第三章-1:恋の話をしよう-12

「動くな! 動くなよ、そこの兄ちゃん……!」

 鼓動が再加速した。

 うわああああ、あたし、いつの間にか人質になってる! って叫びたいけど、息が切れているのも合わさって、声が出ない!

 こっちへ向かって駆け寄ろうとしていた高橋は、少し眉をひそめて、踏み出していた足を下げた。

 それを確かめて、おじさんは一歩後退りする。掴まれているあたしももちろん一緒に。息が荒くなっていく。頭の上から、おじさんの、押し殺したような声が聞こえた。

「じっとしてろ、そうすればこの娘は返してやる」

 どうしようどうしよう、心臓が飛び出そうだ。怖い、怖いってば、そして同時に、圧倒的足手まといになってる自分に血の気が引く。もう、どうしようって言葉しか出ない。喉で何かが詰まっちゃったみたいに、声が出ない、苦しい、後悔が恐怖になって襲ってくる、助けてって、ただの中学生であるあたしの頭がそれで埋め尽くされる。

 思わず助けを求めて顔を上げると、高橋はおじさんの方をじっと見ていた。無表情な高橋の口が開く。

「のばらは俺の娘ではないんだが」

「そういう意味じゃないからぁぁぁ!!」

 あ、声が出た。って、喜んでる場合じゃない! 何を言うのかと思ったら、この状況でよくそれを口に出せたな高橋! しかも、真顔の中にも心底不思議そうな表情をちらつかせて!

 でも、いつも通りの高橋の姿を見て、少しだけ頭が冷えた。確かに首に手は回されてるけど、おじさんは別に凶器を持ってるわけでもなんでもない。もちろん人質になってることには変わらないけれど、パニックからは脱した。高橋に感謝……していいのかなあ。

「それに俺はお前の兄でもないし……」

「う、うるさい、黙れ!」

 あたしと対照的に、裏返った声が頭の上から聞こえてきた。相当、余裕がなくなっているらしい。大きな声で、思わず肩が縮まってしまう。

 高橋は、おじさんの言葉の通り、口を閉じたままこっちを見て立っている。さっきの、娘がどうのこうのと違って、「うるさい、黙れ」に特に疑問点がなかったから黙ってるだけかもしれないけど。

「そうだ、動くなよ……」

 高橋、あたし、背後。三点へ忙しなく視線を動かしながら、おじさんはあたしを連れて一歩一歩後ろへ下がっていく。曲がり角まで下がったら、走り出すつもりなんだろうか。高橋の方を見ると、たぶん高橋もそう予想しているんだろう、黙って立っているけれどおじさんのタイミングをうかがっている。でも、いくらタイミングよくスタートを切ったって、距離が開いてちゃ逃げられてしまう。……よし。

 せめてここで、少しでも挽回するんだ……! 焦りに似た気持ちが、あたしの身体を動かす。

 あたしは、おじさんに握られていない方の拳を、ぎゅっと握った。ちょうど、あたしの肘の位置が、おじさんのお腹だ。

 そっと肘を曲げる。おじさんはかなり緊張しているようで、きょろきょろしているから、あたしのそんな動きには気付かない。一応高橋に目配せをしておく。すでに高橋はあたしの曲げた肘に気付いていたらしく、小さく頷いて口を動かした。さすが神の使い、って言いやがった気がする。五百円、取り返しても渡してやるもんか。

 もうすぐ、さっき曲がったT字路だ。

 おじさんが走り出す前、かつ気付かれない一瞬の隙をついて、この肘を叩き込む。

 おじさんが、高橋を見て、あたしを見て、――背後を見た! あたしは思いっきり腕を前に振って勢いをつける。そしてそのまま、おじさんのお腹へ肘を……。

「あ、ちょっと待った」

 唐突に高橋が声を上げた。え、ちょっ、この期に及んで!? 待てとか言われても、止められないってば!

「な、何だ……うげっ」

 そしておじさんのお腹に、あたしの肘がクリーンヒット。高橋の声に驚いて少し狙いがずれたんだけど、それがまたちょうどいいところに決まったような感触だった。あたしの全力を込めた肘鉄の勢いのまま、あたしとおじさんは後ろへ倒れていく。首に回されていた腕の力が緩まる。よし、とあたしは体勢を反転させる。おじさんの方に手をあて、そのまま地面へ叩きつけ――。

 ……ない。

 地面がない。

 あたしが今の今まで立っていた、砂利道が、ない。

「は!?」

 いやいやいや、何、何これ!? なんで地面がなくて、あたしたちの周りに、真っ黒な穴が開いてんの!?

