第二章-2:あたしと悪魔と最終兵器-6

 振り向いたあたしの目に入った、必死で音楽室のドアを叩く明日香ちゃん。そして明日香ちゃんの後ろに、パニックに陥るクラスの皆が。

 そうだ、忘れてた! あたしのクラスの野次馬どもが、音楽室前の廊下にいたんだった!

 そのドアは、小さなへこみが見える以外は基本的に無傷だった。ドアの上の方についている窓ガラスも同じく分厚いから全く割れていない。だから廊下にいる皆も無事なんだろう、けど!

 混乱が混乱を呼び、お互いに動こうとして動けなくなっていく皆の間をなんとか進み、伊吹さんがドアの窓を叩く。

「何が起きたの!?」

 きっと大声なんだろうけれど、ドア越しのくぐもった声はあたしの耳にやっと届くくらい。ということは、向こうからも、音楽室の様子が把握できてないんだ。

「た、高橋ッ、廊下にっ、クラスの皆がいるんだけど……!!」

 噛みながら、あと語尾を震わせながら、あたしが言い終わるより早く、高橋はつかつかと音楽室のドアに歩み寄った。鍵を解除し、ドアを開け放つ高橋に、あたしも慌てて駆け寄る。

「皆、落ち着け」

 この状況で、妙に冷静な高橋の様子に、辺りがしんとなる。高橋「先生」が皆を見回した。

「詳しいことは言えないが」

 ――冷静なのは、ふりだけだったらしい。「先生」口調も笑顔も忘れて、素のまま高橋が指示を出す。

「緊急事態だ。皆、校舎から一刻も早く外へ出ろ。再び揺れが発生する可能性がある、階段では押すな駆けるな喋るな。緊急時の集合場所はグラウンドだろうが、それより遠く、出来る限り学校から離れろ。……伊吹!」

 伊吹さんの姿を確認して、高橋がほぼ怒鳴るように呼ぶ。何か聞こうとしていた伊吹さんが、動きを止め、はっと高橋の顔を見た。

「俺が悪魔を引き付ける。生徒と職員全員を守本中学校敷地内から退避、悪いがお前一人で頼む」

「任せなさいッ」

 伊吹さんの顔が引き締まった。負け惜しみも迷いもなく、短くそれだけ言って、身を翻す。

「皆、順番にこっちへ! そのまま階段を降りて、通用門から学校外へ逃げて。できるだけ学校から離れるように!」

 はじめは先頭に立っていた伊吹さんが、途中で脇に寄り、早足で逃げ出す皆を見送っていく。大勢が階段を降りる、靴音が響く。

「途中で遅れた子がいたら私がなんとかするから、自分のことだけ考えなさい!」

 そして職員室の扉を開き、その中へ飛び込んだ。扉が開いた瞬間、ざわめきがこっちにまで溢れてきた。先生たちも、何が起こったのかとパニックになっているんだろう。伊吹さんが凛とした声で何事か言う。

 それを見ていたあたしは、突然、背中を思い切り押されて、突き飛ばされた。つんのめって音楽室から廊下へ。まるで追い出されるように。

「お前もだ、のばら!」

「なっ、何すんのよ高橋っ、っていうか何が『お前もだ』なの……」

 振り返ったとき、ばたん、と大きな音を立てて、音楽室のドアが、閉まった。

 高橋は、音楽室の中にいるままだ。

 ……「お前もだ」って、あたしも逃げろって意味か、とようやく気付く。

「のばら、何ぼーっとしてんの!?」

 逃げる皆の列の一番後ろに、明日香ちゃんがいた。さっそく伊吹さんの指示を無視して、明日香ちゃんがあたしの腕を掴んで引っ張る。

 そうだ。そうだ、逃げないと。

「え、……」

 けれどあたしの足は、棒になった、らしい。

 動かない。

 ぎこちなく首が回り、音楽室のドアが視界に入る。ドアの小さな窓から、僅かに音楽室の様子が見える。

 咆哮が聞こえる。

 あたしに背を向けて立つエクソシストと、その向こうに浮かぶ悪魔が見える。再び舞い上がった悪魔は、苛立ちからなのか、空を仰ぎ叫び、滅茶苦茶に腕を振り回す。

「たかは、」

 思わず名前を呼ぼうとして、けれど最後の一文字であたしは躊躇した。呼んで、どうするんだろう、あたしは。助けに入れるわけでもないのに。

 その一瞬の空白を潰すように、校舎がずん、と大きく揺れた。きゃあ、と悲鳴を上げて、明日香ちゃんがしゃがみ込む。引っ張られて、揺れにも耐えられず廊下に膝をつく。窓の向こうが見えなくなる。黒い腕は目標を定めることもしていないんだろう、一層大きな音がして、音楽室と廊下を遮る壁にみしり、ひびが入る。明日香ちゃんがあたしの腕を、震える手で引く。

「の、のばら、早く、逃げないと」

「……っ」

 違う、違う、明日香ちゃんが正しいんだ、逃げないといけないんだ。迷う必要なんてこれっぽっちもないのだ。こんな場所にいたら、明日香ちゃんも、あたしも、巻き添えを食らってしまう。だってあたしは、ただの、……。


 ……ただの、何なんだろう?


 ただの中学生。

 ただの陸上部員。

 ただの巫女バイト。

 ただの音楽委員。


 ただの、人間。


 だけど。


 だけど扉の向こうにいる高橋だって、ただの、人間じゃないか。怪我をすれば血が出る、ただの人間。なのにどうして高橋は扉の向こうにいるんだろう。

 不意に、昨日の夜のことを思い出した。そうだ、「自分の世界を救うため」だ。高橋の目に映り、耳に入り、触れる世界を守るために、あいつは扉の向こうにいるんだ。


 ――じゃあ、高橋のことは誰が守るんだろう?


 自分の心臓の音が妙に響く。何かが胸から湧きあがってくる。

 だって、高橋の視界に、高橋自身は入らない。高橋が入っているのは、……あたしの、視界だ!

 あたしは立ち上がった。

 視界に、再び、扉の向こうが映る。狂ったように襲いかかる腕を避け続ける高橋の動きは、さっきよりも明らかに鈍くなっていた。最終兵器を守ることで精一杯なんだろう、左手以外に気が回っていない。床に着いた右足を、黒い腕が突き刺そうとする。僅かにそれは逸れ、けれど膝が一瞬、がくりと落ちかけた。はっとして左を見るのと、左からわき腹を薙ぎ払われるのが、同時。決して小さくはない身体が飛ぶ。

 左手からトライアングルとその棒――最終兵器が零れ落ちる。

 高橋が目を見開く。あっけなく自分から離れていく三角形の最終兵器に向かって、思わず手を伸ばす。けれどその前に、すぐそこの壁に激突した。

 分厚い扉の向こうから声が聞こえた気がした。小さく呻く声。けれどすぐに飲みこんで、高橋は顔を上げる。そのすぐ先で、最終兵器がきぃん、と音を立て、音楽室の床に落ちる。大きく方向を変えて弾んだ三角形のトライアングル本体が、悪魔の手の中に収まる。対して、棒の方はころころとこちらへ転がって来ていた。じれったいほどゆっくりと。

 体勢が整わないまま、高橋はわき腹を押さえていた手を放して伸ばす。足が床を蹴る。それをあざ笑うかのように、悪魔の手が同じ所へ伸ばされる。

 このままじゃぶつかってしまう。けれど高橋は前へ、手を、伸ばす。高橋の世界を救うために。

 あたしは。

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