第270話 Call my name:プロローグ





 生まれた時から王太子の婚約者になることが定められていた。

 権力欲の強い父によって、自由に生きることを許されていなかった。

 幼少期から優れた王妃になるため、数多の教育が施された。

 自分の時間など、持てるはずもなかった。

 それでもまだ家族の愛情があれば……いや、誰か一人でも見てくれるのならそれでよかった。



 たったそれだけで、よかったのに。



 誰もが一つ下の美しい妹に心奪われていく。

 親も、婚約者も、皆が妹の側に集まっていく。

 自分の周囲には誰もいない。

 近寄ろうとする者も、様子を窺う者もいない。

 それが昔は悔しかったが……今は誰にも期待することはない。

 幼い頃からそうだった。

 身体が弱かった妹に、親は過剰なほど構った。

 自分が政略の道具故か、それとも妹の美しさ故かは分からない。

 唯一分かるのは、親の関心も愛情も全ては妹に注がれていた。

 代わりに自分には――何も与えられなかった。

 欲しいと何かを強請ったことはない。

 いや、強請ることを許されなかった。

 けれど妹が強請れば、何でも与えられる。

 自分の物でさえ、妹が気に入ればすぐに奪われる。

 もちろん一緒に観劇に行ったことなく、一緒に誕生日を祝ったこともなく、父の休暇の時は当然、三人だけで別荘へ向かって自分は王妃教育。

 

