第111話 矛盾してでも

 足音が響く。

 怒気を孕み、殺気を漲らせた姿は誰かが見れば怯えるほど。

 そうして感情を何一つ隠そうとしない彼――騎士団の師団長が一人の姿を認めた。

 並木道の木に寄り掛かり、腕を組んでいる少年。

 しかし、こちらを見る視線は自分から外れない。

 互いの距離があと10メートルほどになると、少年は真っ直ぐに立ち、自分と相対するように歩みを進めた。

 

「殺気を出し過ぎだ」

 

 少年――優斗は目の前の男性に話しかける。

 

「一つ訊く。誰が目的だ?」

 

 問うたことに対し、師団長は一言。

 

「ウィル=ナイル=ロスタ」

 

 その名を出した。

 

「理由は?」

 

「俺の妻と火遊びをしておいて、理由を尋ねるか?」

 

 さらに師団長の殺気が強まる。

 第一婦人である彼女は、先日パーティーで出会ったウィルと火遊びをした。

 許せるわけもない。

 

「……申し訳ないことを訊いた」

 

 優斗は小さく頭を下げ、さらに尋ねる。

 

「ウィルをどうするつもりだ?」

 

「決まっている」

 

 感情を全力で込めながら、言葉を吐き捨てる。

 

「斬り殺す」

 

 人の女に手を出しておいて、何もないと思わない方がいい。

 

「……貴方の気持ちは分かる」

 

 優斗は嘆息し、納得し、頷いた。

 先ほどのウィルの言葉。

 そして騎士然とした彼の登場で全てが繋がった。

 

「本当に……分かりすぎるほどに理解はしてあげられる」

 

 午前中にあったことも、今あることも。

 彼らの気持ちが痛いほどによく分かる。

 自分と何も変わらない。

 今、目の前にいる彼も『フィオナに手を出された優斗』と同じだ。

 だから共感しかできない。

 

「…………」

 

 思わず彼を会場まで通してやろうかと思った。

 彼をウィルと会わせてやりたい、と。

 でも、それは駄目だ。

 イースと呼ばれた少年とは違う。

 彼では紛うことなくウィルを殺してしまう。

 

「本来なら見なかったことにして通してやりたいところだが」

 

 自分の主義主張は彼は一緒だ。

 

 ――でも。

 

 優斗は奥歯を噛みしめて、

 

「あれでも僕の妻の従弟だ。妻が悲しむ可能性がある以上、通すわけにはいかない」

 

 立ちはだかることを宣告する。

 

「それに貴方ほどの実力者ならば分かるはずだ」

 

 振る舞いや殺気の強さ。

 総合的に鑑みて、師団長はかなりの実力者。

 されど、

 

「貴方は僕に勝てない」

 

 自分には到底及ばない。

 

「だから退け。無用な戦いをする必要は無い」

 

 気持ちが分かるから。

 戦いたくなかった。

 

「……そうだろうな」

 

 師団長は静かに頷く。

 感覚で彼も理解していた。

 立ちはだかる少年は画一した実力者。

 雰囲気が、気配が、己は少年に勝てないと示している。

 

「頭では負けると分かっている」

 

 おそらくは圧倒的な実力の差がある。

 傷一つ付けられないほどに。

 

「しかし心が納得していない以上、無理矢理にでも通してもらう」

 

 故に剣を抜き放ち、彼は優斗と相対する。

 

 

       ◇      ◇

 

 

 優斗がいなくなった後、フィオナの下には男性陣が殺到した。

 しかし、にべもなく断る……どころか絶対零度の表情で切り捨てるフィオナに対して、立ち向かえる者はいない。

 手を取ろうとする愚か者がいてもカイアスとルカが防ぐ。

 十数分して、ようやっと人が捌けた。

 

「フィオちゃん、だいじょうぶ?」

 

 あまりの状況だったのと、フィオナの昔のような変貌ぶりにルカが心配する。

 

「問題ないですよ。やっと邪魔者がいなくなって、少し安心しました」

 

 表情を崩してフィオナが答えた。

 

「カイアス従兄様もルカ様もすみません。優斗さんが戻るまでもう少しの間、一緒にいてもらってもいいですか?」

 

