第112話 宮川優斗にとっての間違い
フィオナには、優斗が何をやってきたのかは知らない。
けれど彼がウィルを殴ったということは“殴らなければならない何か”があったということ。
少し安堵した表情が、それを物語っていた。
だからフィオナは何も訊かない。
彼自身が教えてくれるのならば、それを待つだけ。
「…………」
優斗と並木道をゆっくりとした歩調で歩く。
けれど不意に、
「――っ!」
優斗が跳ねるように振り返った。
「どうされました?」
思わず足を止めた優斗にフィオナは首を捻る。
けれど彼は会場を凝視した後、
「……馬鹿か、僕は」
ぽつり、と。
呟いた。
「優斗さん?」
フィオナが名を呼ぶが、優斗は気付かなかったのか、
「僕らしくもない」
さらに一言、呟く。
「さっきから、そうだ」
優斗は左手を強く握りしめ、
「何やってるんだ」
まるで自分自身を責めているように思えた。
◇ ◇
カイアスとルカは優斗とフィオナを追いかけていた。
「ちょ、ちょっとカイアス! どうしてユウトさんがウィルを殴ったの!?」
「……いや、私にも分からない」
カイアスが目を別に向けている時に起きた。
本当に一瞬の出来事だった。
ウィルが優斗の姿を認識したのは殴った後のこと。
「ルカは殴った瞬間を見たと言ったね。何かおかしなところはなかったのかい?」
妻は一部始終を見ていた。
ならば、何かしら変なところはなかっただろうか。
「そうね……。ウィル君を殴ったあと、ほんの少しだけど表情を崩してたわ」
僅かばかりの変化だが、変なことではあった。
カイアスはそれを聞いて、思わず足を止める。
「……? 殴ったのに表情を崩す、というのは変だね」
どういうことだろうか。
「……」
カイアスは考える。
優斗のウィルに対する評価は聞いている。
さっきまで殴るような素振りも見せなかった。
「ユウト君が出向き、何かがあったのは間違いない。で、あれば……」
一番、可能性が高いものは何だろう。
優斗がウィルを殴るには“何か”が必要だ。
今日、弟はフィオナに手を出しているわけではない。
確かに従妹をダンスに誘って断られたことはあったが、その姿を見ていたとしても優斗が殴るほど怒るようなものではない。
現にフィオナにボコボコに言われていた。
「ならば別の理由で殴らなければならない“何か”があった?」
ウィルを殴る必要性があった、というのはどうだろう。
そして、そうなのだとしたら“理由”とは何だろうか。
カイアスは1分、そして2分と考える。
そして、
「……はぁ。そういうことかい」
大きく息を吐いて、頷いた。
「……どういうこと? 私は全然、分からないんだけど」
ルカには何も把握できない。
というよりも、たったあれだけの状況で頷ける旦那がおかしい。
「あくまで私の想像が正しければ……の話だよ」
カイアスは前置きをして、言葉を続ける。
「きっとあれはウィルを護る為にしたことなんだ」
「……ごめんなさい、カイアス。もっと分からなくなったわ」
殴ることが護ることにどう繋がるのだろうか。
けれどカイアスは大まじめに答えた。
「殴るだけで済ませた、ということだよ」
もしかしたらフィオナ関連かとも思ったが、フィオナ自身がウィルを落ち込ませるほどボコボコに言っているので、それはない。
だとすれば結論は簡単だ。
――ユウト君はおそらく、師団長と会ったんだ。
一番高い可能性は師団長に関係すること。
「彼ならどんな相手だろうと止められるけど……」
止めた末に交渉か頼み事か、何かがあったのだろう。
◇ ◇
「少し……疲れた」
宿に戻ったあと、優斗はソファーへ身体を仰向けに投げ出した。
右腕で目を覆う。
精神的に参っているのがフィオナにも分かった。
「……」
フィオナは少し悩んだが、ソファーまで歩くと彼の頭を軽くあげ、太ももの上に乗せる。
そして軽く、優斗の頭に触れた。
「……フィオナ?」
「こうしてあげたほうがいいと思って」
右手の親指で彼の頭をこするように優しく触れる。
未だに彼の目は腕で覆われているが、それでも、
「……助かる」
その一言があったということは、良かったと思えた。
