第20話 同じ家に住むということ

空が暗くなる頃には全員が無事に家へ帰り、優斗は未だ眠そうなフィオナを部屋に送り届ける。そして馬車から降りた途端、妙に元気になったマリカと彼女の部屋から出てきたところでマルスに誘われ、一緒にテラスで飲むことになった。

 とはいえマリカを抱いたままなので、優斗は葡萄酒をちびちびと飲む。

 

「旅行はどうだったかな?」

 

「楽しかったですよ。マリカも楽しかったよね?」

 

「あいっ!」 


 元気一杯な返事にマルスの表情も緩む。

 

「君達が来てからというもの、騒々しくて実に楽しそうだね」

 

 まだ優斗とフィオナは落ち着いている方だが、それでも今までの娘の状況を考えれば十分、騒がしい。なのに他の面々が関わった瞬間、さらに騒がしくなるのだから驚くほかない。

 

「マリカも加わったことで、余計に日々が彩られたように私は感じているよ」

 

「あうっ!」

 

 なぜかマリカが反応した。その姿が愛らしくて、マルスはさらに表情を崩した。

 

「いやはや、孫というのは可愛いものだ。フィオナは大人しく可愛かったが、マリカは娘と違って元気で可愛い」

 

 懐かしむようなマルスに、優斗はマリカを構いながら話を聞く体勢を取る。

 

「やっぱりフィオナって幼い頃から大人しかったんですか?」

 

「そうだね。あの子はあまり夜泣きもせず、エリスや家政婦長の手を煩わせない良い子だった。ユウト君はどうだったのかな?」

 

「えっと……どうでしょう? そういう話をしたことはありませんから」

 

 さして気にしていないのか、優斗は平然と言葉を返す。だがマルスは僅かに眉をしかめた。

 彼が『道具のように扱われていた』と教えてくれたことを失念してはいなかったが、それでも訊いてはいけない話題だった。

 

「すまない。失言だったね」

 

「いえ、気になさらないで下さい。僕を産んだ人達のことを親だと扱ってしまうと、マルスさん達のような方々に失礼ですよ」

 

 優斗は本当にそう思っている。息子である自分を道具として扱い、人として扱わなかった人達のことをどうして親だと思えるだろうか。

 

「けれどある意味、感謝しています。あの人達を反面教師にできるから、やってはいけないことだけは理解しているつもりです」

 

 自分が受けた日々とは真逆なことをやっていけばいい。そうすれば、少なくとも自分のようにはならない。

 

「とはいえ、それが親として子育てすることに繋がっているのかは分かりませんけどね」

 

 微笑みを携えながら話す優斗。けれどマルスにはそれが、どうしても取り繕ったようなものにしか感じない。

 

「ユウト君は普通の親が……いや、普通の暮らしを求めていたのかい?」

 

 少し踏み込んだことを訊くマルス。優斗は少しだけ考える仕草をすると、静かに首を横に振った。

 

「……分かりません。だけど今の僕であるからこそ修達に――『兄弟』に出会えた。それは絶対に譲れないことで、忘れてはいけないことです」

 

 どれだけ最悪な過去を過ごしたとしても、その後に幸いはあった。だからこそ全部を全部、否定することは出来ない。

 

「ただ、普通の日々と普通の親が欲しかった、と。そのことを一度も考えたことがないかと問われれば、答えはノーです」

 

 優斗はグラスの中にある葡萄酒を飲み干す。

 

「どうやら旅行に行った疲れの反動なのか、酔ってしまったようです。少し暗いことをお話してしまい、申し訳ありません」

 

 そう言いながら立ち上がり、酔い覚ましをする為に優斗はマリカを伴って席を外した。

 



 

 テラスから家の中に戻ってくる優斗をエリスは見つけた。またか、と思いながら彼女は優斗とすれ違うようにテラスに出て行くと、座っている夫に文句を垂れる。

 

「あなた、またユウトさんと飲んでたの?」

 

「少しだけだ」

 

「それにしたって一週間に四回も五回もやってれば限度があるわ。念願の夢だったのは分かってるけど」

 

