第三章-2:あたしと魔界と逃亡者-5

「ちょっと気を失ってもらったよー」

 ジルさんがおじさんの上半身を起こし、ずるずると引っ張って、一旦扉にもたれかけさせる。

「じゃあ、次はギエナの回収かな」

 ジルさんは口に指を当て、強く吹いた。高い笛のような音が響きわたる。頭上でばさばさと羽ばたく音がした。さっき、あたしたちを導くように飛んでいたあのカラスだ。一度飛び立ったカラスは、小さな円を描くように百八十度回ったかと思うと、勢いよくジルさんに向かって突進した。

「ジルさん!?」

 魔物はぶつからないとは分かっていても、さすがに目の前で見ると驚いてしまう。

 でも心配はいらなかった。ただし、すり抜けたのではなかった。ジルさんにぶつかる直前で、カラスはさっと砂のようにほどけた。そしてその細かい何かは、溶けるようにしてジルさんの右肩へと吸い込まれていった……。

「お疲れ、ギエナ。のばらさんたちを見つけて先導してくれてありがとう。まあ、結果的には君の働きがなくてものばらさんは僕の店に来てくれてたみたいだけど……って、ごめんごめん」

 宥めるようにぽんぽん、と自分の肩を叩いてから、ジルさんはあたしの方を見た。

「驚いた? 実は僕は魔物で……って、あれ?」

 柔らかい笑みを浮かべて話し始めたジルさんが、あたしの様子を見て首を傾げる。

「あんまり驚いてない?」

「え? あ、いえ、驚いたは驚いたんですけど、あたしの友達にそういう子がいて、一度見たことがあるというか……」

「ええ!? のばらさんの交友関係、どうなってるの」

 それはあたしが聞きたい。

「やだなあ、自慢げに『実は』なんて言っちゃって、ちょっと恥ずかしいじゃないか、もう」

 頬を両手で押さえ、ジルさんが渋い顔をする。

「まあ、とにかく、僕は魔物なんだけど、訳あってあちらの世界でエクソシストの手伝いをしているんだ。カラスの魔物、アルゴラブ。さっきのカラスは、僕の片翼のような存在、同じくカラスの魔物のギエナ。よろしくしてやってね」

「よ、よろしくお願いします」

 ジルさんと、ジルさんの右肩あたりに向かってお辞儀をすると、ジルさんが笑った。

「さて、そろそろ元の世界へ戻ろうか。瑞穂さんとノディの方も心配だからね」

「高橋たち、どうかしたんですか?」

 そういえば、ここに高橋は来ていない。

「のばらさんたちが落ちたのとちょうど入れ替わるように、『穴』から魔物があちらの世界へ出ていってしまったんだよ。その対処を二人にやってもらってる。何匹か同時に出ていってしまったようだから、早く戻って手伝わないと」

 瑞穂さんと高橋かあ、……確かに、あたしが言うのも何だけど、なかなか不安な感じがする。あののほほんとしたうっかり屋さんの瑞穂さんと、真顔で最終手段をぶっ放す高橋、そんな二人で果たして魔物退治はできるんだろうか。しっかり者の伊吹さんがそちらを担当した方がよかったんじゃないかな……。

 無意識に見ていた伊吹さんと目が合った。胸のあたりを押さえている伊吹さんは、やっぱりどこか苦しそうな表情をしている。

「何? 原さん」

「え!? あ、ううん、魔物退治をしてる二人は大丈夫かなって」

「大丈夫よ」

 伊吹さんはきっぱりと言った。あんまりにもはっきりと言ったので、なんだか怒っているようにも聞こえる。

「あはは、まあのばらさんの心配も分かるけど」

 そこに、ジルさんの呑気な声が割り込んだ。

「でもね、大丈夫。それにね、花折ちゃんにはどうしても僕と一緒に『裏』に来てもらわないといけなかったんだ」

「どういうことですか?」

「『穴』にも種類があってね、あちらから『裏』に向かって開いた穴と、『裏』からあちらへ向かって開いた穴があるんだ。このうどん屋にある穴は、あちらから『裏』に向かって開いた穴。だから、あの穴を通って僕らがあちらから『裏』に向かうときには障害がないんだけど、逆に『裏』からあちらへ戻ろうとするときには抵抗があって、そのままじゃ上手く通れないのさ。そういうときはどうするかというと、あちら側の存在であるエクソシストに『穴』に干渉してもらって、無理矢理こじ開けて通るんだ」

