第三章-2:あたしと魔界と逃亡者-3
目を閉じることもできなかったから、あたしははっきり見た。あの大きな怪物があたしの身体にぶつかる、まさにその瞬間を。なのに。
そのまま何事もなく、あたしたちを、すり抜けた。
一瞬何が起こったかよく分からなかった。そろりと背後を見やると、怪物がこちらにお尻を向け、細い尻尾を振って立っている。
こうやって少し離れて見てみると、その怪物は牛のように見えた。
……すり抜けた。
……牛の。
…………魔物?
「……あ、あああああああ!!」
その言葉が出た瞬間、あたしの全身をひらめきという名の電流が駆け抜けた。
穴。穴に落ちて辿りついた、あたしたちの世界と似て異なる世界。闊歩する魔物たち。
ここは、ここは「裏」だ!!
あたしたちが暮らす世界のすぐそばに存在している、「裏の世界」。日本に古くから伝わる言い方をするならば、現世に対して「常世」。魔物――英語で言うとデーモン、ロシア語は知らない――が暮らす世界だ。ふとした拍子であたしたちの世界と繋がってしまうことがあって、そのとき二つの世界の境界は真っ黒でぺらぺらな「穴」のように見える。そして、穴からは魔物がこちらへ迷い込んでくることもある。
これを逆にすれば、まさに今のあたしの状況そのままだった。あたしとおじさんは、ふとした拍子でできてしまった「穴」に落ちて、「裏」に来てしまっていたんだ。それなら、あたしたち以外の人間が誰もいないことも、代わりに魔物がうろうろしていることも納得できる。
そうとなれば、これからどうすればいいのかも分かる。あたしたちはまた「穴」を通って、今度は「裏」からあたしたちの世界へと戻ればいいのだ。さっきあたしたちが落ちた「穴」のように偶然開くことを期待するとなると途方に暮れてしまうけれど、……お昼に聞いたじゃないか。ジルさんのうどん屋さんの奥には、塞がれないままの「穴」があるって!
「あ……あはは」
どっと力が抜けて、ふにゃりと緩んだ笑みがこぼれる。ああ、よかった。あたしたち、帰れるよ!
「ねえおじさん! ……あ」
おじさんは、地面に尻もちをついて、ぽかんと丸く目と口を開けていた。呼ばれてその表情のままぎこちなくあたしを見る。
「お……お嬢ちゃん? 今、何が? 起こったんだ? え?」
そりゃあそうだ。おじさんは、ここが「裏」であることや魔物があたしたちをすり抜けることを知らないし、そもそも「裏」や魔物が何なのかも知らないはずだ。
どうしよう。あたしはこれから、おじさんを連れてうどん屋さんに行き、「穴」を通って元の世界に戻らなければいけない。だけど、これらのことをおじさんに説明して、納得したうえでついてきてもらえるかっていうと、そんな気は全くしない。それに、伊吹さんやジルさんがあたしのいる場でエクソシストの話題を出すことをためらっていたことを考えると、あまり不用意に本当のことを伝えるのもよくないんじゃないだろうか。
迷っているうちに、だんだんとおじさんの視線が訝しげなものになっていく。どうしよう、早く何か言わないと、おじさんがあたしのことを怪しみ始めている。
「どうしたんだ、何か知っているのか? どういうことなんだ!?」
「お、落ち着いてくださいおじさん、あの」
「やっぱり何か知っているのか!? お嬢ちゃん、ここは一体、それに君は」
「あ……あたしは」
そのとき、あたしの脳裏に浮かんだのは。
「あたし、実は神の使いなんです!!」
「……は!?」
唖然とするおじさん。もっともな反応だ。だけどおじさんに納得してもらうには、もう嘘でも何でも胸を張って言いきるしかない!
「神の使い? 何だそれは……」
「この世にはびこる怪物をやっつけるのがミッションなんです!」
「か、怪物を? しかし君も、さっきまで怯えて一緒に逃げ回っていたじゃないか……」
「怪物に襲われたショックで今覚醒したの!!」
「そ、そうなのか!?」
「そう!! その証拠にあたしたちは無傷でしょ! これが神の使いの力なの! 分かる!?」
「そうか……」
おじさんはあたしの勢いに押されて頷いた。そしてそのまま、「夢か……やはりこれは夢だったのか……」とぶつぶつ呟き始めた。
夢だと思ってくれているなら、それはそれで都合がいい。あたしはおじさんの手を引っ張る。よろめきながら、おじさんが立ち上がる。
「さあおじさん、行きましょう!」
「行くってどこへ」
「駅前のうどん屋です!」
「うどん屋!?」
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