第二章ー1:明日の夜、高いところで-8

 高橋の肩があたしのお腹を圧し、景色はあたしの前斜め下へ流れ、身体は後ろ斜め上へ持ち上げられる。遠くなる。動きの一拍遅れたカバンに手を引っ張られ、肘に強烈な違和感。

 浮遊する。瞬きを忘れた目が、冷たい空気でからっからに乾かされる。

 あっという間に、さっきまでいたはずのマンションの屋上は遥か下へさよならしていた。

「飛、ぶ、って」

 後ろ斜め上への加速を受けた脳が、同じ言葉を繰り返す。そうしてやっと、おいて行かれていたあたしの頭は現状をはじき出した。

「飛ぶって何、何ぃいい――!?」

 確かに高橋は、この前は空から降ってきたし、今日もあたしの頭上をふわっと飛んで着地してたから、飛べるんだってことは知ってるんだけど! でも、それに自分も巻き込まれて冷静でいられるほどあたしは大人じゃないしそんな大人の階段は登りたくない!

「なんで飛んでるのよぉおー!」

「自分で言っておいて何だが、飛んでいるというのは正しくないな」

 流れる景色の角度が緩やかになり、ゼロになる。斜め上へ飛んでいたあたしたちは、地面に引かれ、ゆっくりと、斜め下へ。

「正確には違うが、分かりやすく言うなら、重力が小さくなっている。だから、ずっとは飛んでいられない。限界まで軽くなったって、いつかは地面に落ちる。そういうものだ、残念ながら」

「しっ、仕組みを聞いてるわけじゃないんだけどぉぉぉ、落ちてる、落ちてる――!」

「そうだな、落ちてるな」

 そうだな落ちてるな、じゃねえよ馬鹿ー!

 下へ加速する、という日常ではありえない恐怖に叫ぶ。さっきまでその屋上にいたマンションがあたしの正面に見えてるんだけど、目の追いつかないような速さで、明かりのついた窓が上へ流れていく。

 高橋の肩に手を置いて、あたしの後ろ、つまり進む方向をなんとかして見やる。落ちる先に、細い電柱が見えた。

 高橋の足が、ふわりと電柱のてっぺんを踏んだ。一旦沈んだ身体が、がくりと下へ揺り動かされる。今度は高くは飛ばない。マンションへ行くときに通った、静かな住宅街の道に立つ三十メートル間隔の電柱を、弾むように次々に踏み、距離をすっ飛ばして行く。景色がふっとんでいく。その度にカバンが暴れるので、あたしは紐じゃなくてカバン本体を抱える。

 目の前にはすでに、見慣れた守本中学校が迫っている。その真っ直ぐ向こうに、「製紙工場の右の煙突」。

 中学校直前の電柱を踏み、飛び上がる。あたしは生まれて初めて、守本中学校をこの目で上から見下ろした。明かりも消えた校舎。生徒は入れない屋上の柵へ、高橋が足を伸ばす。

 ふと、高橋が右を向いた。それは僅かな時間のことで、次の瞬間、柵に着いた脚は深く沈みこみ、思い切り、跳んだ。

 高く舞い上がる。寒い風も、何かも、置き去りにして。

 高い、高い、高い! 浮いている。減速しない。ふわりと、浮きながら上がっていく。

 目の前の右の煙突も、真ん中の煙突も左の煙突も、登っていく。

 先が見えた。その先に待つ、ぺらぺらの暗闇も。

「最終手段」

 高橋が右手を伸ばす。ぐわん、と「穴」が揺らぐ。

「――発動!」

 こんなに晴れているのに、この数分の間に二回も「雷」を見た光原市民はびっくりするんじゃないかな……。あたしは目を瞑って思う。

 身体が落ち始める。マンションよりももっと高いところからだからか、浮かぶような優しい降り方。

 やがて、飛びっ放しだった身体が、ようやく地面に着いた。

 工場の正門前に、きちんと足から着地した高橋の腕から、あたしは飛び降りる。今更、膝が笑ってる。制服がくしゃくしゃだ。

 飛びっ放しと言いつつ、その時間は五分もなかったと思うんだけど、……ああ、疲れた……どっと疲れた……。これじゃあ帰っても、宿題をする元気がないんじゃないだろうか。まずい。

「何をするかくらい先に教えてよね……、高橋?」

 口をとがらせながら元凶の顔を見ると、高橋はあたしとは違う方向を見ていた。視線を辿ると、その先には、また守本中学校。

 うげ、これは、

「もしかして、もう一つ?」

 飛んだし、疲れたし、そろそろ帰りたいんだけどなあ……。

「……のばら、あの中学校、誰もいないはずだな?」

 高橋が顔を向けたまま言う。

「いないんじゃないの? 真っ暗だったし……」

「何かがいた」

 そう言って、広い歩幅で歩き出す。

 ……何か、って何!?

「ちょ、ちょっと待ってよ高橋ー!」

 妙なことだけ言い残して先に行くなんて、やめてよ怖いってば!

 あたしは駆け足で高橋の後を追う。結局。

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