 いくら夢だったとはいえ、毎度付き合わされている優斗の身を考えて欲しいとエリスは思う。けれどマルスは難しい表情をしたままだ。

 

「いや、むしろ私はもっと彼と関わる必要があると実感させられたよ」

 

「……あなた、どういうこと?」

 

 問い掛けると、夫は先ほどの顛末を妻に伝える。エリスは聞き終えると、僅かに目を伏せた。

 

「ユウトさんの話を聞いた上で、あなたはどうするつもりなの?」

 

「私は彼に対する遠慮をなくすと決めたよ。一緒に暮らしているのだから不必要だろう?」

 

「……遠慮、ねぇ」

 

 確かに必要ないとは思う。今の彼が取っているスタンスは家族ではなく同居人だ。だからどうしたって遠慮は生まれてしまう。

 

「私達は立場上、後見人ではあるけれど彼の義両親でもある。つまり彼は私達の義息子、という立場だと言える」

 

 優斗には単なる異世界人という立場だけではなく、フィオナの婚約者という立場があり、夫という立場だってある。そしてマルスは彼とどうしたいのか今一度、胸に刻み込む。

 孫の為にと親友達と離れて一緒に暮らし、大人という存在を信じていないのに自分達を信じてくれて、自分の夢を嫌な顔一つせずに叶えてくれる少年のことを、自分はどのように思いたいのかを。

 

「私は彼を息子のように思いたいから、そう動くと決めたよ」

 

「けどあなた、それは……」

 

 夫から聞いた優斗の身の上から鑑みれば、迂闊に彼を息子などと言ってはいけない気がエリスにはしていた。

 

「私は彼のためになると思っている」

 

 けれどマルスは引かない。

 

「フィオナの恩恵があろうとも彼は私を信用してくれた。ならば私は彼の信用に応えるためにもそうする。まだ遠慮があるのは分かりきっているけれど、まずは態度で示していこうと思うよ」

 

 自分の想いと願いを。だからマルスは妻にも問い掛ける。

 

「エリスはどうする? ユウト君と自分の関係を、どのようにしたいんだ?」

 


       ◇      ◇



 それから二週間以上の日々が経ったが、優斗とマルス・エリスの関係は一向に変化が訪れなかった。マルスは変わらずに優斗とテラスでお酒を飲みながら様々な話をしては、優斗との関係について一歩を踏み出そうとしている。

 けれどエリスが夫から話を聞いている限り、どうにも優斗はこの家で過ごしている時でも気を張っているらしい。とはいえ今は彼の親友が唐突にやって来ているので、妙に気を張っている様子をエリスは感じ取れない。

 そして彼女の視線の先にいる優斗は、突然の来訪者に目を丸くしていた。

 

「卓也、いきなりどうしたの?」

 

「……やっちまった」

 

 優斗はいきなりトラスティ邸にやってきて、しかもヘコんでいる親友の姿に首を傾げる。

 

「何をやっちまったの?」

 

「金がないんだ」

 

「……はっ? 定期的に貰ってるじゃない」

 

 異世界組のお金は王様から毎月、小遣いのように支払われている。本当はもっと膨大な額らしいが、王様が本当の意味で彼らが『異世界の客人』となるまで管理している。

 

「手持ちが全くないんだ」

 

「何に使ってるの? 修や和泉じゃあるまいし、卓也が金ないっていうのは珍しいね」

 

「……落としたっぽい」

 

 がっくりと肩を落とす卓也。どうやらどこかに財布を落としたようだ。優斗は苦笑いを浮かべると、ちょうど広間にいるエリスに訊いてみた。

 

「エリスさん、何か割のいいバイトとかあります?」

 

「…………」

 

 けれど反応がなかった。ソファーに座りながら考え事でもしているのか、視線はこっちに向いているのだけれど焦点が合っていない。

 

「エリスさん?」

 

 優斗はもう一度、呼んでみる。すると声が届いたのか、ビクッと身体を震わせてエリスが優斗に焦点を合わせる。

 

「えっ!? な、何かしら?」

 

「あの、何か割のいいバイトってあります? 卓也が金を落としたらしくて」

 

