第二章ー1:明日の夜、高いところで-9

 学校へ侵入するのは、煙突よりは随分楽で、マンションよりはもう少し不法な感じだった。警備員さんも先生も帰っていて、閉じられていた一メートル強の門を越えて敷地内に入るところまではあっさりできたんだけど、校舎に入るところで苦労したのだ。玄関のドアは全て鍵が閉められていた。玄関周りは特に鍵を厳重にチェックしてあるらしく、ドアだけじゃなくて窓も全て。結局、玄関から見て校舎の逆の端にある一階のトイレの窓から身体をねじ込んだ。

「よく、窓が開いていることを知っていたな」

「ここのトイレ、あたしのクラスが掃除の担当なんだけど、大体いつも閉め忘れてるから」

 不用心だとは思うけど。

 少し身を縮めながらトイレを出る。

 静かだ。

 左手には特別教室が並ぶ廊下が続いている。まっすぐ進めば体育館だ。正面は階段。廊下の窓と階段の踊り場の窓から、淡い光が入りこみ、重なっている。光が当たらないところの暗さがより目立つ。こんなに静かで暗い学校、初めてだ。廊下の時計はよく見えないけど、多分今はもう七時を大きく過ぎている。

「それで高橋、何がいたの? どこに?」

 話せば、自分の声が大きく響く。

「屋上だ。何かはよく分からなかったが、『裏』に関連する何かがいたと思う」

 あたしの声の響きの残りに高橋の声が重なって、変な感じだ。

 まっすぐに進み、階段を登る。

「……この学校の屋上に『穴』があるとは聞いていた。あまり人の立ち入らない場所にあるから後回しにしようと思っていたのだが、……『穴』の気配はなく、代わりに妙な何かがあった」

「魔物、とかでもなくて?」

「分からない」

「ええっ、何それ!」

 夜の校舎ってだけで不気味なのに、何か分からないものがあるなんて。

「こんなところ、歩きたくないんだけど……。ねえ高橋、屋上が目当てなんだったら、また飛べばよかったんじゃないの?」

「煙突の上へは飛ばなければ行けないが、学校の屋上には歩いてでも行けるだろう。体力も使うから、飛ばずに行けるならそれに越したことはない」

「……もしかして重かった?」

「何がだ?」

「……何でもない」

「そうか」

 二階に着く。静かな職員室がすぐそこに見える。廊下を進めば、静かな教室が並んでいるんだろう。

「あ、そうだ高橋」

 ふと思い出してあたしは声を上げる。

「屋上に行くなら、鍵を取ってこないと」

 このまま階段を登っていけば屋上に着くんだけど、屋上に出るためのドアは、生徒が勝手に入り込まないように閉められているはずだ。多分鍵は職員室にあるんじゃないかな。ああでもしまった、職員室は玄関の真上にあるから、こっちの階段からだとちょっと遠いな。

 職員室の方を見るために廊下を覗き込もうすると、高橋が上を向き、手であたしを制止した。

「……いや、扉は開いている」

「開いてる? ……って、ええっ!?」

「誰かがいるのか」

 何かじゃなくて、鍵を使って扉を開けて屋上に出るような、誰か。

 急に背筋がぞくぞくと震えた。魔物より人間が怖いっていうのもおかしな話なのかもしれないけれど。

「少し妙だが、まあいい」

 高橋はそれだけ言って、黙ったまま、まっすぐに上を見つめ、階段を登っていく。

 何がまあいいんだよ、全然よくないよ! あたしは慌てて追いながら、ちょっと泣きそうになってきた。どうしてこんなときに黙って真剣な雰囲気なのよ、こういうときこそ神の使いだの「ぴょん」だの言ってよ馬鹿ぁ!

 あたしの願いはちっとも届かず、張りつめた空気で無言のまま、三階を通り過ぎ、屋上の扉の前の踊り場へ辿りついてしまった。

 扉は、僅かに開いている。高橋が伸ばした手がノブに触れる直前に、風で、扉が、ゆっくりと開いた。

「ひいっ……」

 喉のどこかから、妙な高い声が出てくる。なるべく高橋の影に入るように身を縮めながら、あたしは高橋に続いて屋上に出た。

 守本中学校に入学してから、屋上に出るのは初めてだ。

 胸くらいの高さのフェンスにぐるりと囲われている。いくつか置かれた太陽光発電のパネルで、狭い屋上はほぼ埋められている。あとは、掃除用具を入れる縦長のロッカーが、扉のすぐ脇に置いてあるだけ。ロッカーは空っぽだ。ふと上を見ると、今出てきた扉の上に、ほうきの穂先が飛び出ているのが見えた。掃除をしていた人が、片付けが面倒で、ぽいっと扉の上に置いたんだろう。

 それだけ確認したら、もう顔は高橋の背中の後ろに引っ込めた。見なくていいものは見ないのだ。

「……ねえ高橋、誰かいる? 何かある……?」

 意味もなく左右と、あと斜め後ろくらいを見ながら聞く。前は見ない。

「特に何も、……いや」

 高橋が急に足を止めたので、背中に頭がぶつかって、潰れたカエルみたいな声が出た。

「『穴』がある、……のか?」

 恐る恐る、片目のあたりだけを、首を傾げる高橋の後ろから出す。けれど、さっき見たような真っ暗な平面は見つからない。

「どこ?」

「いや、気のせいかもしれない。今、見えなくなったから。そのパネルの一部が、僅かに暗く見えたんだが」

 上を見てみれば、高橋が目を細め、首をひねっていた。

 この暗さの中でもつやつやと光る太陽光発電のパネルを、目を細めて見る。……うーん、分からない。暗いから、何かがあると言われればそう見えるし、でも瞬きすれば何もないようにも見えるし。

「不用意に近付かない方がいいのかもしれないが、仕方がない。少し進むぞ」

「うえっ、進むの……!?」

 うう、帰りたい。宿題とか関係なく、帰りたい。でもここから一人で帰るなんてありえない。結論、高橋の後ろに隠れながらとにかく進むしかない。

 足音も立たないほどゆっくりと、あたしたちは揃って進む。

 車の走る音、近くの道を通る人の声、下から聞こえるそれらは遠い。

 ――そのとき。

 突然高橋が真後ろを振り返った。

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