第三章-2:あたしと魔界と逃亡者-2
何かがおかしいことは分かる。けれどあまりにも、いろんなことが不確かだ。
おじさんとあたしは、辺りを探索することにした。さっきの謎の怪物が恐ろしいので、二人一緒に、慎重に。
そうして分かったのは、やっぱりここは梨川駅前だということ。住宅街やお店が並ぶ小道、駅前通り、今日行った家具チェーン店にも行ってみたけれど、高橋どころか人っ子一人見当たらなくて、なぜだかここにはあたしとおじさんしかいないということ。相変わらずあたしたちの声や足音以外の音は聞こえないこと。建物や物はきちんとあること。
「何なんだ……誰もいない……まるで物語か、夢の中のようだなあ……」
家具チェーン店で、整然と並ぶ雑貨コーナーの棚を見渡しながら、おじさんがぼんやりと呟いた。
人がまるごと消えてしまった街は、現実味がない。なんだか、あたしの知る世界とは、違うものみたいだ。
一体ここは何なんだろう、あのとき、あの穴みたいなものに落ちた、ような感じがしてから……。
……穴?
ふと、今になってその言葉が頭の片隅に引っかかった。……なんだろう、なんだか大事なことに思い当たりそうな気がする……。
「お嬢ちゃん、そろそろ行こうか。やはり誰もいないようだし……」
「あ、はい、そうですね」
おじさんに促され、一階に降りて、一緒に自動ドアから出る。自動ドアは、あたしたちにも反応して、きちんと自動で動いてくれた。
何かに出くわさないように、慎重に辺りの様子を覗いながら、また駅前通りから小道へ入る。あんまり広い道は、遮るものがなくて不安なのだ。またさっきの怪物に出会ったらと思うと。
あの怪物は、何だったんだろう。驚いてすぐに逃げ出したから、あんまりはっきりと覚えていないんだけど。……思い出すと怖いから、あたしはあまり考えないように、首を横にぶるぶると振った。
「お嬢ちゃん、喉が渇いたりはしていないかい?」
おじさんがズボンの尻ポケットから、小さいサイズのペットボトルを出した。
「え、うん、大丈夫」
「そうかい」
お尻のポケットだし、走り回ったから泡立ってるし、あんまり飲みたいものではなかったので断ると、おじさんはペットボトルをまた仕舞った。自分が飲みたかったわけじゃなくて、あたしを気遣ってくれたらしい。
ひったくりをしたり、あたしを人質にとったりしてた頃から比べると、おじさんはすっかり大人しくしょんぼりしてしまっていた。あああ、と息とともに声を絞り出して、顔を手で覆う。
「どうしてこんなことになってしまったんだろうなあ……」
「本当ですよねえ……」
あたしも、はあとため息をついてうなだれる。あたしの言葉を聞いたおじさんは一瞬息を止めて、何かを言いかけたけれど、何も言わずにまた息を吐き出した。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。おじさんの言葉を頭の中で繰り返す。……やっぱり、あのとき、高橋に手を引かれたとしても、あたしは一緒に行かないほうがよかったんだ。こんな訳の分からないことになって、高橋もいないし、あたしじゃ何も分からないし、何もできないし。ぎゅううと胸が締め付けられて、あたしはそのままうずくまる。押さえられない声が、ううう、と漏れる。
ふと、後ろからとんとんと肩を叩かれた。
おじさんが励ましてくれてるのかな。あたしは袖で目を擦ってから、顔を上げた。
顔を上げた先に、おじさんがいた。
……あたし、今、後ろから、肩を叩かれなかったっけ。
おじさんは、今にも叫びだしそうな顔をしている。
「え」
あたしは振り返り。
その怪物と、目が、あった。
「うわあああああああ!?」
「いやあああああああ!?」
あたしとおじさんは同時に叫び、同じ方へ同時に走り出した。
怪物、怪物が出た、出たあああああああ!!
めちゃくちゃに走る。走る。走る。ああ、あたし、どうして陸上部で短距離を選択したんだろう、長距離にすればよかった! 肺がきしむ、足が悲鳴を上げる。
「お嬢ちゃん、早く! 早く!!」
「分かってますぅぅぅぅぅ!!」
先行するおじさんからはぐれないように必死で走る。おじさんが角を右に曲がる。あたしも続いて曲がり、そのとたん、顔面から、何か大きくて柔らかいものにぶち当たった。
「きゃああああ、あ、……お、おじさん?」
おじさんの背中だった。
「どうして立ち止まって……」
答えないおじさんの背中から、ひょいっと顔を出す。
道の先に、両脇の塀をゆうに超える背丈の、真っ黒で、巨大な怪物がいた。
四本の脚。曲がった二本の角。爛々と光る眼。隆々とした身体。
「や……やだ……」
運が悪いにも程がある、どうして逃げた先にまた怪物がいるの!! しかもあんなに恐ろしい風貌の!!
とにかく引き返さないと!
「おじさんっ、戻っ、戻りましょ……」
「お嬢ちゃん」
上ずるあたしの声を、震えるおじさんの声が遮った。足も震えている。
「おじさんはここでこいつを食い止めるから、お嬢ちゃんは、先に逃げなさい」
「は……?」
そのうち歯ががちがち鳴り出すんじゃないか、ってくらいの震え声で、おじさんは言う。なのに、思わず腕を引っ張っても、おじさんはびくともしない。
「何言ってるんですか、おじさん!?」
「ここがどこなのか、未だにさっぱり分からんし、どうしてこんなところにいるのかもさっぱり分からん。けれど、どうしてこんなことになってしまったのかは、きっと分かる。私が君を人質にしなければ、君と一緒にここへ落ちることはなかっただろう。その前に、私が君の連れの人の財布を盗っていなければ、君が私を追ってくることはなかっただろう。その前に、……いや……とにかく、きっと、私が、君を巻き込んでしまったんだ」
「おじさん」
あたしには、どうしておじさんがそう思ってしまったのか分からなかった。
「だめです、一緒に逃げましょう!?」
「いいや、行ってくれ」
「でも!」
「早く……!」
怪物が、ざっ、ざっと前脚で地面を蹴る。どっ! と風が吹いたかと思うほどの勢いでこちらへ向かって走り出した!
すぐ目の前に迫る恐怖に、あたしもおじさんも動けない。ああ、もうその角が、あたしの身体を――。
すり抜けた。
「……あれ?」
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