「それはもちろん、構わないわよ」

 

「当たり前だろう。私はユウト君にフィオナのことを頼まれたのだから」

 

「お手数だとは思いますが、申し訳ありません」

 

 気軽に二人が頷くと、フィオナが頭を下げた。

 そして談笑しよう……としていたのだが、ウィルがやって来た。

 もちろん女性を大勢連れて。

 

「フィオナ。一曲、どうかな?」

 

「…………」

 

 手を差し出すウィルに対し、フィオナは先ほどと同じ無表情に変えて一度、目を向けただけ。

 そして、すぐに興味をなくしたかのように視線を明後日の方向へと投げた。

 フィオナの態度に、ウィルを囲っている女性陣からブーイングが上がる。

 どうやらウィルの誘いを断ったことが気に入らず、先ほど男性陣が集まっていたのも気に入らないらしい。

 

「……煩わしいですね」

 

 小さくフィオナは呟いて従弟を睨む。

 

「ウィル、邪魔をするならどこかへ行って下さい」

 

「い、いや、そういうつもりじゃないさ」

 

 フィオナの言葉に対し、従弟は少しおかしな態度を取った。

 

「……ウィル?」

 

 彼の態度が違う。

 昨日はフィオナが言っても押してきた。

 今のだってとりわけ酷い悪態を突いたわけでもないのに、この動揺。

 

「何かあったのですか?」

 

「……なんでもないさ」

 

 ウィルの表情が僅かに曇った。

 何でもないわけがない。

 だから無視というわけにもいかなかった。

 最低限、事情くらいは聞いておかないと後々、何が起こるか分からない。

 

「カイアス従兄様、控え室はありますよね?」

 

「あるよ」

 

 訊かれてカイアスが頷く。

 彼もフィオナが何をしようとしているのか見当が付いた。

 

「ウィル、そこであらいざらい話すんだ。今、少し問題が起こっていてね、もしかしたらお前に関係することかもしれない」

 

 言いながらカイアスはウィルを引っ張って連れて行く。

 女性陣が付いてこようとしたが、完全にシャットアウトして控え室の扉を閉める。

 

 

       ◇      ◇

 

 

 優斗は振るわれる剣を風の魔法や精霊術を用いていなし、かわし、尚且つ反撃する。

 けれど気は進まない。

 彼の気持ちを良く分かってしまった。

 理解できて、頷けて、共感してしまった。

 フィオナに手を出されれば、国ごと破壊することを躊躇わない自分だからこそ。

 正直、彼に立ちはだかっている意味が分からない。

 

「……ほんと、何やってるんだろ」

 

 思わず舌打ちした。

 けれどもウィルが死ねばフィオナが悲しむだろう、と。

 ただ、それだけの理由で彼を止める。

 

「おおぉっ!!」

 

 叫びと共に横薙ぎされる師団長の剣を風で受け止め、代わりに蹴りを彼の顔に放つ。

 師団長は一歩、バックステップをしてかわす。

 憤怒の形相であれど、闘いの最中では冷静な部分を残していた。

 

「…………?」

 

 だからこそ師団長も思案する。

 どうしてだ、と。

 優斗の腰にあるもの。

 パーティーに出る装いにも似合っている美麗なショートソード。

 彼は一度もそれを抜いていない。

 風の魔法や精霊術を使い、自分と相対している。

 舐めているのか、とも思ったが違う。

 優斗の表情は晴れていない。

 苦虫を噛み潰したかの如く、苦々しい。

 同情……ではなく同意なのだろう。

 変わらぬ意見を持っているのに、立場故に相対する。

 師団長が剣を大きく振るい、優斗が距離を取った。

 素晴らしい相手だと思う。

 剣を使っている自分に対して無手で挑む。

 決して剣戟や破壊音を出さず、いなし、避け、パーティー会場には音一つ届いていない。

 こちらは本気でやっているのにも関わらず、だ。

 剣を向けるのならば、やはり優斗のような強者がいい。

 

「できれば……別の機会で会ってみたかった」

 

 ごちるが、仕方のないことだ。

 ウィルを斬り殺さなければ気が済まない。

 

「次が全力だ。君を倒して俺はウィル=ナイル=ロスタを殺しに行く」

 

 師団長は両手で握っている剣を上段に掲げ、宣言した。

 優斗は彼の言を受けて、一度だけ強く手を握り、

 

「……そうか」

 

 握りしめていた拳の力を抜いたあとに大きく頭を振る。

 彼は覚悟を決めた。

 全力を以て優斗を倒すと。

 そしてウィルを殺しに行く、と。

 ならば自分はどうするべきか。

 最初の一手をどう受ける。

 魔法で立ち向かうか?

