第二章ー1:明日の夜、高いところで-6

 結局、マンションの外階段を登り、屋上へとやって来た。柵を乗り越え、薄汚れた屋上に降り立つ。マンションの屋上なんてほぼ誰も来ないし、用途もないんだろう。マンションの中から登ってくる階段の出口と、飾り気のない柵に囲われた貯水タンクがどん、どんと置いてあるだけで、あとは何もない。屋上自体の柵もなく、縁が二十センチほどの高さになっているだけだ。風が強くて、あたしは乗り越えた階段の柵を掴む。

「さて。見えるか、のばら」

 風に煽られる金髪を押さえながら、高橋が屋上の真ん中を指差す。

 周りよりも明らかにも黒い何かが、ある。それはのっぺりと薄く、丸く広がり、揺らぎながら、あたしの膝くらいの高さで浮いているように見えた。

「それが、『穴』なの?」

「ああ」

「浮いてるみたいに見えるんだけど」

「浮いているが。匍匐前進すれば、下も通れるぞ。試してみるか?」

「スカートだし、遠慮しとく……。あと、ちょっと波打ってるようにも見えるんだけど」

「それは、俺が近くにいるからだな。エクソシストが傍に寄ると、魔物も見えやすくなるし、『穴』も影響を受けて揺らぐ。……そうだな、今後のためにも、少し説明をしようか」

 少し考える仕草をしてから、高橋は人差し指を立てた。豆粒大の光が点る。人差し指が水平線を描くように動くと、その軌跡に光の筋が残った。

「うわあ、何これっ」

 魔法のように現れたそれに、思わず仰け反る。

 高橋はさらに、線の中央に短い垂線を一本加える。あたしから見て右端に矢印の先が描かれ、その下には小さな十字が付け加えられた。逆の端には小さな横棒。あ、これ、中学校に入学したばかりの頃に、数学の授業で見たような……、ああそうだ「正負の数」。

「分かりやすく、こちらの世界をプラス、『裏』をマイナスとしようか」

 高橋が光の線で、小さな十字――プラス側を、大きくぐるっと囲む。

「こちらの世界に棲む俺たちは、全てプラス側の存在。逆に『裏』に棲む魔物たちは、マイナス側の存在だ」

 光の点った人差し指がマイナス側へ動く。今描かれていた円はすうっと綺麗に消えた。器用だなあ、……命中率悪いくせに。

「その中央、ゼロ地点が境界線。ところで、俺たちは皆プラス側だと行ったが、境界線からの距離、すなわちどの程度プラス寄りなのかは個別に異なる。俺を含むエクソシストは」

 再びプラス側に移る。一番端、ゼロから一番離れた矢印のところを、高橋は下へ軽く弾いた。浮かぶ光の線が、ゼロ地点を支えにしてシーソーのように大きく揺れる。

「この辺り。見て分かっただろうが、原点から離れた俺たちが動けば、逆側も大きく影響を受ける。俺たちは、『裏』関連の事象に影響を与えやすいということだ。順番としては、影響を与えやすいからこそエクソシストになっているというのが正しいが」

「それって生まれつき?」

「そうだな」

「ふうん。じゃあさ、高橋たち以外の、あたしたちはどの位置にいるの?」

「エクソシストではない、こちら側の大抵の存在はこの辺りだ」

 言って高橋は、原点と高橋のちょうど間くらいのあたりをつついた。揺れたけれど、さっきに比べれば当然ながら揺れは小さい。

「……へえ、半分くらいなんだ」

「個別に微妙な差はあるが、こちら側に棲む存在は大体がこのあたりだろうな」

「ち……ちなみにあたしは?」

「のばらも例に漏れず、このあたり。平均と比べると少しプラス側だが」

 僅かに指がプラス側へずれたけれど、それはほんの数ミリメートル程度のことで、当然、揺れ方は大して変わらない。

「……へえ……」

 思わず自分の手を見る。あたしは間違いなく、一般人のようだった。……あれ、あたし、どうしてここにいて、魔物退治に連れ回されてるんだろう……。エクソシストの考えってのは全然分からない。

「話が長くなった。さて」

 高橋が階段の柵から離れ、歩き出す。あたしは柵から手を離し、代わりに高橋のマントの裾を掴んで、少し後ろを慌てて追っていく。

 「穴」からわずか一メートルほどまで近付いて、高橋は足を止めた。「穴」の中心を示すように、右手を斜め下へ伸ばす。その手からじわり、と白い光が滲み出す。

「『穴』を消すぞ」

「う、うん」

 振り向かずに高橋が言うので、あたしはマントを掴んだまま、高橋の後ろからそっと覗き見る。

 この三次元の世界で、そこだけ二次元になってしまったかのように、薄っぺらい平面が浮かぶ「穴」。厚みがないはずなのに、高橋の右手に照らされるそれは、底が見えない。

 あたしは知らず、唾を飲み込んだ。

 高橋が小さく息を吸う。

「では。――最終手段、」

「……って、いきなり最終手段なのかよ!」

 確かにあんたのそれは、最終手段と言う名の通常攻撃だけどさあ!

「ここは高層マンションの屋上。多少大げさに光を放ったところで、俺たちの姿を認める人間はいないだろうし、雷か何かだと思われるくらいだろうから、問題ないと考えられるが」

 そうだけどさあ、もう毎度のことなんだけどさあ、なんていうかさあ、……軽すぎるだろ、「最終」の価値が!

 高橋は改めて息を吸った。

「最終手段、発……、あ」

 その淡々とした声は、また途中で切れた。けれど今回は、あたしが遮ったわけではなくて。

「どうしたの高橋?」

「魔物が出る、のばら、下がれ!」

 不意に、高橋が大きな声を出した。高橋の左手が、あたしの前に広げられる。

「ええ!?」

 そんなことを突然言われたって、すぐに動けるはずがない。

「下がれって、……ぎゃああ!」

 何にも触れていないはずの手に、ぱちり、と強い静電気のような感覚。

 目の前の「穴」が揺らぎ、一瞬、あたしたちを呑みこんだ。呑みこみ、貫くほど、漆黒の平面がその面積をぶちまけ、あたしたちをすり抜けて巨大な影が、飛び出した。風、圧力が身体を、喉を、髪を巻き上げる。夜空に飛び上がったその姿は。

「クジラ!」

「ミラか」

 あたしはでっかい哺乳類の名を叫び、高橋はよく分かんないけど多分その魔物の名を口にする。

 撒き散らされた飛沫のようなものが、地上の鮮やかな光を受け、色づきながら輝く。それに彩られ、冬の夜空を背景に、濡れた真っ黒なクジラ――ミラの身体が高いところで制止する。

 深い色をした目が世界を映す。けれどその目に、あたしは映っていないんじゃないだろうか。それくらい大きな目、大きなクジラ、大きな存在。押しつぶされそうなほど大きいのに、悠久を超えるクジラはあまりにも、美しい。

 一瞬が何秒にも、何時間にも感じられる。そして……。


 落ちた。

 あたしたちをすり抜け、ぽすんと、特に音も衝撃もなく、派手に飛び出したミラはマンションの屋上に落ちた。

 そして、打ち上げられた魚よろしく、ぴちぴちとその場ではねるクジラ。

 派手に飛び出したくせに、後が全く続かなかった。

「……えーと、高橋、これは……」

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