第一章 あたしと魔物とエクソシスト-5

 走る。走る。真っ暗な道を、全速力で。

 あたしがこんなに必死で走ってるっていうのに、身体のサイズ同様に一歩で進む距離も大きいデネボラとの距離は、全く広がらない。むしろ後ろからのプレッシャーは迫ってきている!

「たかっ、はしっ、ちょっと、まずいって、まずいってぇぇ!!」

「そうだな」

「ちょ、お前っ、どうしてそんなに余裕なの!? って、あああ」

「あ、行き止まりだ」

「なんでそんな、あっさり――!!」

 暗い中を無茶苦茶に走っているうちに、目の前にはブロック塀の行き止まりが迫っていた。こんな塀、すぐに乗り越えられるわけがない。

「嘘だぁぁぁっ!」

「嘘じゃないだろう。現実を見ないと」

 見たくない、こんな現実! けれど残念な現実はすぐ目の前にある。

 あたしたちはついに足を止めた。ブロック塀に張り付くまで近付いて、……これ以上は進めない。

 振り返ればそこには、赤い目を間違いなくあたしと高橋に向けているデネボラがいた。

「たっ、高橋、どうするのよ……」

 すがる声は裏返る。高橋はあたしの方をちらりと見て、小さく頷いた。

「ここはお前に任せた」

「はぁあ!?」

「だって神の使いだろう」

「何回も何回も言ってるけど、だからバイトなんだって!」

「じゃあ神の使いじゃなくてもいい。この際、昆布の使いでもいい。昆布フラッシュ、とかやってくれないか」

「絶対無理だし、絶対嫌だぁぁぁっ! なんで昆布なんだよ、語呂も何も合ってねえよ!」

「いや、今朝ホテルの朝食で出た昆布の佃煮が美味しかったから……」

「お前の朝ご飯と今の状況にどんな関連性があるんだよ馬鹿――!!」

 もう、こんなふざけた会話をしてる場合じゃない! デネボラが迫ってる!

 近付く魔物は、唸りながら、大きく口を開ける。牙と、その奥の闇が見える。

 そしてゆっくり、覆いかぶさる――。


 ……あたしは途中から思わず目をつぶったけど、その直前まではきちんと見ていた。

 確かにデネボラがあたしたちに覆いかぶさったのを、見た。はずなのに。

「……なんで」

「何がだ」

「すり抜けてるの」

 あたしたちは無傷だった。覆いかぶさられる前と同じポーズで、同じ場所に立っていた。ただ、周りがなんとなく薄黒い霧に覆われているように見える。霧の輪郭は妙にはっきりしていた。その形は、大きなライオン。

 ……あたしたちは、すり抜けた魔物の中にいた。

「ああ、『裏』に棲む存在である魔物は、こちらの世界では不安定で、はっきりした形を持たないから。すり抜けることができるぞ」

「早よ言えやぁぁぁぁっ!! じゃあどうしてあたしたちはあんなに必死で逃げてたのよ!!」

「いや、デネボラが追いたそうにしていたから、逃げてあげるべきかな、と」

「何、そのデネボラに対する妙な配慮!?」

 あたしにも配慮してよ、別に怖い思いをする必要なんて何もなかったんじゃないかー! 異世界の怪物のお腹の中にいるっていうのに、何の影響もないし!

 ……あ、でも、ちょっと手や頬に、弱い静電気のようなぱちぱちとした感覚がある。何だろう、これ。

「それにしても、魔物の中は腰にいいな」

「……、腰?」

「炭酸水を飲んだ時のようなぱちぱちとした、あるいは弱い静電気のような、そんな刺激が手や顔に感じられないか?」

「……そういう感じ、あるけど」

「魔物と俺たちは異なる世界の存在だからな。密着していると、存在のずれが原因となってこのような現象が起こる。今はデネボラの存在が不安定だから、現象も少し弱まっていて、ちょうど気持ちがいい程度だな。効能は肩こり、腰痛、肌荒れ。ただし、長く浸かっているとのぼせるから、体調には気を付けるように」

「温泉じゃねえか!!」

 異世界の怪物のお腹の中にいるっていうのに、何の影響もないどころかお肌にいいって何事なんだよ!!

 それでも確かに少し肌がすべすべしてきたような気がしてきて、複雑な気持ちになっていると、高橋が一つ頷いた。

「そう、長く浸かっているとのぼせる。つまり、魔物を何とかしなくてはならないという状況は変わらないだろう」

「それはそうなんだけどー……」

 魔物に覆いかぶさられた状態のまま、アスファルトに座り込んで、あたしたちはこれからについて相談を始める。

 どうやら、標的を見失ったデネボラはすっかり落ちついたらしく、顔を掻いたりのびをしたりしているのがここからでも見えた。……こいつ……。

 いや、デネボラにも高橋にも腹が立つけど、今は解決策を探ろう。

「さっきのひょろひょろの光でも、デネボラの中にいる今ならはじき返されたりはしないだろうから、効果があるんじゃない?」

「いや実は、俺はあれがとても苦手で、あれでも上手くいった方なんだ。俺は狙いを定めるのがどうにも下手で、あっちに行ったりこっちに行ったり、酷いときには光の代わりになすびが出てきたり」

「命中率となすびに、一体どういう関係があるんだよ!!」

「そうだよな。なすびよりも、かぼちゃやきゅうりの方が、命中率が低いイメージがあるよな」

「ねえよ!! 野菜に対して命中率のイメージなんてねえよ!! そんなに下手って、エクソシストとしてどうなんだよ!!」

「エクソシストでもこんなものだと思うと、お前も出来る気になってきただろう?」

「何、その無理矢理な勧誘!! 全然出来る気にならねぇよ、実際出来ないし!」

「出来ると思うんだが。……そうだ」

 突然ポケットをごそごそと探り始めたかと思うと、高橋は牛乳を取り出した。どうしてポケットに入ってるんだ! しかもどういうつもりで!?

「牛乳を飲むと強くなるそうだぞ」

 だから何だぁぁぁっ!!

「だから、牛乳を飲んでデネボラと戦え」

「無理だぁぁぁぁっ!!」

 いくらカルシウムを含んでても関係ねェェェ!

「そこのコンビニで温めてきてあげるぞ」

「温度は関係ないからぁっ!」

「角砂糖は何個入れる派だ? 俺は十個入れるんだが」

「砂糖も関係ねぇぇっ、っていうか十個は多いだろッ!! そんなに言うなら自分で飲んで自分が強くなっとけ、この馬鹿ぁ!」

「そうか……そこまで牛乳が嫌いか」

 いや、どっちかと言えば好きだけど! 好きだけど、そうじゃなくて!

 そろそろ一発くらい殴りたい、と構えかけたとき、高橋が前触れなく立ち上がった。

「仕方がない。これは使いたくなかったが」

「……え?」

 目を伏せてそう言った高橋に、あたしは思わず小さな声で聞き返していた。

 聞き返して、手を伸ばしかけて、けれどそれ以上近付けない。

 明らかに空気が変わっていた。

「た、高橋……?」

 下ろした右手を、きゅっと握り、静かに掲げる。緑の目が開く。

「最終手段だ、……発動」

 そう、高橋が呟いた瞬間に。

 空から光が降り注いだ。

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