 精霊術でいなすか?

 それとも、かわす?

 順々に考えていき、順々に破棄する。

 魔法ではなく、精霊術でもなく、かわすわけでもない。

 結論は一つだ。

 ウィルを護ると決めたのだから、やることは分かっている。

 

「抜く」

 

 次いで覚悟を決めた視線が師団長を貫いた。

 優斗は腰に手を掛け、ショートソードを手に取り、鞘から抜き放つ。

 桜色の光が周囲に舞った。

 

「桜の……花びら?」

 

 思わず見惚れたように、師団長が呟いた。

 まるでそうとしか思えない光が剣から吹き荒れ、

 

「貴方には悪いが――」

 

 優斗が構えた。

 全身に力を込め、

 

「――これで終わらせる」

 

 足を踏み出し、駆ける。

 

「……ッ!」

 

 来る、と師団長が感じた瞬間、身体は反射的に剣を振り下ろしていた。

 

「遅い」

 

 けれど優斗の横薙ぎは対応する師団長の剣を一薙ぎで中央から折り、返す刃で根元から砕く。

 そして、

 

「……本当にすまない」

 

 左手を師団長の胸に当て、風の中級魔法を零距離で放った。

 

 

       ◇      ◇

 

 

 無理矢理、ウィルに事の次第を吐かせると、三人全員ため息を吐いた。

 

「師団長ですか」

 

「公明正大だが、激情家だと言ったね」

 

「……馬鹿なのね、ウィル君」

 

 フィオナ、カイアス、ルカの順に呆れる。

 よりにもよって、そんな人の奥さんに手を出してしまったのか。

 カイアスは額に手を当てる。

 

「お前にはもう少し早く言っておくべきだったかな」

 

 ちょっと遅すぎた。

 

「ウィル君、他にはないのよね?」

 

 ルカの問いかけにウィルはたぶん、と頷いた。

 そして今頃気付いたかのように周囲を見回し、

 

「あの、フィオナの婚約者は?」

 

「今は夫です」

 

 ピシャリとフィオナが言い放った。

 意味が分からないが、今の彼女には逆らわないほうが懸命だと思い、

 

「え、えっと、じゃあ、旦那さんは?」

 

「所用です」

 

 そう言ってフィオナはまた、ため息を吐く。

 

「本当にもう……面倒事ばかり引き受けるんですから」

 

 優斗の相手は8割以上の確率で、ウィルの言っている師団長だとフィオナは感じている。

 

「とはいえ、安心はしました」

 

 優斗が相手をしているなら、ウィルが殺されるということはない。

 万が一すらもない。

 

「フィオナ。違っていたらどうするんだい?」

 

 もし優斗の相手が別だったとして、師団長が会場に現れたとしたらどうするべきか。

 

「馬鹿らしいですけど私が守ります。優斗さんが戻るまでは耐えられると思いますから」

 

 フィオナから軽く言われたことに、カイアスが目を見開く。

 

「フィ、フィオナが守るって大丈夫なのかい?」

 

 魔法の才があるから学院に通っていることはカイアスも知っている。

 しかし相手は師団長。

 普通に考えれば耐えられるわけもない。

 

「大丈夫です。これでも私、こう言われてるんですよ」

 

 けれどフィオナは笑う。

 公爵令嬢、龍神の母、大魔法士の妻。

 様々な形で呼ばれることはあれど、ここで告げるはマリカを護る為に得た名。

 

「リライト最強の精霊術士と」

 

 だから心配はしなくていい。

 

「……なんというか、フィオナもたくましくなったね」

 

 カイアスは素直に受け取る。

 フィオナが嘘を言うはずもない。

 何よりも彼女の最愛は大魔法士。

 そう呼ばれるようになったとしても、まったくもって頷いてしまう。

 