 優斗が尋ねるとエリスは少し考えて、

 

「だったら……そうね、ギルドでも行ってきたら? タクヤさんにも出来る仕事があるはずよ」

 

「へぇ、そうなんですか」

 

 優斗は卓也に視線を向ける。

 

「どうする? 行ってみる?」

 

「ああ、行ってみよう」

 

 善は急げとばかりに二人は玄関に向かおうとする。けれど優斗は声を掛けることを忘れない。

 

「フィオナ、悪いけどマリカのことお願いね」

 

 庭でマリカと日向ぼっこしていた彼女に出掛けること伝える。

 

「はい。行ってらっしゃいませ」

 

「ユウトさん、無茶なものは選んじゃ駄目よ」

 

 エリスが釘を刺すと、優斗は大丈夫だと言うように表情を崩した。

 

「分かってますって」

 

 

 

 そしてギルドまでの道中、卓也がこんなことを言ってきた。

 

「なんていうか、同じ家に住んでるのも板についてきたな」

 

「そう?」

 

「ああ。フィオナの両親も良くしてくれてるみたいでよかったよ」

 

「うん。マリカを育てることに対して相談に乗ってくれるし、すごく参考になってる」

 

 突然、親になった優斗とフィオナのフォローをしっかりとしてくれている。

 

「あの二人はどういう存在なんだ?」

 

「尊敬できる人達だよ。あれが親なんだと思える素晴らしい人達」

 

「お前にとっても?」

 

 卓也が突っ込んだことを訊いてきた。

 

「分からない。ただ、マルスさんとエリスさんを僕は尊敬してるよ」

 

 優斗は同じことをもう一度、伝える。それ以上の感情を持つのは余計なことだ。偶然が重なり、同じ家で住むことになっただけでしかない。

 

「そっか」

 

 これ以上は卓也も何も言わなかった。少ししてギルドに辿り着く。

 

「ここかな?」

 

「みたいだ」

 

 大きな看板に『ギルド』と書いてあったので、中に入ってみる。

 なんとなくイメージ的に汚れている、粗暴な雰囲気、といったものがあったのだが、どうしてなかなか綺麗な内装をしていた。二人は受付に向かう。

 

「ギルドに初めて来たのですが……」

 

「それではご案内させていただきます」

 

 受付の女性に説明を受ける。依頼のランクやプレイヤーのランク、などなど。基本的にRPGと変わらなかったのは二人にとって幸いだった。

 唯一違うのは国の管轄でギルドが運営されているということだろうか。他には特に尋ねることもなくライセンスを受け取る。

 この世界の依頼はランク付けされており、S、A,B,C,D,E,F,Gと八段階になっている。優斗達が受けられるのはEランクまでだ。

 

「討伐でもやるか?」

 

 卓也は依頼が貼り付けてある掲示板を見ながら優斗に相談する。

 

「薬草採取でいいよ。ほら、これなら前に行った森にあったから」

 

 ランクはFランク。熱冷ましの薬草の採取。そこそこお金になって危険がないということで、これにすることにした。



 

 

 森の中に入り、分担しながら草むらで薬草を探す二人。

 

「あったか?」

 

「あったよ。数も問題なし」

 

 優斗も卓也もパパッと薬草を回収してすぐに帰る。修や和泉のように余計なことをしない。

 

「バカ二人がいないから、トラブルなく帰ってこれたな」

 

「まあ、特に修がいないからね」

 

 トラブルを呼ぶ災厄人物の修がいない以上、この二人で行動して問題が起こることは稀だった。

 さっさとギルドに戻って薬草を渡す。

 

「これで換金も終了。優斗はもう帰るのか?」

 

「いや、ちょっと商店街まで足を伸ばすよ」

 

 優斗はせっかくお金が入ったのだからと、少し買い物をしていこうと思っている。

 

「そうか。それじゃ、今日はありがとうな」

 

「はいよ」

 

 気軽に受け答えをして、優斗は去って行く卓也の姿を見送る。

 

「さて、と」

 

 商店街へと足を向けて歩き出す。

 

「何を買おうかな」

 


 

 