しばらく沈黙があった後、優斗が喋り始める。
「正直、分からなかった」
「何がですか?」
「フィオナがウィルを殺されると泣いてしまうのか」
優斗が話す内容は、彼が会場を出てからのこと。
そして彼が相対した相手はタイミング的に考えて、おそらく師団長。
「……戦ったんですね?」
問いかけに対して、優斗は肯定する。
「確信が持てないから……戦った」
届く声は、本当に疲れていて。
きっと色々とあったのだろうと察せられる。
「……私は、きっと」
フィオナは優斗の髪の毛を撫でながら告げる。
「ウィルが死んでしまえば、泣いたと思います。それがウィル自身が行った行為の結果だとしても」
こんな男になるとは思っていなかったが、それでも彼は親戚であり、
「従弟……ですから」
少なくとも他人よりは親しい間柄だ。
昨日、馬鹿なことをされたとしても、だ。
「叔父も、叔母も、従兄も、義従姉も、います。彼らを慮れば死ねばいいなど、言えるはずもありません」
それに、あまりにどうしようもない男ならまだしも、彼の恋愛観はこの国の人間として問題があるわけではない。
そこを考慮に入れてしまえば、きっと従姉としてフィオナは泣いただろう。
「僕には……その判断が出来ない」
昨日、フィオナを怒らせたウィル。
けれど今日は案外、普通に話してもいた。
だからこそ『宮川優斗』には分からない。
「僕にとって親族は、ただの――敵だった」
今は義父や義母がいても。
家族同然、兄弟同然の仲間がいても。
従兄弟というのは“どういう存在”なのか理解していない。
「一般的な従兄弟というものがどの程度、馬鹿な行いをしても許せるのかを知らない。親族である従兄弟の特権、というものを知らない」
フィオナの従兄弟に対する感情と対応を読み切れていないからこそ、戦うことにした。
「敵ならいい。敵なら上から蔑み、脅す。馬鹿だと嘲り、頭が悪いと嘲笑し、雑魚が囀るなと言い放てる」
敵だからこそ上から目線で物事を言える。
「誰であろうとも」
圧倒的なまでに、潰すため。
けれど、と。
優斗は続けた。
「……今日は違った。少なくともウィルは僕の敵じゃなく、彼も僕の敵じゃない」
そして優斗は自分の考えを曲げた。
「だからこそ己を曲げてまでやったことが正しいのかは、分からない」
それが一つ目の後悔だ。
「思えば、おかしな話だ。妻を奪われた男が第三者と戦い、破れ、怒りの矛先を託す。そして奪った男は殴られただけ」
たった一発。
それだけでウィルに手を出すな、と。
自分はそう言った。
「彼には割に合わないことを強いたと思ってる」
どれほど怒っていたとしても、師団長になるほどの男。
僅かでも冷静さを取り戻させれば……なんとかなるかもしれない、と。
優斗はそう思った。
事実、運良く優斗の考えは当たった。
つまり騎士であり誠実である、というところにつけ込んだといえばそれまで。
「けれど、ああするしかウィルを助ける方法は無かった。そうも……思ってる」
誰も死なない結末など、少なくとも自分にはこれ以外、思いつかない。
「彼本人にやらせてあげるのは、出来なかったのですか?」
問いかけるフィオナに対して、優斗は僅かに首を振る仕草を見せた。
「……無理だ。彼は怒気と殺意を心に満たしても、狂ってはなかった」
冷静な部分を残していた。
「奪った本人を前にしていないから、まだ理性を保っていられた」
ウィルの姿を見ていないから、狂わずにいられた。
「僕も彼と同じだから分かる」
同意し、納得し、頷いた自分だから理解した。
「もし奪った相手が目の前にいれば、何をしてでも殺す」
あの時の心境で。
あの時の憎悪で。
本人を前にしてしまえば、
「確実に殺意と怒気で自分を狂わせる」
理性というものを無理矢理、打ち壊す。
「彼は自分で理解していた。『俺だと確実に奴を殺す』と」
事実、そうだったろう。
「彼をウィルに会わせて、殺させない手前で止める?」
それこそ最悪だ。
「今以上に納得しないだろうな」
昼の少年――イースとは違う。
説得させることが出来る状態じゃない。
納得させることが出来る心境じゃない。