「パーティーに戻りましょうか。何が問題なのかも分かりましたし」

 

 フィオナが三人を促した。

 念のために用心することは必要だが、現状では戻っても問題ない。

 “あの”宮川優斗が会場まで問題を持ち込むはずがないから。

 

「そうだね。それにこれ以上、ウィルをここに留めておくと女性陣から苦情が来そうだ」

 

 カイアスが苦笑する。

 下手をしたらドアの外で待ち構えてるかもしれない。

 

「これも全部、ウィル君が下手打ったのが原因だけどね」

 

 ルカはため息を吐きながらウィルの頭を小突き、

 

「…………」

 

 問題の張本人は、どういうことか分かっていなかった。

 

 

       ◇      ◇

 

 

 吹き飛ばされ、木に叩き付けられた師団長。

 衝撃で肺にある空気は吐き出され、倒れ込み、何度も咳き込む。

 足に力は入らず、立ち上がることも出来なかった。

 何度か無理矢理に深呼吸をして、どうにか喋る程度までに回復させる。

 そして前を見ると、優斗が歩み寄ってきた。

 

「貴方には申し訳ないと思ってる」

 

 悪いのが師団長でないことなど、百も承知だ。

 

「……謝る必要は無い」

 

 そして師団長も優斗が悪いとは思っていない。

 

「あれほど苦々しい表情で戦っている君を見て、分かった」

 

 自分に有り余るほど同意をしてくれていた。

 

「君は“俺側”だろう?」

 

 問いかけに対して優斗は頷く。

 

「それに君と戦い、少しは気が晴れた」

 

 怒気と殺意しかなかった心の裡なのに、あの聖剣を優斗が抜いた瞬間――見惚れてしまった。

 彼の聖剣を抜く様は、まるで計算されつくしたかのように綺麗で、清廉で、美しかった。

 

「これもまた、君の狙いか?」

 

 さらなる師団長の問いに対して、優斗は曖昧に笑みを浮かべる。

 ということは、そうなのだろうな、と師団長は思った。

 

「少年」

 

 横たわる己の身体を上半身だけ起こしながら訊く。

 

「一つ、お願いをしてもいいだろうか」

 

 真剣な眼差しで告げられた言葉。

 優斗も同じく真剣に応える。

 

「叶えられる願いなら」

 

 返された言葉に師団長は笑みを零し、お願い事を伝えた。

 

「ウィル=ナイル=ロスタをぶん殴って欲しい」

 

「……ぶん殴る?」

 

「ああ。俺だと確実に奴を殺す。しかし、それを君は許さない。ならば――俺の憤りを君に託したい」

 

 今も殺したい気持ちで一杯だが、優斗が確実に防ぐ。

 ならば、殴るぐらいはしたい。

 

「同意してくれた君だからこそ頼みたい」

 

 自分で手を下せないから。

 やり過ぎてしまう自分に代わって、やり過ぎない優斗にお願いする。

 

「奴を殴ってもらえるか?」

 

 手を差し出し、自分の願いを受け取ってくれるかどうかを確かめた。

 優斗は少し考えた様子を見せた後、彼の手を握り、

 

「だったら、僕からも約束してほしい」

 

「何をだ?」

 

「貴方の願いは叶える。だから僕がいなくなってもウィルには手を出すな」

 

 彼の憤りを晴らすから、それで終わりにしてほしい。

 

「矛盾した物言いだということは理解してる。けれど――」

 

「分かっている。君の妻が悲しむかもしれないから、だろう?」

 

 師団長から出てきた言葉に対して、申し訳なく頷く。

 そして優斗は繋がれた手を引っ張り彼を立たせた。

 少しよろめきながらも、師団長はしっかりと立ってみせる。

 

「敗者というものは勝者に従うものだ。故に君の約束を反故しないことを誓おう」

 

 未だ怒っているだろうに。

 殺したいだろうに。

 だが誠実に師団長は優斗に言ってくれた。

 

「……ありがとう」

 

 小さく笑みを浮かべて、優斗は感謝する。

 優斗はこの国の人間ではないから、ウィルを殺させないためには“何か”をする必要があった。

 それは約束であったり、脅しであったり――殺すことも。

 自分がウィルを殴ることで命を助けられるなら、願ったり叶ったりだ。

 

