第二章ー1:明日の夜、高いところで-2

 一月七日。体育館内の二年生女子更衣室。

 上から五列目、上から二段目のロッカー。

 スクールバッグのファスナーを開ける。ロッカーに手をかけたままその場でしゃがみ、床に脱ぎ捨てたジャージ上下とTシャツを掴み上げる。あ、Tシャツ落ちた、もう一度しゃがんで拾う。

 部活が終わったすぐ後で、今日も元気に走った足が、この一瞬の屈伸運動で鈍く痛む。

 掴む手ごと、ジャージとTシャツをバッグへ押し込む。袖のようなものが当たり前のようにはみ出ているのでそれも適当に、ついでにロッカー内のタオルを入れて、全部まとめて体重をかけて圧縮。

 タオルを引っ張ったときに、ロッカーから紺色のハイソックスが落ちた。暖房がかかるはずもない更衣室の冷え切った床でがちがちになった足を、ソックスに突っ込む。親指がはみ出た、足の指の感覚がなくて失敗した。入れ直し。代わりに、床で丸まったくるぶし丈のスポーツ用五本指ソックスをバッグへ。つい十分前まで履いていたんだけど、あまり見たくないので、ジャージの中へ埋め込む。

 あとはロッカーの奥に立てていた制汗剤。赤と白のカンペンケース。それから二リットル入る水筒を、バッグに刺す。入れるというか、刺す。実際、バッグに入っていない、はみ出てる、けど、とにかく全部をバッグに入れて、終わり!

 あたしは帰る!

「じゃあね皆、お疲れ様!」

「のばらぁ、たこ秋はー?」

 走り出し、更衣室を飛び出たところで、まだ中にいる誰かの声が聞こえた。

 中学校のすぐ傍にあるたこ焼きとソフトクリームのお店、たこ秋。売られている五十円のたこせんは、冬休みも部活に明け暮れる体育会系中学生の癒しだ。チーズ入りは二十円増し。本当はお腹が空いたから行きたいけれど、

「今日は行かない、用事があるからー!」

 「用事があるから」。自分でも適当な言い訳だと思うけど、あたしは既に体育館玄関でスニーカーを履くところまで辿りついているから、深く追求されることはないだろう。履きかけたスニーカーのつま先を地面に叩きつけてかかとを入れることだけに全力を入れる。一、二、三、入った! 陸上競技用のスニーカーなんだから、こんな風に扱っちゃいけないってことは分かってる。「だけど」、とあたしは言い訳する。

 ……そうだ、言い訳だ。「用事がある」のも、言い訳。言い訳してでも、今日は急いで帰らなくちゃいけない。

「あっ、原、……どうしたんだ?」

 ちょうど、体育館の扉のところから中を覗こうとしていた陸上部部長・赤本あかもとが、あたしに声をかけ、けれどすぐに声の調子を変える。低い声がより低くなった。……そんな、「どうしたんだ」って聞かれるほどの鬼気迫る感じだったんだろうか、あたし。もう片方のスニーカーを地面に叩きつけていただけなんだけど。

「別に何でもないよ、赤本、どうしたの?」

 足の動きと一緒に、口調も早くなる。

「いや、星川ほしかわは、まだ中にいる?」

 つられて一緒に早口になった赤本は、副部長の名前を口にする。

七瀬ななせちゃん? 更衣室にいるよ」

 ――履けた! 体育館玄関のガラス扉に手をかけていた赤本に手で合図して、避けてもらう。その隙間を、あたしはすり抜けた。……大きなバッグはすり抜け切れず、赤本と扉に、各一回ずつぶつかった。

「あ、ごめん赤本! それと」

 少し振り返りながらあたしは赤本へ向かって叫ぶ。

「七瀬ちゃんはまだ更衣室にいるんだけど、まだ皆着替えてるから、あと二十分は出てこられないよ」

「えー!? 確かに、妙にお前、急いでるなとは思ったけど、お前だけが早いのかよ」

 赤本の低い、大きな声には、頷いただけで特に返事はしなかった。後ろから、「そんなに早く着替えられるなら、お前ら、普段から本気出せよなー」という声が、追加で聞こえた。

 普段のあたしは、というか二年生女子は、全員で一緒に更衣室から出てくる。髪を梳かし、制汗剤を身体にかけてみたり、リップクリームを塗ったりもする。そしてお互いがお互いの準備が終わるのを待っていて、その待ち時間に各々が別の新しいことを始めたりもするから、皆が更衣室から出てくるにはとても時間がかかる。

 けれど今日のあたしは皆を置き去りにして、一番に更衣室を飛び出した。おかげで、リップクリームどうこうの問題じゃない。片方の紺のハイソックスがずり落ちてきている。

 中庭に立つ時計だけ、最後に確認して、渡り廊下の先の開けっぱなしの扉へと駆けこんだ。夕方――五時――半ッ!