「殺したいほど憎んだ相手が目の前にいる。ならば醜態を晒しても、醜聞にまみれても、醜悪な感情を前面に押し出して殺す」
今まで築き上げた全てをかなぐり捨てでも、後悔などない。
何一つ後悔などしない。
「“僕ら”のような人間は、そういうものだ。だからウィルを殺させないのであれば、会わせては駄目だった」
彼の溜飲を下げるにしても。
会わせるわけにはいかない。
「選択肢は二つしかない。会わせて殺させるか、会わせずに殺させないかだ」
たった、これだけ。
「死なせない程度にやらせてあげればいいなどと甘言を宣えるわけもない」
ウィルを守ると決めたからこそ。
会わせるわけにはいかなかった。
「何より彼の怒りは……もしかしたら場違いかもしれない」
リライトでは正しいだろう。
けれど、この国ではどうだろうか。
「一夫多妻の国がどう在るのかは知らないが、たかが己の女一人が火遊びしたくらいで、なぜそこまで憤る……と言われれば、それまでだ」
男女関係にしたって、優斗が思っている以上に緩いのかもしれない。
それこそ火遊びが通常よりも問題にならないくらいに。
となると、むしろ師団長が怒っているほうが逆に不可思議に思われる。
「……でしたらどうして、あの場で?」
フィオナは首を捻る。
ならばウィルを呼び出して殴ってもいい。
あくまで個人的な願いというのなら、あのような場所で殴る必要はなかった。
「会場で殴れば、明日には彼の耳にも届くはずだ。そして様々な噂が流れる。ウィルが“何をした”のか、について。勝手な憶測が飛び交う」
可哀想だという声。
馬鹿なことをしたのか、という声。
「周囲からの憐憫と嘲笑を以て、彼の溜飲を少しでも下げたいという独善的で浅はかな考えだ」
「でも、だとしたら優斗さんも……」
当事者の一人になってしまう。
「いくらウィルの従姉が妻とはいえ、第三者が割り込んだ。そして彼の怒りを無理矢理収めさせた。そうなったところで構わない」
難しい表情をさせたまま、優斗は言い切った。
一見、師団長に無理強いをさせたからこその表情と思える。
だが違う。
もう一つ、見え隠れしている。
その意味を……フィオナは理解した。
「……珍しいですね。優斗さんが間違えるのは」
僅かに苦笑した気配を見せながら、フィオナは優斗の頬を摩る。
「気付いたのか?」
「ええ」
彼が悔やんでいること。
その二つ目。
「憶測の被害者に私がいます」
あのパーティー会場で優斗とほぼ、一緒にいた。
優斗がいない間はウィルがフィオナに近付いて、断り、さらには一緒に控え室にも向かった経緯もある。
そして出て行く時は優斗と一緒だ。
フィオナは十分、憶測に登場する人物になりえる。
なればこその間違え、だ。
「貴方にとっての正しさに、私への被害などありません」
分かりきっていると断言できるくらいに理解している。
「だから、今日の行動は……貴方にとっての間違いです」
宮川優斗にとって間違えたこと。
それはフィオナを憶測の被害者へと道連れにしてしまったことだ。
「ウィルを殴って、あの子がこれで殺されないと思って、少しでも師団長の方が溜飲を下げてくれることを祈って、そしてほっとした後に……私へ被害が来ることに気付いたから」
振り向いた仕草は、それに気付いたからこそだろう。
その時から優斗の口調は一貫して固いまま。
「だから貴方は今も難しい顔をしてるんです」
己の判断ミスで、フィオナを巻き込んだから。
間違えたと悔やんでいる。
「……もし“if”を言えるなら、あの殺気に気付かなければよかった。そうすれば僕は彼をいつものように敵として認識することができた」
打倒すべき相手として、少なくとも“止める”ということができた。
「話を聞く前に止めただろうからな」
後々に事態が分かったとしても、そこに苦しさはない。
「……知らなかった」
子供の頃から敵がいて。
舐められてはいけない、と強く居た。
上から見定め、見据え、敵を嘲てきた。
自分では誰よりも“闘う”ことに慣れていると思っていた。
「だが、今まで敵としか闘ってこなかったから」
敵以外を相手にしたことがないから。
「……結構、きつい」
共感してしまった相手と闘うのは、本当に苦しかった。
