第三章-1:恋の話をしよう-4
「げっ」
ピンク色の丸いクッションを入れたカートを押す女の子。大人っぽい膝上丈のスカートから伸びる、黒いタイツを履いた細いその足が止まる。露骨に嫌そうな声とともに。
長い黒髪に縁取られた、彼女――伊吹さんの整った顔が見事に引きつっていた。
守本中学校二年生にして風紀委員長。去年度の文集のランキングコーナーにおいて、一年生であったにも関わらず、大人っぽい人・頭のいい人・お姉さんになってほしい人の三部門で上級生を抑え圧倒的一位を掻っ攫った伝説の同級生、伊吹花折。嫌そうな声も可憐で、引きつる顔も美人。……なんだけど、残念ながら――彼女も変人(エクソシスト)、仲があまり良くないみたいだけど高橋の同僚だ。
大人っぽいじゃなくて実際に年上、年齢詐称の本当は高校生。ついでに高いところだの尖ってるものだの犬だの、軽く聞いただけでも弱点の数が片手で足りない。完璧に見えて実は残念な、親しみやすい、……たぶん親しみやすい女の子だ。少しくらい欠点がある方がいいって、この間美容院で読んだファッション雑誌にも書いてあった。
ともかくそんな伊吹さんはあたしたちを見て、思わず、といった感じで明らかに嫌そうな顔をしたものの、軽く首を振り、気を取り直して黒髪を払って優雅に背筋を伸ばした。
「あら奇遇ねこんなところで出会うなんてっ」
「どうしたんだ伊吹、こんなところで。お前も洗濯機を買いに来たのか」
「お前もって何よ一緒にしないでくれるかしらっ……」
優雅な動作と言葉なんだけど、……どうしたんだろう、伊吹さんは言いながら、ちらちらと視線を辺りに向けている。あと、いつになく早口だ。
「まあそんなことどうでもいいけれど私買い物で忙しいのよまた明後日に学校で」
「ああ、そうだ伊吹、家電売り場がどの辺りにあるか知らないか?」
伊吹さんの言葉を、高橋が好き勝手に遮る。伊吹さんの表情に、なんというか、焦りのようなものが浮かんできた。
「は、はあ!? 家電!? あっちの方じゃないの、っていうか自分で見つけなさいよ私ちょっと急いでるんだからっ、」
「マヤコちゃーん!」
突如割り込んだ大きな声。思わずあたしと高橋、それから伊吹さんは声の方を向く。ただし伊吹さんは、やたら勢いがついていた。
大きく手を振って駆けてくる女の人がそこにいた。少しカールのかかった、長く茶色い髪が揺れる。柔らかな笑顔はあたしたちの方――というか伊吹さんに向けられている、明らかに。
……「マヤコちゃん」?
「やっと見つけたよ~」
女の人が、振り返った体勢で完全に硬直する伊吹さんの前で立ち止まる。長い間走っていたのか、はあっ、と大きく息を吐いて、ほっとしたように言う。
「ごめんねごめんね、でもマヤコちゃんたら、歩くのが速いよ~。お姉ちゃんすっかり見失っちゃって、……あっ、クッション! 先に選んでてくれたの?」
息が上がっていながらもどこかマイペースな話し方をする彼女は、伊吹さんが押すカートに入ったピンク色のクッションを見て、嬉しそうに笑って手を合わせる。
「ありがとう、可愛いな~。マヤコちゃんが選んでくれたからこれにするね、……あら」
目の前で固まる伊吹さんに関係なく無邪気にはしゃぐ彼女が、どうやらあたしと高橋の存在に気付いたらしい。あたしたちの顔を見て、もう一度伊吹さんの顔を見てからふわりと笑う。
「マヤコちゃん、お知り合いの方?」
尋ねられた伊吹さんは、けれどすぐには答えなかった、というか答えられないようだった。顔が赤くなり青くなり、口が震えてぱくぱくと開いて閉じる。
「おっ、おねっ」
なんとか、という感じで、ようやくその口から音をひねり出す。完全に裏返っているけれど。
伊吹さんの様子に、女の人がきょとんとして伊吹さんを見る。けれど伊吹さんは、それ以上の言葉を出せない。空気不足の金魚みたいに口をぱくぱくさせて。
奇妙な沈黙と、流れる空気。
そして。
「……おね?」
高橋が首をひねったのが、引き金だった。
「――っ、こっの馬鹿姉が――ッ!!」
クッションを引っ掴み、伊吹さんがぼふん、と女の人へ叩きつける。
「わわっ、どうしたのマ」
受け止め、びっくりして目を真ん丸にした彼女の襟首に、カートを放り出して伊吹さんが掴みかかる。
「それッ、呼んじゃ、だめでしょおッ!?」
「えっ?」
言葉の濁流が喉でつっかえて切れ切れな、叫び声を抑えようとしてぎりぎりのかすれた金切り声を上げる伊吹さん。しばし女の人はきょとんとして伊吹さんと、あたしと高橋を見比べて、……ああっ、と大きな声を上げて口を押さえた。
「ど、どうしよう、わ、わたしったらまたうっかり、どっ、どうしようマヤコちゃ」
「だからだめだって言ったそばからぁああッ!」
「ひゃああ、ま、またやっちゃったマ」
「お願いだから一回口を閉じて――!!」
伊吹さんの絶叫に、女の人は身を縮めて口を押さえる。
残ったのは、伊吹さんがはあ、はあ、はあと肩で息をするその音だけ。
やがて伊吹さんはゆっくりと、あたしたちの方を振り返った。この短時間でなんだかすっかり、やつれてしまっている。
「……原さん」
なのに目の鋭さは、ぎらぎらと、増している。。
「は、はい」
「……聞いてないわよね?」
「え、えっと」
「聞いてなかったわよね!?」
可憐な声にドスを効かせる伊吹さん。あたしの視線は知らず知らずのうちに横へ逃げていく。つられて伊吹さん、そして半泣きの女の人の視線もそちらへ。
そうして見てみると、あたしの横に立つ高橋が押しているカートには、いつの間にかいくつかプラスチック製の雑貨が入っていた。今まで周りを見る余裕がなかったけれど、ちょうどここは雑貨売り場だったらしい。すぐそばの棚から緑色のごみ箱(三百九十円)をとりカートに入れてから、高橋はあたしたちの視線に気付いたらしく、三人まとめて見回した。そして視線は伊吹さんのところで止まる。
「ああ、伊吹。すまない、ふとすぐそこの棚に雑貨があることに気付いてからというもの、選ぶのにうっかりすっかり夢中になってしまい、あまり聞いていなかったんだが」
無表情のまま、首の後ろを掻き。
「マヤコって誰だ」
伊吹さんが卒倒した。
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