を囲うことで、一般人には見えづらくしているの。このうどん屋は『人避け』の範囲内だから、私たちには問題なく彼らの姿が見えるけれど」
「ってことは、うどん屋さんの辺りは今、他の人には全く見えてないってこと?」
「ついさっきまであったはずの建物やものが全く見えなくなってしまったら、不自然でしょう。あくまで『見えづらく』よ。意識的に見ようとしなければ見えない程度にするの」
「へええ。これは、瑞穂さんがやったの?」
なんとなく高橋にそういうことは出来なさそうな気がしなかったのでそういうと、伊吹さんは小さく首を振って「いいえ、私よ」と言った。
「そうなんだ、でもそんなのいつの間に……」
「原さんを助けに行く前」
伊吹さんはさらっと言ったけど、……おじさんと一緒に走り回っていて時間の感覚がはっきりしなかったとはいえ、あたしが穴に落ちてから、伊吹さんたちが助けにくるまでにはそれほど時間は経っていなかったはずだ。あの短い間に、伊吹さんはこれだけのことをやってたんだなあ。
だけど、逆に、やっぱりどうして、って思う。それだけすごいのに、伊吹さんはどうしてうどん屋さんであたしと一緒に留守番してるんだろう。
外では、三人がじりじりと狼の魔物との距離を縮めていた。囲んで追い込むように。魔物はぐっと体勢を低くして、威嚇しながら、だけど追い詰められて徐々に下がっていく。
あともう一歩も下がれば屋根から足が落ちる。と、その時、魔物が突如身を翻して逃げ出した!
突然の動きに、けれど三人は一拍の遅れもなく駆け出した。
高橋とジルさんが二手に分かれて追う。魔物の動きは素早い上にめちゃくちゃに駆け回っているように見えるけれど、はじめにいた辺りからそう遠くに行くわけではなくて、同じところをぐるぐる回っている。いや、回らされている。二人がたぶん、誘導してるんだ。
それでも振り切ろうとする魔物を見て、走りながら高橋の右手が動く。
最終手段、発動。
光が弾けて、魔物がぐらりとよろめく。けれどまだ走り出す。一度じゃだめみたいだ。だけどそれは想定内だったようで、動揺することなく再び二人は追い始める。追う。最終手段。追う。最終手段。追う。
高橋がジルさんに合図して、ジルさんが頷いた。弱った魔物を二人が導く。それでも咆哮し、魔物が突っ込む、その先には。
元いたアパートの屋上で、静かに、じっと、待っていた瑞穂さんが、すっと、右手を上げた。
迫る魔物。瑞穂さんはそのまま動かない。
もうぶつかる! と目を瞑りかけたときに、瑞穂さんが、掲げた右手を鋭く振り下ろした。
その瞬間。
無数の光の弾丸が魔物に放たれた。辺りが閃光で真っ白になるほどの数の弾が途切れることなく、魔物を貫き、包んでいく。
瑞穂さんが右手を、指揮者が演奏を止めるかのように振り払って、光はぴたりと止んだ。光の洪水の中から現れた魔物は、ふらりと崩れ、大人しく蹲った。
あまりにも鮮やかに、圧倒的に、一瞬で狼は仕留められた。
「……すごい……」
「ね、すごいでしょ、私の姉は」
あたしの呟きに、伊吹さんが再び同じことを言った。
その、「私の姉は」という言い方が、なんだか「私はそんなことない」って言っているかのようで。あたしは反射的に叫ぶように返していた。
「い、伊吹さんだって」
伊吹さんは上目遣いで覗うようにあたしを見て、また窓の外を見た。
「でも私はあそこにいないもの」
一瞬、外が光に包まれて、それが収まったとき、地面に落ちてわずかに見えていた狼の背中も見えなくなっていた。たぶん高橋が最終手段を使って、これで魔物は「裏」に帰ったんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます