第10話 帰還

 金色かないろや深緋の錦に埋もれた小道の果てに、見慣れた尖塔が現れる。背後に夕陽を背負い茜色に染まった塔の姿に、丸一日走りつづけてきた一行はようやく安心を覚え、馬の足を緩めた。

 すでにガレン城砦での一連の事件はゲルツハルト修道院まで届いていたようで、物見櫓はいつにも増して物々しく人が多かったが、スペイギールたちの顔を認めると歓声とともに迎え入れた。

 始めは門番が、次第に到着の報せを聞いた修道士やヘリオスの家臣らがどんどんと門前に集まってくる。

 無事の喜びに沸く彼らに取り囲まれ、エオルゼたちは身動きが取れなくなってしまった。傷を負ったスペイギールに気づくと、ますます騒ぎは大きくなる。


「静まれ!!」


 ラズウェーンの鋭い咆吼が轟く。気迫に圧されて、門前の広場は一瞬で静まりかえった。

 ラズウェーンは近くにいた修道士に治療の用意を命じ、馬を自分の家臣に任せると、スペイギールを背中に担いで館へ戻った。エオルゼたちもそのあとを追った。

 今朝目覚めたときは、スペイギールの熱はいくらか引いていた。

 しかし移動中にふたたび上がり、今では現実と夢のあわいを行き来している。傷口も痛むのだろう、ずいぶんとうなされていた。

 館へ入り、二階へ上がる前に、エオルゼは厨房に寄って湯を頼んだ。沸いたヤカンを手に提げてスペイギールの寝室へ向かう。

 寝台のかたわらにはラズウェーンと修道士がおり、傷の具合を見ているところだった。


「傷口はどうですか。膿んでいませんか」


 診察する修道士に問いかける。


「はい、大丈夫です。エオルゼ様が処置をなさったと聞きましたが」

「ええ。縫い直さなくてもいいですか」

「とても見事な縫合でございます。このままで問題ありません」


 エオルゼはほっとしてヤカンを机に置いた。修道士は包帯を巻き直すと、薬湯の準備に下りていった。

 間を置かずに、留守を預かっていたエングラー大司教がダシュナに連れられて現れる。 

 普段から消えることのない眉間のしわはますます深く刻まれ、急ぎ足で来たのか息があがっていた。


「スペイギール様のご容態はいかがなのですか」

「さきほど修道士に診せましたが、怪我の状態は良好のようです。今は熱で眠っておられますが、それもじきに引くだろうと」

「そうですか」


 ラズウェーンの説明にエングラー大司教の声量が落ちた。騒いでスペイギールの身体に障ってはいけないと気づいたのだろう。


「侯爵やバルク様、イグナーツの姿が見当たりませんが」


 エオルゼは湯冷ましを作っていた手を止めた。コップを支える手に力がこもる。


「彼らは、スペイギール様を無事に逃がすための囮になりました」


 ラズウェーンの応えにためらいはなかった。ただ事実を述べるだけだ。


「――そうですか」


 ぴくり、とエオルゼの手元が震えた。白湯の水面が波立つ。

 振りかえることはできなかった。大司教の声にも特別な感情はこめられておらず、ひとことそう言って口を結んだ。

 やがて白湯が凪いだころに、大司教は静かにラズウェーンに提案した。


「現状について詳しくうかがいたいのですが、ここではスペイギール様の邪魔になりましょう。のちほど食堂で時間を設けていただけますか」

「わかりました。夕餐の支度を厨房に言いつけておきます」

「よろしくお願いいたします」


 では、と大司教は軽く頭を下げてから部屋をあとにした。

 気配が消えてから、エオルゼは握りしめていたコップを持って机を離れる。寝台の隅に腰を下ろすと、うつらうつらとするスペイギールの肩に触れた。


「ギール様、白湯です。喉が渇いたでしょう?」


 淡い金色の睫毛がゆっくりと持ちあげられる。

 熱に潤んでぼんやりとした瞳が、迷子の子どものようにエオルゼの姿を探していた。「ここですよ」とやさしく囁き、身体を起こしてやる。

 コップを口元にあてがうと、スペイギールは時間をかけて白湯を飲みほした。背中を支えながらふたたび横たえると、ほう、と息をつく。

 ずいぶんと汗をかいていて、額やこめかみにしっとりと髪が貼りついていた。汗を拭ってやり、井戸水に浸した布を額に当てると、気持ちよさそうに目を細める。


「すぐに薬湯ができますから。そうしたら楽になりますよ」


 うん、とスペイギールの喉がかすかに鳴る。青白いまぶたがとろりと落ちた。

 白湯を飲む力もしっかりしているし、熱に浮かされてはいるが意識もはっきりしている。

 修道士が言ったとおり、熱が引けば問題ないだろう。しかし、今夜も誰かがそばについていた方がいいかもしれない。


「今夜はわたしがスペイギール様に付き添います」


 かたわらで様子を見守っていたラズウェーンが頭を振った。


「おまえばかりに負担がかかる。私が付き添うから、エオルゼは部屋で休みなさい」

「ですが……」

「まだ先は長い。今のうちに眠った方がいい」


 どちらにしろ寝つけはしないだろうが、体調不良で迷惑をかけるわけにはいかない。


「では、夜まではわたしが」

「わかった、任せる。私はヴェルナーのところへ行ってくる」


 ヴェルナーとは、バルクの弟の名だ。

 エオルゼは「はい」とうなずき、視線をおのれの膝頭に落とした。昨夜切りそこねた髪の房が、視界の端で揺れる。


「……よろしくお願いします」


 部屋の隅で控えていたダシュナが言うと、ラズウェーンは無言でおとがいを引いてから廊下へ姿を消した。

 シュヴァイツ家の家督がヴェルナーに移ったことを伝える――間接的に兄の死を伝えるという大役をこなすには、エオルゼもダシュナも未熟だ。

 ラズウェーンの存在は二人にとって偉大で、バルクにとってもそうであったからこそ、彼は進んで名乗りを上げたのだ。

 やがて診察をした修道士が薬湯を煎じて戻ってきた。

 解熱と鎮痛作用のある煎じ薬は舌が痺れるほど苦い。コップになみなみと注がれたそれを、スペイギールはまた苦労して飲みほした。


「ここには俺がいるから、おまえたちは先に着替えてこい」

「……ありがとう、そうするわ。セイン、行きましょう」


 ダシュナの申し出をありがたく受ける。

 セインをうながして、エオルゼは久しぶりに自室へ戻った。室内は相変わらず殺風景で生活感に乏しかったが、今のエオルゼにはもっとも馴染み深く心安まる場所だ。

 寝台に外套と剣を置き、埃に汚れた服を着替える。ぐるりと部屋を見渡すと、今置いたばかりの段袋に新しい衣類など必要な物を詰めはじめた。

 時間がそう多くは残されていないことは、おのずとわかっていた。 



◇◇◇



 あたたかな夕食を囲っての談合は現状の深刻さを確認しあっただけで、秋の実りに富んだ献立に舌鼓を打つ余裕さえ残されていなかった。

 国王軍は、侯爵領内の深部にまでスペイギール捕縛の手を伸ばしてきている。つまり、領境の守りであったガレン城砦は陥落したと思われた。

 どれほどの敗残兵が城砦から脱出し、ゲルツハルト修道院やカールステット侯爵邸へたどりつけるか――だがウサギを狩る狩人のように、国王軍は彼らを追って進軍するだろう。

 動くのならば早急に。身代わりとなったイグナーツの正体に気づかれる前がいい。

 ところが、常時ゲルツハルト修道院に駐屯している侯爵家の私兵は五十人ほどで、そのうちのおよそ半数はガレン城砦へ連れて行ってしまった。ヘリオス家や四晶家の家臣も、せいぜい二十人ほどしか残っていない。