 自分だけは家族ではないのだと、まざまざと見せつけられた。

 そして遠く離れた場所にいる自分を見つけた妹が、勝ち誇った表情をしていることに気付いた。

 さらにはいつの間にか、自分が妹を虐めていると両親に詰られるようになった。

 正直言って意味が分からない。

 そんな暇がないのは父が一番理解しているはずで、そんなこと出来るはずないのは母が一番分かっているはずだ。

 けれど否定しても、反論しても、意味はない。

 自分は家族ではないのだから、他人の声が届くことはない。



 そして王太子とお茶をする時もそうだった。

 成長するに従って健常になった妹が、王太子とのお茶に加わってくる。

 最初から王太子と仲が良かったわけではないが、それでも婚約者とのお茶に妹が毎度のように加わるなどあり得ない。

 だが親は当然のようにそれを許し、王太子も美しい妹に絆されて受け入れた。

 気付けば王太子との会話はなく、妹と彼が話しているだけ。

 何のために、誰のためにお茶をしているのか分からなくなってくる。

 けれど、それでも自分は王太子の婚約者で。

 未来の国母となるのだから。

 頑張らなければならない、と。

 そう思っていた。



 だけど。

 両親や王太子が妹の名を愛おしそうに呼んでいる時に……ふと気付いてしまった。

 自分は誰からも名前を呼ばれないことに。

 歴とした名前があるのに、呼ばれた記憶がない。

 常に家名と爵位、それに令嬢を付け加えて呼ばれるだけ。

 妹のように名前を呼ばれることはない。


 それを理解した瞬間……息苦しいと思うようになった。


 王妃教育や公務、学院、家にいる時でさえ息が上手く吸えなくなる。

 自分がどうしてここにいるのか、自分が何故生きているのか。

 分からなくなってくる。

 病弱であれば良かったのだろうか。

 妹のような美しい容姿を持っていれば良かったのだろうか。

 それとも相手を陥れることを、当然のように思えれば良かったのだろうか。

 考えたところで分からなくて、だからこそ思考を放棄する。

 何をしたところで、どうしたところで無駄だから。

 自分は絶対に妹と同じにはなれないし、同じにはなりたくない。

 代わりに、胸に手を当てて目を瞑った。

 諦めることはしない。

 誠実に生きていれば、真っ直ぐに生きていればきっと幸せになれる。


 今、自分の支えとなっているのは二つの灯火だけ。


 記憶に深く刻み込まれている、二人の令嬢だけが支えになっている。

 どちらも一度しか会ったことはないけれど。

 相手にとっては、どうでもいいことだろうけれど。

 それでも自分にとっては、どうしようもないほど覚えている出来事。

 一人は自分に唯一、温かな気持ちを与えてくれた。

 もう一人は自分に唯一、間違っていないと道筋を与えてくれた。



       ◇      ◇



「ありがとうございました、ミスト子爵様」


 とあるパーティーで、自分のような小娘に対して丁寧に話をしてくれた男性へ頭を下げる。

 彼はリライト国内において近年、目覚ましく活躍している一人だ。

 一次産業に注力して成果を残している。

 参考にすべきことは多いと思って、偶然であったチャンスを逃さすに話を伺わせて貰った。

 隣には彼の娘が朗らかな表情で佇んでおり、自分と男性の話が終わると同時に声を掛けてくる。

 彼女は確か、自分よりも一つか二つ歳上だったはずだ。


「随分と真剣に、お父様の話を聞いていましたね」


「ミスト子爵様の知見を伺うことは、我が国の参考になることが多いので」


 自分が王妃となる国は、小国……だけではなく弱小だ。

 表向きは普通だとしてもリライトの援助がなければ、すぐにでもボロが出るような張りぼての国。

 だからこそ変えなければならないと思った。

 甘受しているだけでは駄目だ。

 自分の足で立ち上がらなければ、その先には衰退と滅亡が訪れる。

 国を思えばこそ当然のことで、すぐにでも気付くこと。

 だというのに王も、次代の王も、その周囲も誰もかも気付いていない。

 このままでは駄目だと諫言しても、自分の発言は取るに足らないとばかりに現状維持の日和見で、ただただ大国の矜持に甘えているだけ。

 誰も話を聞いてくれないのが悔しくて、だけど未来の国母たる自分だけは動かなければならないと思うから。

 足掻くように、なりふり構わず必死になった。

 偶然出会ったミスト子爵にも、食い付くように話を聞いた。


「やっぱり未来の国母になるのであれば、国のために考えているんですね。わたくし、感動しました」


 と、その時だった。

 ミスト子爵の娘が尊敬するような視線を向けてくれて、手を取ってくれた。

 そして、


「それではケーキを一緒に食べましょう」


「……はい?」


 続いた彼女の言葉にうっかり、ポカンとしてしまった。

 話に脈絡がなく、何故にケーキを食べようと言ったのか。

 自分には全く分からなかった。


「あ、あの、ミスト子爵令嬢様? どうしてケーキを食べるのですか?」


「ケーキは美味しいだけではなくて、頭を整理するのに重要な食べ物らしいのです」


 難しい会話をしたのだから、内容を整理しなければならない。

 それは分かっているが、だからといって突然すぎる。

 しかし驚きはまだ終わらない。


「それとクレアで構いません。お父様の呼び方と似通っていたら、どちらも振り向いてしまいそうです」


 何気なく、当然のように言われたこと。

 けれど自分にとっては……初めての出来事だった。

 自分の国では仲が良くなければ、名を呼ぶことは許されない。

 若い年代であれば家名に爵位、そして令息か令嬢を付けて呼ぶことになっている。