 意味を理解とか、そんなことがこの状況でできるはずもなく。

 世界がスローモーションのように見えたのもつかの間。

 あたしたちは。

「あ」

 あ。

 あ。

 あ。

 落ちる。

 落ちる感覚が身体から上へ零れる。

 あああああ、と声が口から飛んでいく。ああなんだか意識が黒く塗りつぶされて、遠くに見えるあれが走馬灯……。

「ぎゃっ」

「うぐっ」

 背中に、柔らかい衝撃を感じた。直後、下から呻き声。

 生まれてからの思い出を辿ってそろそろ幼稚園を卒園しそうだったあたしの頭も、さすがにすぐ反応して。あたしは下にいる何か――状況的に間違いなくおじさん、から降りた。

 あたしの下にいたのは、案の定、ひったくりおじさんだった。おじさんのお腹によって、着地の衝撃が吸収されたらしい。おじさんはあたしが降りた直後から、背中を丸め、お腹を押さえてぴくぴくと震え始めた。なんだか、すごく痛そうだ。痛そうって言葉で表してしまっていいのかってくらい。

「お、おじさーん。大丈夫ですか?」

 恐る恐る聞いてみると、おじさんは震えながら右手を小さく挙げた。あー、ですよね、痛いですよね。……あたしの肘打ち、そしてあたしの下敷きになったことが原因だっただろうから、今さらながら罪悪感が生まれた。まあ、おじさんもひったくりをしていたので、これでチャラということでいいよね。

 そんなことよりも。あたしは立ち上がり、辺りを見回す。

 あたしたちがいるのは、塀に囲まれた細い路地だった。足元には砂利が敷かれていて、背後にはT字路が見えて、……これって、さっきまであたしたちがいた場所だ。

 あ、あれ? あたしは右手で頭を押さえる。あたしは今、確かに落ちた、はずだ。落下する感覚がまだ身体に残っている。高いところから落ちた。それにしては、おじさんのお腹に吸収されたとしても衝撃が少なすぎるとも思うけれど、とにかく落ちた、なのにあたしがいるのはさっきまでと同じ場所だった。

 どういうことなんだろう。変わらない景色を見ていると、なんだか、落下した感覚も、落ちる直前に見た穴も、気のせいだったみたいに思えてくる。落下感があったのは一瞬のことだったし、落ちたにしてはあたしの身体に痛むところはないし、おじさんもお腹を押さえて呻いてるだけだし。……あたしは本当にどこも痛くないので、もしかしたらおじさんが呻いているのは、落下は関係なくあたしの肘のせいだけかもしれない。まあ、おじさんもひったくりしたし、チャラでいいよね。

 首を傾げながら、あたしは前を見る。

「ねえ高橋、さっきの……」

 いない。

 「ここ」にいたはずの高橋がいない。あたしは辺りを見回して、それでも姿はない。

「……高橋?」

 もう一度、そっと呼ぶ。返事もない。

「高橋ー……」

 あたしの声は、響かずに消えていった。

 静か。静かだ。

 鼓動が、早くなっていく。

 何かがおかしい。

 あまりにも静かすぎる。何も、音が、聞こえてこない。ここは梨川駅前の通りにほど近い小道のはずだ。走る車の音。周りの家から聞こえる家事の音、話し声。店員さんの呼び声。聞こえるはずのそれらが、何も聞こえない。

 ここは一体、何なの。

 突然地面がなくなって。あたしたちは落ちて。そしてあたしは今さっきまでいたはずの「ここ」に同じように立っている。けれどここは、何かが、おかしい。いるはずの人がいない。聞こえるはずのものが聞こえない。

 ここは、一体、何なの……!!

 寒気に背筋が震えた。あれだけ走って、冬だというのに暑かったのに。

「おじさんっ……」

 あたしはおじさんの元へ駆け寄った。おじさんは、相変わらずお腹を押さえていた。可哀想なほどのその様子を見て、別の不安が頭をよぎる。……おじさんもひったくりしたし、チャラ、……だよね……?

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