 味方である領主たちからの援軍は、もとから期待できなかった。

 国王やエウル・ヘリオスとの和平に反対していた者が多かったうえ、中には国王側と通じていると思われる者さえいる烏合の衆だった。

 もし、彼らの中の誰かがスペイギールのために挙兵したとしても、国王軍の包囲を突破してゲルツハルトまでたどりつくのは極めて困難だ。不可能に近い。

 修道士を含めても百人にも満たない集団で、スペイギールを国王軍から守らなければならない。それがエオルゼたちが置かれた現実だった。

 エングラー大司教への報告を終えれば、みな顔も上げずに黙々と食事を済ませた。食堂には食器のふれあう音だけが残る。


 沈鬱な夕食を終えるころに、さらに追い打ちをかけるような報せが届いた。

 国王軍の襲撃を受けた侯爵邸から、カールステット侯爵夫人と長男夫妻が逃れてきたのだ。

 長男トビアスが率いてきた私兵は、数百人に及んだ。突然の奇襲に命辛々逃げ延びてきた兵で、正門前の広場は埋め尽くされた。

 彼らの手当と食事の手配をするために、修道院はたちまち慌ただしくなる。

 四晶家といえどのんびりと料理を平らげている暇はなくなり、各所の差配に走りまわらなければならなくなった。

 特にゲルツハルト修道院には女性がいないので、侯爵夫人やトビアスの妻の世話はエオルゼに一任された。

 夜が明けたら村から人手を借りるとしても、彼女たちを賓客用の部屋へ案内し、今晩の食事と細々とした身の回りの物を用意しなければならない。


 貴人に出せる食事をなんとか整え、寝床の準備をし、夫の所在を尋ねてくる侯爵夫人を宥めて解放されたときには、すでに深夜を回っていた。夕餐のときには地平線近くにあった星が、もう天頂を越えている。

 エオルゼはスペイギールの寝室を目指して回廊を走った。

 ラズウェーンやダシュナも手が空かず、看病にはつけていないはずだ。


「エオルゼ!」


 館の入り口へ繋がる角を曲がったとき、突然暗闇から呼び止められた。思わずエオルゼは足を止める。

 金属のふれあう音が不穏に響く。甲冑の音だ。

 声のした方へ目を澄ますと、予想どおり、甲冑で全身を鎧った男が薬草園の方角から駆けてきた。

 星あかりに照らされて、鎧は青白く輝いていた。まるでみずからほのかな光を放っているようだ。象嵌された蔓草模様がうつくしい見事な品で、こんな状況でなければエオルゼも感心しただろう。

 しかし男の正体に、エオルゼは舌を打ちたくなった。

 スペイギールの看病をしなければならないのに、なぜ今なのか。

 オーヘンは回廊へ上がってくると、ことわりもなくエオルゼの手首を掴んだ。


「いきなり何をするんですか!」 


 頭に上りかけた血を抑えながら、エオルゼはオーヘンの手を乱暴に振り払った。

 怒りと批難をこめて睨めつけても、オーヘンは動じない。むしろこちらを責めるような態度で距離を詰めてくる。


「いますぐ我が伯爵領へ行きましょう。こんな場所にいては危険です」

「何を言っているのかわかりません。そもそも、なぜオーヘン殿がゲルツハルトにいるのですか」


 オーヘンは、ル・マヌンとの会談が現実味を帯びてきた時期に、早々にゲルツハルト修道院を去っていたはずだった。おそらく二度と顔を見ることはないだろうと思っていたのだが。


「一度家へ帰ったのですが、あなたが気になって戻ってきたのです。カールステット卿のお屋敷で世話になっているときに国王軍の襲撃に遭い、トビアス殿とご婦人方をここまで護衛してきました」


 諭すような声音で言うと、オーヘンはふたたび手を伸ばしてきた。

 革の手套をはめたままのそれをピシリと叩く。


「触らないで。何が目的ですか」

「怯えないでください、エオルゼ。不安なのはよくわかります。ガレン城砦でのことは話に聞きました。とても恐ろしかったでしょう? 非武装の者を襲うなど人間のすることではありません。まったく、悪逆非道だ」


 だから何なのだと、哀れみに満ちた男の顔を見上げる。

 何年も戦地に立ってきたエオルゼにしてみれば、いまさらの同情などあまりに滑稽だ。


「ガレン城砦が落ち、侯爵邸も失った今、ヘリオスの味方はここにいる三百人程度の兵だけです。国王軍に敵うはずもない。ですからエオルゼ、今のうちに逃げましょう。イエフ伯爵家があなたを保護します」

「……あなたはわたしを何だと思っているのですか」


 収めたはずの感情が息を吹き返し、暴れ狂いながら脳天まで駆け上がる。

 この緊急時に。明日も知れぬときに。

 どこまで傲慢で利己的なら、この男は気が済むのか。甘く優しげな表情の裏に隠した本性を知らないとでも思っているのだろうか。


「わたしはエルー家の家長です。誰かの庇護を求めてはいません。ましてや国王軍が迫っているからと、自分だけ逃げ出すような無責任な人間でもありません。わたしの役目は、いつ何時もヘリオスを守ることです。たとえ最後の一人となろうとも」


 静かに声を震わせるエオルゼを労るように、オーヘンは深くうなずく。


「あなたの忠心には感服しますし、尊敬もしています。ですが、命まで捧げる必要がありますか? つい昨日までは、その家名さえ捨てるつもりだったのでしょう? いまさら家に縛られてどうするのですか」

「いまさらではありません。わたしはエウルではなく、スペイギール様を選んだだけです。その結果が家名を捨てるという選択になったまで」

「あなたはもう、エルー家の家長という立場から解放されていいはずですよ」

「馬鹿馬鹿しい。あなたがほしいのは、伯爵家次男のあなたを引き立ててくれる四晶家の娘でしょう? エルー家にこだわっているのはオーヘン殿の方ではないですか?」


 穏やかだったオーヘンの目の色が変わる。エオルゼを気遣っていた紳士の仮面に、亀裂が入った。


「わたしは主君に従います。危険だと思うのなら、あなただけで安全なお父様のもとへ帰ってください」


 エオルゼはきつく言い捨てると、館へと走り出した。オーヘンの怒気に染まった声が追ってくるが振り向かない。

 二度と顔を見たくなかった。名前さえも耳にしたくない。

 勢いのままに館に駆けこみ、速度を落とすことなく二階へ上る。廊下に到るとようやく衝動は和らぎ、自然と足も緩やかになっていた。

 スペイギールの部屋の前で一度止まり、扉をそっと開く。

 机に置かれた燭台の灯火が、蜜のようにとろりとした光を振りまいていた。

 その光の残滓を背中に浴びながら、セインが寝台のかたわらに椅子を引き寄せて座っていた。

 ノックもなく開いた扉に警戒していたが、エオルゼと知り、肩の力を抜く。


「ごめんなさい、セイン。看ていてくれたのね」

「みんな忙しそうだったから。ギール様、薬が効いてきたみたいだよ」


 寝台をのぞきこむ。スペイギールは穏やかな寝息を立てていた。

 起こさないようにそっと熱を確かめれば、セインの言うとおり微熱程度の体温が手のひらに伝わる。


「よかった」


 エオルゼの中で燻っていた熱もすうと引いていく。

 残ったのは、ちょうどスペイギールの体温ほどのぬくもりだった。あたたかくて心地よい、日向のような安堵。

 こうしてスペイギールの寝顔をじっくりと眺めるのはいつ以来だろう。

 無防備なそれは、子どものころとまったく変わっていない。頬をりんごのように赤くしてエオルゼのあとをついてきた、『小さな太陽』と呼んだあのころと。


(どうしてこんな場所に置いてきぼりにして、ひとりで逃げられると言うの)


 調印式の前夜、スペイギールが選んだ道に希望を抱いたときとは状況は一転してしまった。

 見えていた光も闇に呑まれ、エオルゼの背には死臭が戻った。

 それでも、スペイギールは暗闇にほつりとともる黄金こがね色の灯りだ。幽かに燃える、唯一の道しるべだ。


「セイン、もういいわ。わたしが残るから部屋へ戻りなさい」

「いいよ、おれもここに残る。床で寝よう」

「……わかっているでしょうけど、今後しばらくはベッドで寝られないわ。最後にゆっくり休みなさい」

「それは姉さんも同じだろ? どうせ目が冴えて眠れないんだ。大勢の方が安心するしさ」


 平気な顔をしているが、甘えたいのだろう。エオルゼより背は高くなったのに、セインも昔から変わっていない。

 二人は自室からそれぞれ寝具を運びこんだ。

 絨毯の上に毛織りの外套を敷き、毛布に包まりながら横になる。床から冷気が染みてくるものの、一人で自室の寝台に眠っては得られない安らかさがあった。


「昔みたいだね」

「そうね」


 記憶の抽斗で埃をかぶっていた水晶の欠片が一粒、ちかりと煌めく。

 生まれ育った家は小さくて、母親も子どもたちも全員同じ寝室で眠っていた。あまりにも遠すぎて胸に痛みが走る。

 首から提げた星護符を探り、両手で包む。

 肌に近いせいか、それはぬるくなっていた。

 何を祈ればいいのかわからなかった。それでも、エオルゼは天つ女神の名を唱えずにはいられなかった。

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