第三章-1:恋の話をしよう-10

「……え?」

 その表情は真剣で、あたしは思わずどきりとする。伊吹さんは鋭い目で高橋を見て、有無を言わせない強い口調で言う。

「前にも中学校の屋上で会ったときに言ったけれど、任務に一般人を連れることは禁止のはずよ。初めは何らかの理由があったのかもしれないし、すでに原さんがエクソシストについての様々なことを知ってしまったことも、もう今さら何も言わないわ。だからと言って、いつまでも巻き込むのはどうかと思うわよ、私は」

 知らない間に力の抜けていた箸の間から、うどんが滑り落ちてぽとん、間抜けな音を立てて汁に落ちた。けれどあたしは伊吹さんから目を離せない。

「今まで原さんが怪我をしていないからいいものの、この間の中学校での最終兵器がらみの悪魔騒動、相当危険だったわよ、分かってる?」

「あ、あたしは」

「原さんも」

「え……」

 思わず割り込むと、伊吹さんの真剣な目があたしを、捕えた。

「原さんもよ。悪魔騒動の時、原さん、音楽室前の廊下からすぐに逃げなかったわよね」

「う、うん」

 そうだ。音楽室で悪魔と対峙していた高橋に、逃げろと言われて廊下へ追い出されたんだけれど、あたしは逃げられなかった。それは、一人でそこにいる高橋を置いていけなかったからだった、けれど。

「あの後、こいつが危なくなったときにちょうど原さんが助けに入って、結果的には原さんの行動に救われた部分もあるでしょうね。だけど、そもそもどうしてこいつが危なくなったかって言ったら」

 吸った息は、うまく飲み込めない。

「原さんが廊下にいたからよ。原さんがいたから、廊下へ悪魔による被害が及ばないように、音楽室に留まらなくてはいけなくなった。……こいつもこれでもエクソシストよ。自由に動ければ、もっとすんなりと悪魔退治出来ていたでしょう。こいつでも」

「酷い言われようだな。俺が」

「当然だわ」

 高橋のいつも通りの声も、それに返す伊吹さんの声も、やたらと遠く聞こえる。

 ……そうだ。あたしは自分を、一体何だと思ってたんだろう。

 自己紹介したじゃないか、「高橋先生に音楽を習ってるんですけど」って。それ以外出てこなかったじゃないか。今、あたしと高橋の関係をはっきり表せる言葉は「あたしは高橋先生の生徒です」、それだけ。あたしはただの、一般人だ。って、何度も自分で思っていたはずなのに。

 急に、隣にいるはずの高橋や伊吹さんとの距離が遠くなったような気がした。そして同時に、今の今まで、あたしはその距離を近いと感じていたことに気付いた。魔物退治に連れ回されることに文句は言っても、嫌だと感じなくなっていて。むしろもっと知りたいって、自分から深入りする真似して。

 いつの間にあたしは、自分が皆のように、高橋のように、世界を救えるって思っちゃってたんだろう。あたしにはそんな力なんてないのに。それどころか、これじゃ資格すらないじゃないか……。

「あの、花折ちゃん、言ってることは確かにそうだけど言い方が」

「何?」

「う」

 あたしと伊吹さんを交互に見ながらおずおずと割り込んだ瑞穂さんを視線で黙らせ。

「えー、花折ちゃん、ノディが好きじゃない割にノディの肩持つ……」

「それとこれとは話が別でしょう。そもそも肩持ってないわよ、肩を持つ機会があったら関節を外してやるつもりでいるから」

「さすがに怖いんだが」

「あなたは黙ってて」

 凍った空気を察して茶化そうとしたジルさんと、ついでに高橋も黙らせ。

「……ただ、『穴』をどうにかする必要はあるわね。それはこの後、私とお姉ちゃんで行くわ。だから原さんは、危ないところには近寄らないで、きちんとこっちの世界を歩いてなさい」

「……うん、ごめん……」

「謝ることはないわよ。少なくとも、私に謝ることじゃない」

 もう一度伊吹さんは「ごちそうさま」と言って手を合わせた。話は終わりだったんだろう。伊吹さんが伝票を持って立ち上がり、通路側にいた瑞穂さんもその流れで椅子を立つ。黙っててと言われていた高橋は、黙ってじっとそれを見ていたけれど、あたしが立ち上がるとそれに続いた。伊吹さんからひょいっと伝票を取り上げる。しばらく高橋の方を見ていた伊吹さんだったけれど、何か言われて、ああと納得したようにドアの方へ歩き始めた。

