第二章ー1:明日の夜、高いところで-7

「ミラというクジラの魔物だ。『穴』に干渉したことでより境界が不安定になり、出てきてしまったようだな」

「そ、そうなんだ……」

 妙に冷静な高橋の解説を聞いて、あたしの身体の力は一気に抜けた。突然大きな声で「下がれ」とか言うから、びっくりしたじゃん、もう……。

「まあ、ミラでよかった、というところだ。はい『最終手段』」

 高橋がミラに向かって――とは言ってもミラは屋上を占領するくらい大きくて、あたしたちもすり抜けてミラの中にいるわけだから恐らく向きは適当なんだろうけど、右手を向ける。右手が再び光を宿し、今度はあっさりと、そこから眩い光が弾けて広がった。思わず目を瞑る。すぐに瞑ったはずなのに、まぶたの裏に残像がしっかり残って痛いくらいの光だった。

「要するにこれはクジラだから、出てきたところで、陸上では何の脅威にもならない。迷い込んできた、少し運が悪いだけの魔物だ」

 恐る恐る目を開けると、すでに光は収まっていて、高橋はその右手をぶらぶらと揺らしていた。

「ただ、時として、やっかいな魔物が出てくることもある」

「……え、ちょっと、そんな物騒なの、困るんだけど!?」

 なんだか不穏なことを言われて、あたしは思わず言う。こいつ、また神の使いがどうこう言って、あたしに何かさせる気か!

 けれど返事は、思っていた通りのものではなかった。

「ああ、その時は俺が何とかするから」

「……へっ?」

 突然高橋がまともな、そして頼りになりそうなことを言うから、拍子抜けしてしまう。ぽかんと口を開けていると、右手を下ろして、高橋が口を開いた。

「ここ数日、のばらと行動を共にしているうちに、お前は俺のように『裏』からの距離が離れた人間ではないのだということが分かった。どうやらお前は神の使いではあるが、魔物を退治するような事例にはあまり向いていないのだな」

「う、うん。……ってそもそも神の使いじゃないけどな!」

 危ない、高橋がそんなことを言い出すから、うっかり発言の全部を認めてしまうところだった。あてはまっているのは後半だけだ。

「まあそれは置いておいて、とにかく、のばらに協力してもらっているこの状況は、お前に無理を強いているのではないかと思い当たったんだ」

「はい……?」

「俺は日本の様々なことについて不慣れだから、任務を遂行する上で、やはり神の使いであるのばらには協力を願いたい。ただ、魔物に関する事態については、俺が出来る限り対処しようと考えるに至った。そういうことだ」

 そこで話は終わったらしい。高橋が再び右手をぶらぶらと降り始めたところで、あたしはやっとそのことに気付いた。口はぽかんと開いたままだった。

「……う、うん、分かった。神の使いじゃないけど」

 頷いて、あとは頭の中に唯一あったそれだけをとにかく付け加えた。

 どうやら、最初からずっと繰り返し続けていたあたしの主張は、三割ほどは認められていたらしい。表情を変えないくせに、いつの間にか高橋もその事実に気付いていたようだった。うん、よかった。まだ諸悪の根源である「神の使い」の勘違いが解決していないのが不満といえば不満だけど、間違いなく高橋の中であたしは、一般人に限りなく近いところにカテゴライズしてもらえている。

 ……。

 それが正しい、そして何度も訂正してきたあたしとしては嬉しいことのはずなのに。あたしはどうやったって右手から何も出ないし、魔物退治をして世界の平和を守るようなことはできないし、しようとも思わないのに。なんとなく釈然としない思いが残る。何だろう、これは。

「……ねえ高橋」

 よく分からないまま、あたしは高橋の名を呼んだ。

「何だ?」

「高橋は、どうして世界の平和を守ってるの?」

 それを聞きたいと思って口に出したのではなくて、何か、ぽろっと唇から言葉が転がった。言い終えてから、自分の言葉に、あれ、と思う。何を聞いているんだろう、あたし。

 けれど高橋は、あたしの突然の質問に、特に戸惑う様子はなかった。相変わらず変わらない表情のまま、「突然だな」とだけ言って、口元に軽く曲げた指を当て、宙を見る。

「どうして、か。きっかけという意味なら、こういう体質で生まれたからだろうな」

 生まれつきだから、そう決まってしまっていることだから、仕方なく仕事をしているんだろうか。どう尋ねようかと思って高橋の顔を見ていると、先に高橋が息を吐き、口を開いた。

「しかしそういうことが聞きたいのではないのだろう? そうだな、……言いようは様々にあるだろうが、ただ、まとめると、俺は俺の世界を守っているにすぎないだろうな」

「高橋の世界?」

「俺の目に入り、耳に入り、俺の身体と頭が把握できて関連できる範囲の世界。お前だって、例えばお前の目の前で友人が困っていれば、何らかの行動をとるだろう」

「それはまあ、そう……だろうけど」

「俺の見える範囲で缶が転がっていたらごみ箱に入れるだろうし、お年寄りがいたら優先座席を譲るし、魔物がいたら『裏』へ返すし、『穴』が開いていたら消す。その中で『裏』関連の事象については、俺の世界を守ることが世界を守ることに特に繋がっているから、そう言ったというだけだな。超人ではないから残念ながら俺の世界以外は守れないし、そんなに大したことじゃない」

「ふうん……」

 なんだか妙な言い方をされた気がする。

 高橋の世界、……あたしの世界か。

 高橋が高橋の世界を守るのなら、――あたしはあたしの世界を守るんだろうか?

 手の中からマントがするりと抜けた。「超人ではないから」なんて言ってたけど、あたしから見れば十分超人な高橋が、身体を横に向けていた。

「さて、次はあそこか」

 声を聞いて、あたしも高橋が向いている方向を見た。国道に背を向けて、守本中学校を正面に。ついでに首をぶるぶると振って、よく分からない思いは頭から抜いた。……うん、そうだ、とにかく今はさっさとこれを終わらせてとっとと家に帰って、ぱっぱと宿題に手をつけるのが先だ!

「中学校?」

「いや、その向こうだ」

 中学校の後ろに見えるのは、三本の、薄い煙を吐き出す煙突。毎日通学の時に横を通る、製紙工場だ。

 高橋が目を細める。

「一番右の煙突の頂に」

 あたしも真似してみたけど、さっぱり見えない。見える方がおかしいんだろうけど。

 それにしても、

「また高くて、しかもますますどうやって行くか分からない場所に……」

 あの煙突は、マンションの屋上よりもさらに高い。工場の煙突なんてどこからどうやって登ればいいんだろう、マンションじゃあるまいし。はしごとか付いてるのかな……できたら登りたくないなあ、それ。

 少しの間首を傾げていた高橋は、やがて口を開いた。

「仕方がない」

 そしてあたしの方をくるりと向き、すっと近付く。何だろう、と思っていると、高橋の手が伸びてきた。あたしの腰に。

 ……って、いや、ちょっとちょっと!?

「何、高は、へえっ!?」

 身体が浮き上がる。見えなかった高橋の頭のてっぺんが見えるところまで、ひょいっ、と。そのまま抱えられ、あたしのお腹が肩に乗せられてて、頭が高橋の背中側、足が高橋のお腹側。

 担がれた。

「……っちょ、何してんの、何すんのよ高橋――!」

 花の女子中学生を、抱くならまだしも、担ぐって何事!?

「舌を噛むから、喋らない方がいいぞ。あと、カバンを落とさないように」

「はぁっ!? 何を」

「飛ぶ」

 その短い二文字すら言い終わる前に、たん、と軽く高橋が屋上を蹴った。

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