「貴方が素晴らしい騎士でよかった」

 

「……どうかな。妻を奪われた挙げ句、奪った男を殺そうとした男だ」

 

 自らを律しきれていないと言えば、それまで。

 

「いや、人間は得てしてそういう生き物だと思うけど、年長者の意見としては?」

 

「……ふむ。人間というか、我々の間違いではないか?」

 

 問い返されて、優斗は「確かに」と言って表情を崩した。

 すると師団長は今し方気付いたかのように、

 

「ああ、そういえば気になったことがあった」

 

「何を?」

 

「少年。君の名を教えてもらってもいいか?」

 

 戦っていた相手の名前を訊いた。

 そういえばどちらも何一つ名乗っていなかったことに、今更ながらに分かって互いに呆れて苦笑いをした。

 

 

       ◇      ◇

 

 

 女性と踊りながらも、ウィルは考えていた。

 フィオナの婚約者……いや、この場では彼女の夫である優斗がいない理由と自分に何か関係があるのだろうか。

 あの三人の中で会話が完結していたからこそ、問うこともできなかった。

 仲間はずれにされた、というわけではない。

 けれど自分に話す必要はないと思われている。

 いや、正確には話したところで意味がない、だろう。

 

 ――じゃあ、どこに行ったのさ?

 

 “何か”があって、フィオナの夫は用事が出来た。

 午前中もそうだったが、あの二人は常にベッタリだ。

 なのに不特定多数がいるパーティー会場で彼がフィオナと離れるなんて考えづらい。

 

 ――所用……って言ってたけど。

 

 他国であるのだろうか。

 ウィルはさらに先ほどの会話を思い返していく。

 

 ――面倒事だって言ってた。

 

 そしてカイアスは『違っていたらどうする?』と。

 

 ――違っていたら……ということは彼の所用というのはまさしく、ぼくに関すること?

 

 だからフィオナは自分を守ると言って、己がリライト最強の精霊術士だから大丈夫だと告げたということか。

 

「あっ……」

 

 優斗の所用の意味が、理解できてきた。

 

「…………もしかして……」

 

 いつの間にか曲が終わり、女性がウィルから離れていく。

 その時だ。

 

「ウィル」

 

 後ろから名を呼ばれ、振り向く。

 瞬間、

 

「――あぐっ!!」

 

 左の頬に強い衝撃と痛みが走った。

 同時に身体が勢いで後方へと3メートル以上は飛んでいき、受け身も取れないままウィルは倒れる。

 周囲から大きな悲鳴も上がった。

 

「…………い……つっ」

 

 突然のことにウィルは意味が分からなかった。

 頬が熱を持ち、痛みが酷い。

 口の中に何か固いものがあり、すぐに奥歯が折れたのだと気付いた。

 

「まさ……か……」

 

 殴られたということは師団長がやって来たのか、と頭の片隅で思う。

 恐怖で身体を支配しそうになった。

 だが、

 

「これでお願いは果たしたかな」

 

 自分を殴り飛ばしたのは別の人物だった。

 

「……なっ」

 

 宮川優斗が大きく右手を振り抜いた姿が、そこにある。

 左頬に手を当てながら、ウィルの中では様々な考えが駆け巡る。

 なぜ彼が自分を殴ったのか。

 そして『お願い』とは何なのか。

 何一つ、理解できていない。

 けれど優斗は大きく安堵したかのように息を吐くと、悲鳴巻き起こる周囲を無視しながら、

 

「フィオナ、帰るよ」

 

 彼の最愛の女性に声を掛けた。

 フィオナも優斗の行動に目を瞬かせたが、

 

「はい」

 

 一つ頷き優斗の腕に手を掛け、会場を去る。

 思わずウィルは立ち上がって優斗を追いかけようとしたが、女性達がウィルを囲んでしまって身動きが取れない。

 兄や兄嫁も優斗を追いかけるように会場を後にした。

 周りの女性陣が大きく頬を腫らしたウィルの顔を見て「なんてことを!」と憤っていたが、そんなことはどうでもいい。

 ウィルは今、殴られた意味を知りたかった。

 

 

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