第三章-2:あたしと魔界と逃亡者-6
「そうね」
伊吹さんがうどん屋の扉を開け、店内に入る。あたしとジルさんもそれに続いた。
キッチンの天井の穴に近づく。人ひとりが通れるほどの大きさだったはずの穴は今、腕がぎりぎり入るくらいにまで小さくなっていた。
伊吹さんがジルさんに目配せし、穴に近づいた。細く長い指で穴の中心を指す。その先に白い光が宿ると同時に、穴が波打った。伊吹さんが小さく呻く、けれど指は、光はぶれない。照らされた中心から広がる波に押されるように、穴はどくん、どくんと大きくなっていく。
「完了よ」
伊吹さんが手を下ろしたときには、穴は、あたしはもちろん、ジルさんやおじさんも通れるほどにまで広がっていた。
「ジル、先に通って」
「じゃあ、お先に戻るよ」
ジルさんはおじさんを抱え直し、キッチンに置いてあった椅子によじ登った。片手で穴の縁を掴んで椅子の上で立ち上がると、背の高いジルさんの頭、肩、胸くらいまでが天井の穴に入った。腕に力を入れて上に伸びあがると、そのままジルさんの身体はすとんと上に吸い込まれるように消えた。
「私が穴を留めておくから、原さんも行って」
「う、うん、分かった」
「穴の中に身体を入れれば、上下が反転して自然にあちらの世界へ落ちるから。着地には気を付けて」
ジルさんを見習って、あたしも椅子の上に立つ。身長が足りなくて、頭がぎりぎり届くか届かないかくらいだ。両手を穴に突っ込む。確かに縁のところは形を持っていて、掴めそうだ。このままジャンプすればいけるかな。
「よいしょっと」
勢いをつけて飛び上がる。頭を突っ込んだ穴の中は真っ暗だ。
ぐるん、と突然身体が逆さまになる感覚。上が下に。頭が……下!
「え、え、……うわあああ!?」
あわてて手を伸ばすも、あたしは背中から硬い床に落ちた。
「痛っ……あ痛たたたたた」
衝撃に浮かんだ涙を拭って辺りを見てみれば、そこはさっきと変わらない、ジルさんのお店のキッチンの中だった。落ちてきたあたしの頭上には黒い穴が開いていて、ちょうど鉄棒で前回りをするようにくるりと伊吹さんが飛び降りてくるところだった。
「大丈夫? 原さん」
「なんとかぁ……」
かっこよく着地した伊吹さんに声をかけられ、もう一度涙を拭いて、背中を押さえて立ち上がる。
「無事、戻ってきたわね」
伊吹さんが安堵のため息をついた。
そう、確かにさっきと同じ、ジルさんのお店のキッチンにいるんだけど、……ここは「裏」じゃない。だって、外からにぎやかな声が、音が聞こえる。人の気配がする。
戻ってきた。あたしたちの世界に!
「よかったあ……!!」
はあああ、とほっとして大きく息を吐く。あたしを見て小さく微笑んでから、伊吹さんは表情を引き締め、キッチンの外へ向かう。
客席の奥に、靴を脱いで上がれる畳敷きの座敷席があって、ジルさんはそこにおじさんを横たえているところだった。
「ああ、二人とも、大丈夫かい」
「問題ないわ」
「この人はまだまだ目覚めないだろうし、事態が片付くまではここに寝かせておくよ。お店も臨時休業にしたからね」
そう言うとジルさんはエプロンを外した。
「さて。大丈夫だと自分で言ったものの、正直なところ半信半疑な、あの二人の魔物退治の様子でも見に行ってきますかー」
そうだ、外では今も、高橋と瑞穂さんがこちらの世界へ迷い込んだ魔物を捕まえようとしているんだった。
あたしは……、でも、行くわけにはいかないから、じゃあここでおじさんを見張っていよう。もし目覚めてしまって、そのときにうどん屋の座敷席に寝かされていたらびっくりするもんね。
「のばらちゃんは、念のため、ここに残っていてもらっていいかい?」
ジルさんの言葉は考えていた通りのもので、あたしは素直に頷いた。
「花折ちゃんも」
だからこそ、それに続けられた言葉に驚いて、思わずジルさんをまじまじと見てしまった。
えっ、伊吹さんも?
そりゃあ、あたし一人よりも、伊吹さんがいてくれた方が頼もしいけれど。でも伊吹さんはエクソシストだから、魔物退治の増援に向かうものだとばかりだと思っていた。魔物が何匹か同時に現れたってことだったけど、ジルさんだけで大丈夫なのかな? 高橋と瑞穂さんがすんなりと魔物退治を進めているってことなのかな。
「分かったわ」
伊吹さんが頷いたのを見て、ジルさんは颯爽とうどん屋を飛び出していった。
後には伊吹さんとあたし、そして寝ているおじさんが残された。伊吹さんは小さくため息をつき、窓際の椅子に座った。頬杖をついて、しばらく窓を塞いで柔らかく光る障子を眺めていたけれど、ふとあたしの方を見た。
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