 ジルさんは伊吹さんの方を見た。

「ただ、存在が大きく異なるエクソシストが『裏』へ行くことは、彼らにとって負担になる。存在が『裏』から離れれば離れるほど、つまりエクソシストとしての力が強ければ強いほど、負担が大きくなって、最悪の場合は命を落とすこともある。瑞穂さんやノディはエクソシストの中でもかなり存在が『裏』から遠いから、来てもらうわけにはいかなくて、それで二人が魔物退治を、花折ちゃんが『裏』に行くことになったんだ。花折ちゃんはエクソシストとしては標準的な力の持ち主だからね」

 ジルさんの説明を、伊吹さんは少し下を見て黙って聞いていた。

 そうだったんだ。だから伊吹さん、「裏」に来てからずっと、辛そうにしていたんだ。大丈夫だ、って言い張りながら。

「……伊吹さん、ごめんなさい……」

 ぽろり、と言葉がこぼれ出た。伊吹さんを正面から見られなくて、あたしはスカートをぎゅっと掴み、俯く。

「あ、あたしが、伊吹さんの言うとおりにしてれば……高橋について行かずに、穴に落ちたりなんかしなかったら、伊吹さんが今、苦しい思いをして『裏』に来ることもなかったのに」

 伊吹さんは一瞬息を止めた。ややあって、はあ、と細く長く息を吐く。

「……あの穴は」

 そっと伊吹さんの方を見ると、伊吹さんは変わらず少し下を見ていた。

「自然に空いたものよ。原さんがちょうどそこにいて落ちてしまったのも、偶然。私に謝ることはないわ」

 そしてちょっとだけ、視線を横にずらした。

「私も、言い方は悪かったわよ」

「……伊吹さん」

「でも魔物退治に関わっちゃいけないのは変わらないからね!?」

「ひゃいっ!?」

 急に大きな声を出すから、あたしは変な声が出て、伊吹さんはごほごほとせき込んだ。呼吸を落ち着かせてから、伊吹さんが話し出す。

「……危ないから。原さん、さっき、『すり抜ける魔物がいたから』って言ってたけれど、もしかして『魔物はすり抜けるもの』って思ってる?」

「え、違うの?」

「基本的にはそうよ。だけど、ハマル……初瀬さんの例のように、その世界に長く居続けることで馴染んでしまうこともある。特に原さんは、私たちエクソシストに比べて存在が『こちら』側ではないから、影響を受けるのも早いわ。もしかするとそろそろ、身体の端っこ……指先辺りは存在が『裏』寄りになって、魔物に触れられるようになっているかもしれないわよ」

「ええ!?」

「もちろん、完全にすり抜けなくなるには、相当時間がかかるけれど。今回は原さんの知識が役立って落ち着いて立ち振る舞えたみたいだけど、これからは正しく覚えておきなさい。……まったく」

 そういえば、途中で魔物に肩をとんとんと叩かれたんだった。その後あたしたちをすり抜けた魔物と、肩を叩いた魔物は別だったから、魔物によってもあたしに触れられるかどうかは違うのかもしれない。そして、もし肩を叩いた魔物の方にぶつかられていたら、……か、考えただけでぞっとする……。

 あたしたちの様子を見ていたジルさんが、扉にもたれかけさせられていたおじさんに近づき、その脇に腕を入れて軽々と持ち上げた。

「花折ちゃん、のばらさん、それじゃあそろそろ向こうの世界に戻ろうか」

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