 校舎内に入る。渡り廊下のグリップの効くでこぼこの地面から、冷たい校舎内の滑る廊下に変わった瞬間だけ、転ばないようにスピードを落としたけれど、それも一瞬のこと。すぐに対応して、トップギアに変更。廊下をぎゅぎゅっと曲がって――。

「きゃあっ!」

「ひゃー!?」

 廊下を曲がって突然目の前に現れた、角でしゃがみ込む人影。最短距離を狙って角ぎりぎりで曲がろうとしていたあたしは、慌てて離れて避ける。

「う、うわっ、すみません!」

 反射的に謝ってから、改めて相手を見やる。と、そこにいたのは。

「明日香ちゃん」

 目を丸くしてあたしを見上げてくる友人、明日香ちゃんだった。

「のばらかぁっ、びっくりしたあ」

「あたしもびっくりしたっ、……何やってんの、こんなところで」

 薄暗くて寒い廊下でたった一人しゃがみこんでいる明日香ちゃんの姿に、思わず尋ねる。それから、ああそういえばあたし急いでるんだった、と思い出す。しまった、自ら首をつっこんでしまった。

「うー、探しものー」

 明日香ちゃんから返ってきたのは、思っていたよりも困ったような声だった。

「何か落としたの?」

「コンタクトレンズ……」

「うわあ……」

 なんという、探しにくそうなものを。

「目をこすったら落ちちゃって……ソフトレンズだし、二週間で交換するものだから、そんなに高いものじゃないんだけど」

 そう言いながら、明日香ちゃんは廊下に膝をつき、手探りでレンズを見つけようとする。

 うーん、探すのにとても時間がかかりそう、だけど。

 あたしはカバンを床に置いた。

「のばら?」

「この辺りで落としたの? 探すよ」

「のばら、急いでないの?」

「なんで?」

「走ってたし……」

「……まあ急いでないって言ったら嘘なんだけど、いいよ、探すよ」

「いいの?」

「いいよ」

「えへへ、ありがと」

 薄暗くてもよく分かる笑顔を浮かべて、明日香ちゃんは顔を上げてあたしを見た。そしてすぐに床に目線を落とす。

「じゃあ早く見つけようね! この辺りで落としたんだけど……」

 そして廊下を撫でるように手を大きく動かす。あたしも同じように、明日香ちゃんから少し離れたところで同じ動きを始める。

「……ないよねえ……十分くらい探してるんだけど」

 明日香ちゃんが溜息を吐く。

 ふと思いついて、あたしは言ってみた。

「明日香ちゃん、コンタクトレンズって、地面に落ちたの?」

「どうして?」

「小さいものだし、服についてたりしない?」

「そっか! 見てなかった!」

 勢いよく立ち上がり、制服を胸の辺りからスカートまで、ぱたぱたと払う。

「あ、今!」

 薄暗いけれど、動くものははっきり見える。スカートから、一瞬薄明りを反射して、何か小さいものが落ちた!

「ほんとだー!」

 足元にぺたりと落ちたコンタクトレンズを、明日香ちゃんが拾い上げる。

「よかったー! ありがとうのばら!」

「どういたしましてー」

「ごめんねごめんね、急いでたのに」

「いいよそんなの!」

 カバンを拾い上げ、肩にかけて。あたしは玄関を向く。よし、無事に見つかった、よかった! よし! 走る!!

「じゃあまたね!」

 走り出す!!

「うん、またねー!」

 明日香ちゃんの声は遥か後ろ。

「原さん!」

 途中、階段の前で、降りてきた風紀委員長・伊吹さんが驚いたような顔であたしを見るけれど、

「廊下をそんなに走っちゃだめよ」

「ごめんね伊吹さんー!」

 走り出した短距離ランナーはすぐには止まれないのだ。


 あとは滞りなく校舎内を駆け抜け、校門も無事に出た。

 そして今、あたしは駅前の大通りを早足で歩いている。

 数県に跨がる私鉄の、準特急が停まる駅だ。夕暮れ時、行きかう人に自転車、自動車。昔からの商店の並ぶ、二車線で歩道のない駅前通りは、ごった返していた。駅の向こう側には、駅よりも背の高いマンションがそびえ、ぽつぽつと明かりが灯っている。

 守本中学校は、公立中学校だけどとても便利なところにある。十分も歩けば、明るくて賑やかな駅前通りへ出られるのだ。

 ……本当は、あたしの通学路はこの道じゃない。駅前通りよりももう少し離れた、住宅街の中の道をずっと歩いた方が、家まで近い。

 けれど、この道を通らなくてはいけない理由が、今日はあるのだ。

 駅前通りから分かれる少し細い道へ入る。車がぎりぎりですれ違えるくらいの道だ。それでも、ビニール袋を手に持ったおばさんや、多分部活帰りの学生が何人も歩いているし、もう少し先へ行けばコンビニもある。あとはこの、明るくて人通りのある道を歩いているだけで、家に着く。

 これなら、大丈夫。これで大丈夫じゃなかったら、世の中がおかしいんじゃないかってくらいだ。

 あたしは心の中でガッツポーズをした。実際にスクールバッグを握る右手にも力が入った。うまくことが進むと気持ちがいいな。これは、帰ったら宿題がはかどりそうだ。ああそうだ、今日は夜遅くまで頑張る予定だし、夜食でも買おうかな、そこのコンビニで。

 一度足を止める。右を見て左を見て、よし、車は来ていない。あたしは足取り軽く、コンビニへ向かって一歩踏み出した。

 そのとき、コンビニの自動扉が開いた。

「あ、のばら」

 ――一月三日に偶然出会ってから、一月四日も五日も六日も見飽きるほどに見た相手が、マントを羽織り、小さなビニール袋を手に提げて、コンビニから出てきた。


 あたしが何故、用事がないのに用事があると言い訳し。学校内を、伊吹さんを無視して全力疾走し。遠回りしてまで明るくにぎやかな道を選んで帰っているのか。

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