第二章ー1:明日の夜、高いところで-12

「……え?」

 いまいち的外れな返答に、伊吹さんは、怒らなかった。ペースを崩されたのか少しの戸惑いと、そして今度ははっきりと焦りの色が含まれていた。……どうしたんだろう? それに、

「ねえ高橋、『やっぱり』ってどういうこと?」

 ふと疑問に思って尋ねる。そういえば、伊吹さんを見たときも、高橋は「やっぱり」と言ったのだ。

 高橋が首を傾げる。

「ん? ……ああ、それは『穴』の残り方が」

「はっ、話を逸らさないでっ!」

 高橋の言いかけたことを聞いて、突然、伊吹さんが慌てたように遮ろうとする。

「い、今は、あなたがここから去るようにって話を……!」

 けれどその前に高橋は続きを言っていた。

「高いところの『穴』ばかり、残っていただろう」

 ……それを聞いて、あたしは、今日のここまでの道のりを思い出す。十四階建てのマンションの屋上、工場の煙突の上、あとはここ、学校の屋上。

「まあ、そう言われればそうかも……」

 あたしの返事を聞いて、高橋が頷き、ついには顔を真っ赤にしてぱくぱくと口だけ開け閉めしている伊吹さんを親指で指した。

「伊吹は高所恐怖症だからな」

 ……へっ?

「あと低所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症、酸っぱいもの恐怖症、犬恐怖症、ついでに猫舌、カナヅチ、花粉症。まんじゅうは怖いんだったか?」

「こっ、怖くないわよ! あとカナヅチじゃないわよ、浮けるし進めるわよ、息継ぎができないだけで! ってそうじゃなくて、だから話をっ」

「そうか、まんじゅうではなくもなかか。光原市周辺の担当が誰なのかは知らされていなかったのだが、高いところの『穴』ばかりが残されていたから、もしかしてその担当とは高所恐怖症の伊吹なのではないかと思っていたところ、当たっていたというわけだ」

「……そうなんだ……」

 伊吹さんを見ると、伊吹さんが真っ赤な顔で高橋を睨みつけていた。

「ちょっと、もっ、もなかも怖くないわよ!! 話を誤魔化さないでって、いっ、言ってるでしょ!?」

 そう言って、話を戻そうと、というか逸らそうとする伊吹さんは、でも噛んでいた。いつもの、常に余裕を持っている伊吹さんの面影がなくなっていく。そして言われてみれば確かに、伊吹さんは今もずっと壁に手を添えている。そうか、これ、高所恐怖症だからだったのか。

 あ、あれ、なんだか意外だなあ……。

 ぽかんと伊吹さんを見ていると、その視線に気付いたのか、伊吹さんが今度はあたしをぎりっと睨んだ。

「え、わああ、ごめん伊吹さん」

 あたしにまで飛び火してきたので、慌てて謝る。

「で、でも伊吹さんってすごく大人っぽいし、勉強とか運動とかも完璧だから、ちょっとくらい弱点があっても、それはそれで親近感湧くなーなんて」

「ああそうだ、伊吹、もう一つ質問があるんだが。お前、どうしてのばらと同学年なんだ?」

「え?」

「お前、高校生だろう」

「……はい?」

 あたしのフォローを遮って発せられた言葉に、あたしは真顔で、高橋と伊吹さんを交互に見てしまった。伊吹さんは今度は顔を白くして固まっていた。

「いや、だから、伊吹はのばらよりも三歳年上だ。のばらと同じ制服を着ているから不思議に思っていたんだが、さっきのばらが同じ学年だとか言うから、どういうことかと……、おっと」

 そしてついに、バケツが飛んできた。頭に向かって飛んできたそれを、ひょいっと首だけ動かして避ける。続いてチリトリが向かってきたけど、それも逆方向に避けて、最後に、ほうきを振りかぶり殴りかかってきた伊吹さんを、一歩右に下がって避けた。

「――っ、はぁっ、はぁっ……!」

 相変わらず表情の変わらない高橋に対して、ほうきを構えた伊吹さんは肩で大きく息をしている。

 ……えーっと。

 身体や性格が大人っぽいのは、実際年上だったから。

 三つ年上ということは中学校をとっくに卒業しているんだから、中学校の勉強がよくできるのは、当たり前と言えばそうで。身体能力もそうだろう。

 ……、伊吹さんって、イメージと違うどころか、なんだかとんでもない人なんじゃ……。

 何とも言えない気持ちになりながら伊吹さんを見ていると、どうやらそれが伝わったらしく、ほうきをぶんぶんと振り回しながら叫び出した。もはや、可憐で上品で完璧な伊吹さんのイメージが、ない。

「……っ、仕方がないでしょ、任務で守本中学校に潜入しなくちゃいけなかったんだから!」

「任務?」

「あっ、あなたには関係ないわよ! 極秘なんだから!!」

 大きく振り回されたほうきが、屋上のフェンスに当たり、鈍い音を立てる。大きく弾んだほうきの穂先が、そのまま高橋を指した。

「光原市の『穴』も、任務も、私の仕事なの! 今後一切手を出さないで、いい!? あなたも!」

 そしてあたしの方へも向く。勢いが強くて、ちょっと通りすぎて、また戻る。

「こっ、このことを他の生徒に言ったら、たっ、ただじゃおかないからっ!」

「は、はい!」

 思わず返事をすると、伊吹さんはもう一度あたしと高橋を鋭く睨んでから、屋上の壁を伝い、大股の早足で扉の向こうへ消えていった。

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