 夕刻を過ぎて優斗はトラスティ邸に戻り夕食を終えると、フィオナに抱っこされて一緒に部屋へ戻ろうとする娘に声を掛けた。

 

「マリカ」

 

 優斗に名前を呼ばれて、マリカもフィオナも反応する。すぐに近付いてきた。

 

「今日は良い子で夕ご飯を食べたけど、お留守番もちゃんと出来たかな?」

 

「あいっ」

 

 元気な返事のマリカ。優斗がフィオナに本当? と視線を向けると頷かれた。

 

「それじゃ、いつも良い子のマリカにパパからプレゼントだよ」

 

 ラッピングされた紙袋を娘に渡す。綺麗に包装された物を手にすると、マリカの表情がより一層輝いた。

 

「部屋に戻ったらママと一緒に開けてみてね」

 

「あいっ!」

 

 再度、元気な返事をするマリカに優斗は手を振って見送るとソファーに座る。しばらくのんびりしていると、エリスが話し掛けてきた。

 

「さっきマリカが何かを渡してたけど、何を買ってきたの?」

 

「クレヨンと画用紙です。さすがに娘にプレゼントを一個も買ってないのはどうかと思ったから」

 

 あの歳ぐらいの遊び道具としてはちょうどいいと思う。

 

「ちゃんとマリカのために頑張ってるのね」

 

「父親ですから」

 

 当然のように優斗が言った。エリスはそれを聞くと……少し真面目な表情を作る。そして何か決めたように真っ直ぐに優斗を見据えた。

 

「だったら、今度は私たちと頑張ってみる気はない?」

 

 唐突なエリスの発言に優斗は要領を得ない。疑問の様相を呈した。

 

「どういうことですか?」

 

「ユウトさんはこの家で暮らし始めてどれくらいかしら?」

 

「おおよそ三週間弱、といったところですね」

 

 引っ越して、旅行をして、マリカを育てている。とても早く思えるほどに時間が過ぎていた。

 

「対外的に私とユウトさんはどういう関係かしら?」

 

「設定を述べさせてもらうのであれば義理の親子、もしくはそれに近しい関係、といったところでしょうか」

 

 夫婦や婚約者という扱いなのだから、自分が言ったような関係が一番適しているだろう。

 

「ならそろそろ、呼んでもらいたいものよ」

 

 エリスが口にした言葉を聞いた瞬間、優斗の表情が険しいものになった。

 何を伝えたいのかは分かるが、すぐに頷けるものではない。

 

「……マルスさんから話を聞いたりはしてないんですよね?」

 

「いいえ、聞いてるわよ」

 

「それでも、ですか?」

 

「もちろんよ」

 

 優斗の態度から良い話題でないのは確かだが、エリスも引くわけにはいかない。

 

「意地悪をしているつもりはないわ」

 

「分かってます」

 

 彼女が無神経な人物でないことは、優斗もよく理解している。一緒に住む前からエリスのことは知っているし、冗談と真面目な話の使い分けができることだって分かる。

 だからこそ問う。

 

「なぜですか?」

 

「私は貴方を本当の息子のように思いたいからに決まってるわ」

 

「……僕がここにいるのは、あくまでマリカの為ですよ」

 

「それと私が貴方に伝えたいことは関係ない」

 

 エリスが断言した瞬間、優斗の表情がより一層、固いものに変わった。

 

「疲れるわよ、ユウトさんの生き方は」

 

 今の彼は気の休まる時間を持っていない。常に何かしら緊張の糸を張らしている。

 

「……知ってます」

 

「家でくらい、気を抜いたっていいじゃない。だからこその“家”じゃないの?」

 

「それができる生き方をしていないと知ってるでしょう?」

 

 マルスに自分のことを聞いているのなら、どうして自分がこうなっているのか、理解して然るべきだ。

 

「なら、できるよう努力なさい」

 

 けれどエリスは許さない。安易に逃げさせることはしなかった。

 

「……厳しいですね、エリスさんは」

 

「遠慮はしないって決めたもの」

 

 マルスから話を聞いて以降、ずっと考えていた。夫がああ言った以上、自分だってそうする。そうしたいと思ったのだ。

 