 仲が良い相手などいない自分は、誰からも名を呼ばれたことはなく……そして呼んだことはない。

 でも目の前の少女は名で呼ぶことを許してくれた。


「……クレア……様?」


「はい、これからはそう呼んで下さい」


 にっこりと笑いながら頷くクレア。

 その表情に、彼女の柔らかな雰囲気に『もしかしたら』と自分は思ってしまう。

 彼女なら、もしかしたら許してくれるだろうか。

 クレアであれば、もしかしたら自分のことを名前で呼んでくれるだろうか。

 そんな淡い期待が胸に宿る。

 だから意を決して、お願いしようとした瞬間だ。


「あ、あの――」


「わたくしもシルヴィ様とお呼びしますので」


 頼むよりも先に、クレアはにこにこしながら呼んでくれた。

 それも、ただ名を呼ぶだけではない。

 そのことに気付いて、無意識に驚きの声が漏れてしまう。


「……えっ……?」


「あっ、えっと、もしかしてしっかり呼んだほうがよろしかったですか?」


 自分の名前を正確に言うのであれば、あと一文字だけ付け足される。

 だから彼女の呼び方はきっと愛称だ。

 誰からも名を呼ばれない自分のことを……愛称で呼んでくれた。

 たったそれだけのことでも、それ以上に嬉しいことはなくて。

 声が震えそうになることを堪えながら、頷きを返した。


「……いえ。どうかシルヴィとお呼び下さい」


「それではシルヴィ様、一緒に参りましょう」


 手を引かれながら、彼女と共に歩いて行く。

 まるで仲が良い友達のように。

 まるで……引っ込み思案な妹を連れて行く姉のように。

 自分とクレアは連れ立って歩く。


「随分と色々な種類があって、迷ってしまいますね」


 テーブルの前に付いたクレアは、多種多様なケーキを前に悩み始める。


「シルヴィ様が好きなケーキはどういったものですか?」


「いえ、ショートケーキしか食べたことがありませんので……」


 誕生日に年一度、食卓に出されるショートケーキだけしか食べたことがない。

 おそらくそれも親が手配したものではない。

 一応、義務として覚えている家臣が出したのだろう。

 同世代とお茶会もしたことがないから、ケーキを食べながら楽しく会話したこともない。

 本来であれば貴族同士の繋がりを求めなければならないのに、そんなことをする暇があれば勉強をしろ、教育を受けろと言われ続けた。

 母親も妹も楽しそうにお茶会をしているのに、随分と扱いが違う。

 王太子とのお茶だって、彼に必要ないと言われたから出していない。

 妹と二人きりの時は楽しそうに、美味しそうに食べているのに自分の時だけいらないと言うのは理解が出来ない。

 だから分からなかった。

 目の前に並んでいるケーキの何が美味しくて、何が美味しくないのか。

 自分には知る由がない。

 けれど、


「でしたら互いの髪色に近いケーキを選びましょう」


 困っている様子を察したクレアが、名案とばかりに提案した。

 そして自分の髪をじっと見つめると、テーブルの上に並ぶケーキを見回し始める。

 なので自分も慌てて彼女の美しい茶色を目に焼き付けると、テーブルに視線を向けた。

 幾つか似通った色はあるが、一番近いのはこれだろうと思ってケーキを取る。


「シルヴィ様はモンブランを選んだのですね」


「はい。クレア様の綺麗な茶色とは少し違いますが、この中では一番近いのではないかと」


「ちなみにわたくしはこれです」


 見せてくれたのは黄金色のロールケーキ。

 少しくすんだ金髪を持つ自分には過ぎた色だと思ったが、クレアが間違ってないとばかりの表情をしてくれているので、どうしてか嬉しかった。


「…………っ」


 初めて食べるモンブランがどんな味をするか、楽しみだ。

 けれど一緒に食べてくれる人がいてくれて、緊張してしまう。

 その全てを込めて、モンブランを口に入れてみた。


「シルヴィ様、美味しいですか?」


 最初に感じたのは優しい甘味。

 ショートケーキとは違う味わいが、口の中に広がる。

 予想以上の美味しさとは思わない。

 思わず、と唸ってしまうほどの甘さとも思えない。

 なのに、とても美味しいと思えた。

 だから素直に頷きを返す。


「はい、美味しいです」


「こっちのロールケーキも美味しいんですよ」


 クレアは美味しそうに何度もケーキを口に運ぶ。

 こういう時、何か雑談でもしなければならないのだろうか。

 それともケーキに舌鼓を打っていればいいのだろうか。

 経験がないからこそ判断に迷うと、不意にクレアが周囲を見回してからモンブランに視線を向けた。


「シルヴィ様、一口だけ交換しませんか?」


「……こ、交換ですか?」


「モンブランも美味しそうなので、わたくしも食べてみたいと思ったんです。けれど二つ食べると、さすがに太ってしまいそうなので」


 可愛らしく、照れたように笑うクレア。

 けれど頷きを返すと嬉しそうに一口、ロールケーキを自分のお皿に乗せてくれた。

 自分も一口分モンブランをクレアのお皿に置くと、彼女は満面の笑みでモンブランを食べる。


「やっぱり美味しいです!」


 自分も彼女から渡されたロールケーキを食べてみる。

 モンブランより甘味は抑えられているが、それでも美味しい。

 ちらりとクレアのことを見ると、彼女はフォークをお皿の上に置いて、人差し指を口元に当てた。


「はしたないことなので、内緒にしてくださいね」


 その仕草は自分にとって、魅力的に映った。

 行動や雰囲気は幼く見えるのに、だけど自分より歳上だということが分かる。

 少々……いや、かなり天然な人だった。

 ふわふわとしていて、ほわほわとしていて、可愛らしい。

