第二章-2:あたしと悪魔と最終兵器-7

 ――あたしは彼の名前を、最後まで呼んだ。一気に呼んだ。ドアノブを引っ掴み、回し、開け放つ。転びそうな勢いで駆ける。あたしの世界を救うために!

「高橋!」

 音楽委員のあたしは知っている。ドアを開けたところに、スクリーンを下ろすための長い棒が置いてあることを。しかもそれが割と硬くて、この間ふざけて男子が振り回していたら壁が凹んだことを。棒を引っ掴み、今まさに振り降ろされようとしていた黒い腕へ向かって、あたしはまっすぐに走る。

「のばら!?」

 僅かに高橋が振り返り、目を見開いた。

 うわ、何その表情。ぎょっとしたような顔をして。確かにあたしは一般人で、そうだってあたしも何度も何度も言ってきた、けど!

「なめんじゃないわよ、どいつもこいつもぉぉぉぉっ!」

 長い棒の端を両手で握りしめ、思い切り後ろへ振りかぶる。力をこれでもかと溜め、向かってくる腕を薙ぎ払う!

「いっ……!」

 棒がヒットした瞬間、手の平から肘を通って肩までが衝撃でびいんとしびれる。手から離れようとする棒を、だめ、と握りしめる。身体が弾かれ、どすん、お尻が音楽室の床に落ちる。

 ……いっ、たぁ……!

 今度は下半身がしびれたけれど、でもここで痛い痛いって泣いてるわけにはいかない。すぐに辺りを見回す。跳ね返すまではできなかったけれど、狙いの逸れた悪魔の腕は、少しずれたところの床にめり込んでいた。トライアングルの棒は、まだ、そこにある! 躊躇うことなく、あたしはそれを拾い上げた。や、やればできるじゃん、あたし。痛いけど。やっぱり痛いけど。

 痛みをきちんと自覚すれば、今さら、膝が笑い始めた。膝、大爆笑。

「た、高橋、大丈夫?」

 誤魔化そうとして高橋に声をかけてみれば、その声は見事に震えている。あたしが大丈夫か、って感じだった。一応笑顔を浮かべようとしてるんだけど、上手くいってる気がまるでしない。そもそも、膝の震えをなんとかするために床に棒を立ててしがみついてる時点でだめだった。

 棒に向かって手を伸ばしたまま唖然としていた高橋は、あたしの言葉となかなかに情けない姿を見て、ようやく我に返ったようだった。

「のばら、お前、何してっ……逃げろと言っただろう、どうしてまだここに」

「ど、どうしてって」

 無駄に口の中に溜まった唾を飲み込んで、不規則な呼吸の合間にあたしは応える。

「あたしの世界を、救いに、来たの」

「は……」

「ねえ高橋」

 高橋が言葉を一瞬失った隙に、あたしは言う。そうだ、いくら震えてたって、これだけは聞いておかないと。

 棒から片手を放す。弾む胸を押さえて、口を開く。

「あたし、ちょっとは救えてるかな」

 それを聞いて、再び目を見開いた高橋は。一度目を閉じて、頷いた。

「……、正直、助かった」

 あたしも頷きで返す。――ああ、よかった。

 はあ、と息を吐く。全身から力が抜けかける。

 って、だめだだめだ。ここまではよかった、ってだけの話だ。

 あたしは悪魔の方を向く。ずるり、と床から黒い腕が引き抜かれた。品定めするように、悪魔はその赤い目であたしを上から下まで見ていた。両手から一本ずつ、新たな黒い腕が伸びる。威圧感を差し引いても、悪魔の身体はあたしより相当大きかった。音楽室に入れば、天井に頭がつくんじゃないだろうか。

 それにしても、この、なかなか仕掛けてこない感じ。試されてる、というか遊ばれてるんだろうなあ。ただ申し訳ないことに、あたしは悪魔さんと仲良く遊ぶことはできない。そもそも、さっきは悪魔の腕が一本だったのと、あたしの攻撃が奇襲だったからなんとかなっただけだ。悪魔の態勢が整った今の状況でまともに相手をするなんて、早まるな、と自分で自分を説得するレベル。そして説得されれば即座に頷くレベル。

 高橋が床に手をついて身を起こす。一瞬、顔をしかめて、わき腹へ手が伸びかけたけれど、それは寸前で止まった。力を入れ、一気に立ち上がる。そして薄く息を吐き出した。

「……助かった、が、だからと言って敵う訳じゃない。伊吹ももう戻ってくるだろうから、のばら、最終兵器は預けて、今度はきちんとここから離れろ。走るのは速いだろう」

「うん」

 そう、高橋の言うことはもっともなのだ。伊吹さんはもうすぐ戻ってくるんだろう。悪魔がいるからここから離れた方がいいんだろう。それにあたしは足が速い。特に、短距離と、ハードル走と、この冬練習した階段が。

 うん、そうだ、逃げよう。……高橋が、痛めているはずの身体に手を伸ばしかけて無理してやめた高橋が、時間をかせいでいる間に? 

 まさか!

 あたしは大きく息を吸う。吸って、履いて、にっこり笑って高橋を見る。よし、笑えた。

 逃げるよ。――ただし、最終兵器は、悪魔にもあんたにも渡さないけどな!

 足を肩幅に開き、あたしは大きく息を吸った。肺が痛くなるまで吸って、頭がくらくらするまで止めて、その酸欠の頭のまま、口を開くと同時に悪魔の方へ最終兵器を突きつける。見せつける。

「トライアングルって、棒がなけりゃ意味ないでしょ! 最終兵器がほしいなら」

 お腹の底から声を張り上げる。

「追いかけてきなよ、追いつけるなら!!」

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