「前にマルスが言ったかもしれないけれどね、貴方がいるおかげでフィオナは話すようになったし、明るくなった」

 

 まるで別人だ。同一人物だとは、とても思えない。

 

「マルスだって同じ。帰ってお酒を飲むことを楽しみにするようになった。今だってマリカのおかげで孫バカ手前よ」

 

 夫は夢の一つが叶った、と本当に喜んでいる。優斗と一緒に酒を飲み交わす時間が本当に至福なのだろう。

 

「私だってそう。貴方と会って、マリカが来て、目まぐるしく変わる毎日が本当に楽しいの」

 

 だから。自分達の気持ちを彼にも知ってもらっていたいから、

 

「ユウト」

 

 エリスはもう、彼に遠慮はしないと決めた。

 

「もう一歩だけ、私達に歩み寄りなさい」

 

 こっちから目一杯に踏み込んでも、最後の一線を越えるのは彼自身の意思が必要だ。けれども優斗はいつものように軽く頷いたりはしない。いや、できない。

 

「……怖いんですよ」

 

 小さな言葉ではあったが、エリスの耳に届く。優斗も目の前にいる女性が真剣に考えてくれているからこそ、取り繕うことはせず真面目に答える。

 

「きっとエリスさんが望む一歩は、僕が僕として生きてきたラインを超えるものです」

 

 彼女からしたら僅かばかりの人生かもしれないけれど、それでも生きていく為に必要なことがあって、その線引きがあったからこそ生きることができた。


 ──気持ちはあるけど。


 そうしたい、という気持ちはあるけれども。マルスとエリスの為人を知ったからこそ、有り余るほどに思っているけれど。

 くしゃり、と優斗の顔が泣き笑いを浮かべた。

 

「僕はそれを超える勇気を持ってないから」

 

 涙は出ない。バカみたいだけれど、最後に涙を流したのがいつだったか覚えていない。

 覚えているのは涙を流さないと決めた誓いだけ。

 

「……少し、勘違いしてたわ。貴方も弱い心を持っているのね」

 

 エリスはこの時、初めて思い違いをしていることに気付いた。

 優斗はいつでも平然としている。にこやかに笑っている。強く、優しく在る。それが彼に対するエリスの評価だった。

 けれども今、崩れる。“強い”のではなく、“強くいた”ということなのだろう。

 

「そうする必要があったから『強く在る』しかなかったんです。でなければ駄目だったから」

 

「ここは貴方のいた世界じゃない」

 

「知ってます」

 

 だけど変えられないんです、と付け加えながら優斗は朗らかに笑った。

 しかし彼の笑顔は、心を知ったからこそ印象が変わる。なぜだか悲しくなってエリスは優斗に近づき……抱きしめた。


 ──この子はずっと、こうしてきたのね。


 大人と立ち向かうために必要だった強さと強固な意志。

 まともな世界で過ごしているなら、そんなものは必要ないというのに。

 

「……ちょっと苦しいです」

 

「我慢なさい」

 

「……はい」

 

 ただ、エリスに言われるがままに優斗は抱きしめられる。今まで誰からも感じたことのない温かさが身体に染み渡る。なんとなく、これが“親”なのだと実感した。

 

「……親の温かさというのは、こういうことを言うんですかね?」

 

 優斗は、ふと思う。今、感じているのが親の温かさだと言うのならば。

 自分は出来ているのだろうか。

 

「僕はマリカにこの温もりを与えられていますか?」

 

 出来ていればいいな、と。優斗は願う。けれどエリスは彼の問いに思わず泣きそうになった。


 ──どうして、この子は……。


 誰もが与えられて然るべきことさえ分からないのだろう。

 そして恨みそうになる。親の温もりすら教えてこなかった優斗の両親に。

 

「もちろんよ」

 

 エリスは強く頷いた。すると優斗は安堵の表情を浮かべる。

 

「よかったです」

 

 言葉だけではなく、態度だけでもなく、自分はマリカに対して親らしいことができている、と。

 そう思えたから。

 

「不安だったの?」

 

「実感をしてこなかったわけですから」

 