 ほんの一瞬、可愛らしいという部分で妹に似ているかと思ったが、あれは悪意の固まりで清廉なクレアと比較するのも烏滸がましい。

 それに何より、どうしても一緒にしたくない理由があった。

 誰ともしたことがない触れ合いに、今まで視界の端っこに映るだけで羨ましかった行為が彼女と出来たことに、これ以上ないほどに自分が喜んでしまったから。



 これが、胸の宿る灯火の一つ。

 誰からも与えられなかったことをしてくれた。

 羨ましかったことをしてくれた。

 だから彼女のことを、忘れられなかった。

 そしてもう一つの灯火は立場故に憧れた人。

 歩く姿も、話す仕草も、そのどれもが美しくて。

 会場の中で誰よりも輝いていて、誰よりも凜としていた。

 存在感は他の一線を画し、誰もが目を引き寄せられる。

 彼女こそが〝王族〟なのだと誰もが思い知らされる。

 だから彼女の振る舞いを、佇まいを参考にしようとしっかり観察した。

 自分も将来、王族に連なるから。


「少し涼みたいので、お付き合い頂けますか?」


 初めてにして唯一、話したのはパーティーに参加した時だ。

 タイミングを見計らって話し掛けると、彼女はそう言って笑みを浮かべてくれた。

 いくら友好国とはいえ、彼女にとっては取るに足らない小国の貴族だというのに。

 それでも彼女は――リライト王国王女は優しい雰囲気を纏って自分を連れ出してくれた。



 バルコニーに出ると、火照った身体から熱が少しずつ奪われる。

 同時、胸中に生まれるのは緊張だ。

 小国とはいえ未来の国母となる自分のことを、覚えて貰わなければならない。

 そうしなければ未来はないと自分だけは理解している。

 だから……と考えている自分の思考を、リライトの王女は見透かしたかのように柔らかく笑った。


「タイミングとしては、上手く話し掛けてきましたわね。挨拶の列が終わり、ほんの僅かにある空白の時間。そこで話し掛ければわたくしの記憶に残りやすい」


 事実を簡単に話されて、心臓が止まりそうになった。

 狙いも何もかも気付かれていると、分かってしまったから。


「褒めていますわ」


 リライトの王女は咎めていないとばかりに笑みを深める。


「貴女がレンフィ王国の王妃となるのであれば、もう少し様子を見るとしましょう」


 けれど続けられた言葉によって、今度は心臓が一度だけ大きく高鳴った。

 その意味が分からないほど、自分は蒙昧していない。


「小国の手助けを行うのは大国の矜持。ですが――」


 リライトの王女ははっきりと、真っ直ぐにこちらを見つめながら言った。


「――手助けとは養うことではありません」


 大国は小国を手助けする。

 それは大国としての矜持ではあるが、だからといって甘やかすつもりは一切ない。


「日和見であることが悪いとは言いません。ですが貴国に適しているかといえば違いますわ」


 それなりに問題なく、それなりに過ごせる中堅国であれば問題ない在り方だろう。

 しかしながら大国に手助けされなければ保てないような小国にとっては、日和見であることは罪でしかない。


「その危険に気付いているから、貴女は足掻いている。違いますか?」


 何もかもを見通しているような瞳に見つめられて、無意識に頷きを返してしまう。

 自分は今の立場を望んでいるわけではなく、欲しているわけでもない。

 けれど、そこに〝立っている〟のは間違いなく自分なのだから。

 だからこそ言わなければならない。


「わたしは未来の国母です。なればこそ国の未来と幸せを守らなければなりません」


 この国は今、リライトの援助を甘受しているだけ。

 本来であれば手助けされているうちに、力を付けなければならない。

 だというのに、ただただ大国の矜持に甘えている。

 もし手を放されてしまえば容易に壊れてしまう張りぼての国は、誰も彼もがリライトの手助けが未来永劫続くと思っている。

 あまりにも甘い目算で、あまりにも日和見だ。

 だからこそ自分が足掻かなければならない。

 未来の国母として、国を守るために。



「シルヴィア=ヴィラ=ネスレ侯爵令嬢」



 不意に名前を呼ばれる。

 力強い声音が響いた先に視線を向けると、リライトの王女は右手を伸ばして自分の左肩に優しく触れてくれた。


「貴女は間違っていません。わたくしと繋がりを持とうとすること、そして周辺諸国に対しての外交に注力することも」


 周辺にある国も少しずつ気付き始めている。

 今のレンフィ王国は、リライトにぶら下がっているだけの張りぼてだと。

 だけど国を変えるには時間が必要だ。

 その時間を稼ぐにはリライトの援助が必須で、さらには周辺諸国から逃げられるわけにはいかない。

 だから自分は外交に注力した。

 未来の王妃として、すべきことだと思ったから。

 そして、そのことすら見抜いた大国の王女は微笑みを浮かべて告げる。


「アリシア=フォン=リライトが貴女の名を覚えておきましょう」


 頑張れ、と。

 その意図が込められた声音に、少しだけ呆けてしまって。

 けれど自分の考えを、想いを初めて肯定してくれたことに感激して。

 ちゃんと……名前の全部を呼んでくれたことが嬉しくて。


「……ありがとう……ございます」


 ほんのちょっと、声が震えてしまった。

 でも、そのおかげでもうちょっと頑張ろうと思う。

 そして何度でも思い返す。

 誠実に生きていれば、真っ直ぐに生きていればきっと幸せになれる。

 いつか幸せになれる。

 自分は、そう信じているから。





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