第二章ー1:明日の夜、高いところで-5
「さて、それでは行こうか」
高いところを指差していた手を降ろし、高橋がマントを翻して歩き始める。まっすぐに、マンションの玄関へ。自動扉が開く。
「……ってちょっと待った、高橋!」
とても自然に正面からマンションに入ろうとした高橋のマントを、慌てて掴む。うぐ、と上の方から喉が詰まったような声がした。
「どうした、のばら」
首元を押さえ、けれど表情は全く変えずに、高橋が後ろへ傾きながら振り返る。
「正面から入って大丈夫なの!?」
「何か問題があるのか?」
「だってマンションって、大抵オートロックでしょ」
開いた自動扉の先には、もう一枚、同じ扉が待っていた。違うのは、その左方にボタンの付いた銀色のパネルが光っていること。あのパネルで部屋番号を指定して、その部屋の住人にこの扉を開けてもらわないと、鍵を持っていないあたしたちは入れないはずだ。
「それはそうなのだが」
マントから手を離すと、高橋が詰まった首元を整える。
「俺も仕事で来ているわけだからな。不法侵入するわけにもいかないだろう」
一応、そこは常識的に判断しているらしい。もっと他のところでも常識的になってほしいけど。
高橋はタッチパネルに近づいた。右手の人差し指が、迷いなく番号を押す。一、ゼロ、一。
ややあって、ぷつ、という内線が繋がった音が聞こえた。女の人の声が続く。
「はい?」
軽く息を吸って、高橋がマイクへ向かって言う。
「鈴木さんのお宅ですか、斉藤ですけど」
「……違いますけど」
「あ、すみません、間違えました」
「はあ……」
困惑したような声を残し、インターホンは切れた。
……。
「よし、じゃあ次」
その困惑した声のことも、ついでに困惑するあたしのことも全く気にせず、高橋が次の部屋番号を押そうとするから、あたしはまたマントを思い切り引っ張った。
「ちょっと高橋、今の何!? あんた斉藤なの!?」
「いや、高橋だが」
どうやら高橋はあたしの行動を予測してたらしく、あたしが引っ張る前にマントの首元を逆方向に引っ張っていて、今回は無傷だった。
「この扉を開けてもらえばいいんだろう。だから、日本のポピュラーな名字の組み合わせを言っていけば、そのうち当てはまる家庭にたどり着き、開けてもらえるのではないかと」
「日本にいくつ名字があると思ってんのよあんた……」
「五つくらい?」
「少なすぎるだろ! 高橋と鈴木と斉藤と、あと二つは何なのよ!」
「お前が『原』だろう。あとは……あれ、何だろう。すまない、五つもなかった。四つだった」
もう何から何まで駄目じゃねえか!
「しかし四つの名字を二つずつ組み合わるなら、全部で六通りしかないから、当たる確率も高いのではないだろうか。六分の一、サイコロで三が出る確率と同じ。大丈夫だ、俺はサイコロで三の目を出すのが得意だから」
「サイコロに得意不得意とかねえよ!」
「五の目は不得意なんだが」
「得意不得意の基準は何なんだよ、そもそも得意だとか不得意だとかが問題になるのなら、もう六分の一の確率の話が関係ないじゃない!」
「……そうか、そんなに六分の一の確率では不安か」
そうか、と言いつつ全然あたしの話を理解してくれない高橋が、顎に手を当て、斜め上を見て少し唸る。そして何か考えが至ったのか、やがてその緑の目であたしを見た。
「仕方がない。のばら、作戦変更だ。作戦Fを開始する」
「さ……作戦Fって何よ」
F? Fから始まる言葉って何だろう、英語が苦手な中学二年生には、そんな単語、すぐには思いつかない。何だろう、F、F、ファミリー、フレンド……。
「不法侵入」
「ローマ字かよ! っていうかさっき、仕事なんだから不法侵入はしない、とか言ってたくせに!」
長い指を唇に当て、高橋が無表情のまま「しーっ」と言う。
「のばら、これは不法侵入ではない、作戦Fだ」
「今さっき、自分で不法侵入って言ったじゃん!」
「過ちを受け入れて、人間は大きくなるんだ。それにそんなに騒いではばれてしまうぞ。作戦Fは静かに行わなくてはいけない。それが作戦Fのルールその一だ」
「不法の時点でルールも何もねえよ!」
「ちなみにその二は、ごみを残さない、だ」
「……足を残さないってこと?」
「環境美化に務めなさい、ということだ。時代はエコだぞ、のばら」
そもそも不法なんだから、そんな思いやりなんて意味ないだろ! 何だよエコって、エコなエクソシストってお前はどういう方向を目指してるんだよ!
そうこうするうちに高橋はさっさとマントを翻し、入ってきた自動ドアを開けて外へと出ていく。
「のばら? 早く行って早く終わらせて早く帰らないと、遅寝は成長によくないぞ」
「……ソウデスネ」
いろいろなものを押し殺し、あたしは高橋が開けてくれていた自動ドアをくぐった。ついでに高橋の頭を叩いた。
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