 理想はある。努力もする。マイナスイメージも振り切ってはいる。

 けれど、不安がないと言えば嘘になっていた。

 

「でも、だからこそ良い親で在りたいと思ってるんです。あんな最低な両親から産まれたからこそ、心を閉ざしてしまうほどの教育を受けてきたから、僕は絶対にあの人達のようになりたくない。ただ、それだけなんです」

 

 淡々と事実を告げる優斗に、エリスはもう限界だった。どれほど辛い状況だったのかは想像もつかない。人の汚いところばかり見てきたのも本当なのだろう。


 ──それなのに。


 優斗はこんなにも純粋な芯を持っていることに、エリスは涙が溢れてきた。

 少しでも擦れたりすれば、もっと楽だったろうに。

 

「泣かないでくださいよ」

 

「……バカよ、あなたは」

 

「その通りです」

 

「本当にもう、どういう言葉を掛けていいか分からないわ」

 

「すみません」

 

 あまりにも否定できない事実だったので、情けないように頷く優斗。けれどエリスは彼の頭を柔らかく撫でた。

 

「でも、それでも貴方に何か言えるとしたら」

 

 本当の強さを持っている優斗に。


 ──頑張り屋のこの子に伝える言葉があるとするなら。


 エリスは抱きしめている優斗の肩を持つと、真正面から彼のことを見据えた。

 そして、

 

 

「ユウトのためにこれだけ泣ける私は、やっぱりユウトのことを大切に思ってるって実感したわ」

 

 

 優しく微笑みを浮かべるエリス。その表情からは大きな母性が溢れ出ていて、愛情が一重に優斗に向けられていて。

 

「……っ!」

 

 それが優斗の心を揺さぶった。なぜか目頭が熱くなって、顔を下に背ける。

 

「ユウト?」

 

「……どうして……ですかね」

 

 決めたことだった。自分が流す涙には何一つ価値がないと分かっているからこそ、不必要な涙は無意味でしかないと知っていたはずだった。

 

「自分でも覚えていないぐらい幼い時に、泣かないって決めていたんです。泣いても何も変わらないから、泣くことに意味はないって……」

 

 ずっとずっと、そう思って生きてきた。

 心を凍らせて、殺して、何も感じないようにして、ただ日々を生きるために必死になっていた。

 

「僕はもう……自分のことで流す涙はないと思っていたのに……」

 

 エリスの微笑みと温もりを感じてしまったら、込み上げてくるものが止まらなかった。

 

「バカね」

 

 エリスはもう一度、優斗を抱きしめる。

 

「泣きたいなら泣けばいいのよ」

 

 そして今度は彼の頭をあやすように撫でた。温もりを知らないというのなら、自分が与えようとエリスは誓う。

 親としての在り方を知っているだけなのであれば、自分が彼に実践しようと決める。

 そして彼の悲しみや苦しみを親が受け取らなかったのであれば、

 

「私が受け止めるわ。ユウトの気持ちを」

 

 彼の母親になりたいからこそ、絶対に。

 

「ありがとう……ございます」

 

「感謝なんて必要ないわ。私がそうしたいから、やってるだけのことよ」

 

 優斗の瞳から零れる涙をエリスは受け止める。“大人”としてではなく“母親”として。

 マリカの父親になろうとしている優斗を見習って、自分も頑張って優斗の母親になる。

 これが優斗に対する自分の一歩だ。

 

「エリスさんの踏み出した一歩は凄いですね」

 

「そうかしら?」

 

「僕を泣かせるんですから、相当なものです」

 

 優斗もエリスも泣きながら笑い合う。

 

「これで少しはユウトも勇気、出たかしら?」

 

 今一度、エリスが尋ねると優斗は小さく頷いた。

 

「そうですね」

 

 自分を泣かせるぐらいに踏み込んできたエリス。そして自分のことを思って泣いてくれた彼女に優斗は応えたいと思う。今ならきっと、言える気がした。

 

「言葉だけになってしまうかもしれません。だけど、この一言で一歩を踏み出そうと思います」

 

 大きく深呼吸をして。呼ぼう。

 

 

「ありがとうございます、義母さん」

 

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