「敵以外と闘ったことで、迷ったんですか?」
「当たり前だ」
フィオナの問いに優斗は頷く。
「だからこそ僕は対応を間違えて――最愛を自らの行動で巻き込んだ。例え噂の範疇だったとしても、僕は自分で自分を許せない」
宮川優斗がフィオナ=アイン=トラスティを己のミスで下卑た噂に巻き込むなど、あってはならない。
けれど、
「目先を願って後を間違えるなんて、完璧主義者の優斗さんだからこそ珍しいです」
優斗の頬に触れながら、フィオナは優しく笑う。
「でも、いいんですよ。間違えたところに“私”がいるのなら」
もし優斗のミスでフィオナが馬鹿らしい噂に巻き込まれたとしても。
そのような噂が出るということは、間違いなくフィオナは彼の隣にいるということ。
「何一つ、問題なんてありません」
一緒にいることを実感できる。
「だから」
フィオナは優斗の目を隠している彼の右腕を、手に取る。
そして、しっかりと視線を合わせると、言ってやった。
「私を巻き込んで下さい、宮川優斗」
もっともっと、実感させて欲しい。
例え辛いことを言われたとしても。
優斗が隣にいるのならば、それでいい。
「私を巻き込んだところで、間違いなどと思う必要は何一つありません」
“仲間”には思っていい。
“大切”には思っていい。
けれど“最愛”には思わなくていい。
「隣を歩むとは、そういうことです」
良いことだろうと悪いことだろうと。
一緒にいるということ。
そして分かち合う。
これはフィオナにとって、一番譲れないこと。
「今日はお疲れ様でした。優斗さんに殴られたことでウィルも考えることがあるでしょう。ウィルがこの先、どうするかはあの子自身の問題です」
初めて受けるはずだった圧倒的な殺意は優斗が防いだ。
けれどこれから、優斗はいない。
事の次第はおそらく、カイアスあたりが伝えるだろう。
だから今後、どのように身を振るかはウィル次第。
「そして優斗さんからすれば、今回の件は間違えだらけだったと思います」
師団長と闘ったことも。
ウィルをあの場で殴った結果、フィオナを巻き込んでしまったことも間違いだった。
しかし、だ。
間違えだと思う全ては優斗の視線から語ったこと。
「けれど私からすれば、貴方はウィルを守ってくれた」
だからもう、いいだろうと思う。
フィオナは身体を少しかがめて、口唇を優斗に落とした。
「そろそろ、口調を戻してもいいんじゃないですか?」
ほんの数センチ先にある優斗の瞳を見ながら、フィオナが優しく告げる。
これ以上、自分を追い立てる必要性はない。
結果論としてウィルは生きている。
そしてフィオナは悲しまなかった。
「……そっか」
固かった優斗の表情が、ここでようやく崩れた。
「……うん。そうだね」
小さく、ゆっくりと優斗が頷いた。
「あと、最後に言うことになりましたが」
顔をあげたフィオナは、ちょこっとだけ悪戯をするような表情になり、
「アリーさんは優斗さんの従妹じゃないんですか?」
思わぬ言葉を出してきた。
また、少しだけ優斗の表情が崩れる。
「冗談みたいな会話の一つなんだけど」
「いいと思いますよ。たとえ冗談みたいなやり取りでも、従妹と言って私に納得させることが出来ているんですから。だから優斗さんとアリーさんはいとこなんですよ」
「……すっごい理論だね、それ」
はちゃめちゃもいいところだ。
「でも」
もし仮にアリーが従妹として。
もし仮にウィルと同じことをやったとしたら。
自分は果たして、どうだったろうか。
もちろんフィオナとウィルの二人とは仲の良さだって違う。
性別だって違う。
けれど“いとこ”という枠組みで考えたなら。
「…………」
少し考えて、頷く。
「だったら、やっぱり」
どれだけ馬鹿なことをしたとしても。
そのせいで殺されたとしたら。
「泣くかな」
従妹なのだから。
「だから、やっぱり」
無駄に関わって。
無駄に辛くなったけど。
僅かでも自己弁護をして……いいだろうか。
「護ってよかった」
少なくともフィオナを泣かせずに済んだ。
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