「お姉ちゃんと原さんも、先に出るわよ」

「花折ちゃん、うどん代はー?」

「後で、って」

 お店のドアを開けると、冬の冷たい風が吹き込んできた。二人に続いて、あたしはマフラーを巻き直して外に出る。伊吹さんがドアを閉めた。

「うー、店の中が暖かかった分、外が寒いね」

 瑞穂さんが手を口に当てる。はーはーと、温める息の音が聞こえる。

 駅前の大通りから少し中に入ったところの、民家やお店の塀に挟まれた細い道だから、風が通らない分だけ寒さは多少ましではあるけれど、あたしの手先も冷たい。もじもじ、と指先だけでセーターの袖口を伸ばして手を隠す。

 ドアが開いた。ジルさんからレシートを受け取りながら、高橋が出てくる。

「ジル、ごちそうさま。しばらくは俺もこの街に住んでいるから、また何かあったら連絡してくれ」

「はいはーい。皆も、また食べに来てねー」

「あ、はいっ、おいしかったです、ごちそうさまでした」

 お辞儀をすると、ジルさんが手を振る。

「ありがとー。年中無休で、朝九時から夜十時までやってるから、いつでもおいで」

 ……エクソシストとうどん屋を兼ねている理由はさっき納得したけれど。果たしてその二つの職を両立することができているのか、あたしはちょっと心配してしまった。営業時間的に、うどん屋しかしてないじゃん。

「それじゃあ、そろそろ行くか」

 高橋がお財布にレシートをしまいながら、あたしの方を見る。

「あ、高橋、うどん代、ありがと……」

「ああ」

 お礼を言いながら、なんとなく、おごってもらっていいのかなという気分になってくる。さっきまで確かにおごってもらう気満々ではあったんだけどさあ……。

「あの」

「あ、花折ちゃんたち」

 切り出そうとしたとき、ちょうどジルさんが、思い出した、という風に声をあげた。

「この後『穴』を見たり塞いだりするんだったら、分かってるとは思うけど、十分に気をつけなよー」

「そうね」

「うん、気をつけるわー」

 ジルさんの注意に、伊吹さん姉妹がそれぞれ頷く。なんとなく気になって、あたしはジルさんに尋ねる。

「気をつけるって、何かあるんですか?」

「ん? ああ、あのね……、あ」

 あたしの方を見たジルさんが、ふと、あたしよりも後ろの方に目をやった。その時ちょうど、後ろから砂利を踏む音が聞こえてきたので、振り返る。

「皆、人が通るよー」

 一人のおじさんが、こちらに向かって走ってきていた。セーターにベージュのズボン、普通の四十代くらいのおじさんに見えるけど、全速力で一人で走っている。何だろう、あの人。不思議に思いつつ、あたしたちは急いで、ちょいちょいっと手招きするジルさんの方へ寄る。

「あ」

「わあっ!」

 急いだつもりだったんだけど、高橋とおじさんがぶつかった。それに押されて、あたしもよろめく。すでに端に寄ってたから、倒れかかった身体は塀に当たって止まり、転ばずにすんだけれど。

 おじさんはこちらをちらっと見ただけで、何も言わずに、そのまま走り去っていった。ぼんやりとそっちを見ていると、傍にいた伊吹さんがあたしを支えてくれた。

「原さん、大丈夫?」

「平気、平気。よろめいただけ」

「何、あの人」

 伊吹さんが眉間にしわを寄せる。それからついでに高橋の方を向く。

「あなたは?」

「俺もぶつかられただけで……、あれ?」

 珍しく、高橋が戸惑ったような声を上げる。広げた両手を、不思議そうな顔で見比べて。

「ノディ? どうかしたの」

「いや、財布が」

「泥棒ーッ!!」

 あたしの後ろの方、おじさんが走ってきた方から、今度は怒鳴り声が聞こえた。びっくりして振り向くと、さっきのおじさんに負けないくらいのスピードで、顔を真っ赤にした別のおじさんが砂利を蹴り散らかしながら走って来るところだった。……「泥棒」?

「あっ、そこの人たち! こっちに、中年の男性が」

 ――駆けてきたおじさん。

 ぶつかった後、なくなった高橋の財布。

 で、「泥棒」。

 これって、もしかして……。

「見ました、追います。のばら、行くぞ!」

「……え、ちょっと、高橋ぃい!?」

 あ、そうだ、ひったくりだ。あたしの頭が結論を出したのは、おじさんの言葉を皆まで聞かずに高橋があたしの手を引っ張って駆け出した、その後だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る