第9話 代償

 陽が落ちると、夜はすでに馥郁とした秋ではなく、冴えた冬の匂いがした。

 長く駆けつづけていたせいで衣服は汗に濡れ、夜風に吹かれると氷のように冷たい。風に裾を遊ばせる外套をいっそう念入りに身体に巻きつけ、フードを手繰りよせるものの、内側からの冷えは如何ともしがたかった。

 先頭を走っていたカールステット侯爵が速度を緩める。エオルゼも手綱を引いて、歩調を合わせた。

 侯爵は馬首を巡らせて、殿しんがりのラズウェーンに様子を尋ねた。


「敵はまだ見えますか」


 ラズウェーンは、併走していたセインに無言で問いかける。森育ちで夜目が利くからと、最後尾を任せられたのだ。


「はい。地平線に松明の火が見えます。まだ距離があるのでこちらには気づいていないでしょうが、火を灯せば見つかるでしょう」

「数は?」

「多くはないです。せいぜい二十人ほどでしょうか」

「索敵の一隊だろう。我々がゲルツハルトを目指しているのを把握している――か」


 侯爵の呟きに、ラズウェーンはおとがいを引いて同意する。


「おそらく。先を急いだ方がよいと思いますが……」


 彼らの視線は隊列の中央、バルクへと向けられた。正確には、彼と同乗するスペイギールへだ。

 スペイギールはしばらくは自分で馬を操っていたが、ガレン城砦の崩れかけた塔が地平線に消えるころには、鞍上で背筋を伸ばせないほど疲弊していた。それでも頑として手綱を手放そうとしないのを無理やりバルクの馬へ移してからは、ずっとぐったりとしている。

 エオルゼはバルクに馬を寄せ、彼にもたれかかって眠るスペイギールの顔をのぞきこんだ。

 そっと額に触れると熱い。熱が出ている。

 こめかみを伝う汗を指先で拭ってやると、完全には寝入っていなかったのか、伏せられていた睫毛がぴくりと震えた。充血した双眸がエオルゼの姿を映す。


「気分はどうですか?」

「……平気。なんともない」

「血は止まりましたから、安心してください。大丈夫ですよ」


 うん、とうなずく声はか細く、喉からは喘鳴が聞こえる。かなり苦しそうだ。


「エオルゼ、どうだ?」


 エオルゼはラズウェーンたちを振りかえり、大きく首を振った。


「熱が高いです。このままゲルツハルトまでは無理です」

「大丈夫だ。このまま走ってくれ」


 身体を起こしかけたスペイギールだったが、バルクから逃れるための余力はない。鞍から落ちないようにバルクが腕に力を入れれば、ふたたび体重を預けるしかなかった。


「私も無理だと思います。どこか横になれる場所でお休みいただき、熱を下げなければなりません」

「バルク、おれは大丈夫だ。馬を寄せてくれ」

「どうかご無理はなさらずに。意地を張らなくてもいいんですよ」


 バルクはスペイギールの背中を軽く叩きながら宥めた。

 馬の負担を軽くするために定期的にスペイギールを乗せ替えているのだが、そのたびにこうして駄々をこねている。

 侯爵とラズウェーンも、これ以上進むのは難しいと判断したらしい。二言三言で話し合いを済ませ、全体に指示を出す。


「少し進路からはずれますが、ここから西へ行くと農村があるはずです。そこで宿を借りましょう」


 カールステット侯爵の案内で、一行は西へと進路を変更した。

 しばらく行くと、木の柵で囲まれた小さな農村が見えてくる。

 藁葺き屋根の民家の雨戸から、あたたかな橙色の光がこぼれていた。かまどの火がまだ入っているのか、または油坏あぶらつきの灯火か。

 夜中の訪問者に村人は警戒し、浮き足立ったが、カールステット侯爵家の者だと説明すると村の納屋を貸してくれた。新しい寝藁と火種をわけてもらい、薄いエールと夕飯の残りのスープもごちそうになる。

 質素ながらも温かい食事に、芯まで凍えていた身体がじわじわとほぐれていく。エールを流しこめば腹の中にぽっと火がついた。


 ようやく一息つける、と剣帯を置きたいところだが、このまま呑気に眠れるような安全はまだ得られていない。

 納屋の中は緊迫感に満たされており、カールステット侯爵やラズウェーンらが輪になって額を寄せあっている。

 低く小さな声で交わされる会話に耳を傾けながら、エオルゼは煮立つ鍋に柳の皮を投じた。湯気とともに、独特の青臭さがふわりと立つ。

 懸念されるのはやはり国王軍の追跡だった。

 索敵がこの村までおよんだ場合どうするのか――熱のあるスペイギールを連れて逃げおおせるのか。

 柳の樹皮が柔らかくなるころには、侯爵たちの口数は少なくなっていた。

 問わずとも、窮境を好転させる術が見つからないのは、彼らの背中を見ればわかる。

 思案に耽りながら鍋をのぞきこんでいると、視界の端でスペイギールの汗を拭っていたイグナーツが身動いだ。

 彼は手巾を置くと、口を閉ざしたまま侯爵たちの輪に近づき、静かに膝をついた。


「どうした、イグナーツ」


 焚き火に照らされて濃い陰影を描く少年の横顔は、いつにも増して凜としていた。

 その湖面のように凪いだ面差しに、エオルゼの胸がにわかにざわめく。

 ――この横顔を知っている。

 予感がする。嫌な予感が。


「私が、スペイギール様の身代わりになります」


 すう、と、背骨をなぞるように熱が引いていく。

 痛いほどの沈黙の中、イグナーツは淡々と続けた。


「スペイギール様のお顔を知る者は、王国側には数少ないはずです。ましてや、索敵の兵は特徴ぐらいしか知らされていないでしょう。髪の色、目の色、背格好に年齢。あとは肩の傷があれば――」

「だめだ!!」


 がばりとスペイギールが起きあがり、イグナーツの背に腕を伸ばした。

 飛びつかれた勢いを受けとめきれず、イグナーツはその場に尻もちをつく。


「馬鹿なことを言うな! なんでおまえがおれの身代わりになる必要があるんだ!」

「スペイギール様!」


 イグナーツの胸ぐらを掴んで叫ぶスペイギールを、エオルゼとラズウェーンで引きはがす。

 握った少年の手はがたがたと震えていた。高熱のせいだけではない。スペイギールの全身が、烈火のごとく燃えている。

 イグナーツは起きあがり、居住まいを正すと、睨めつけてくるスペイギールに冷静な態度で答えた。


「このまま夜が明けるのを待っていたら、敵に囲まれてしまいます。私がスペイギール様のかわりに国王軍に捕らえられれば、捜索は中断するはずです。そのあいだにゲルツハルトまで駆けてください」

「だめだ! そんなことは許さない! おまえが犠牲になる理由がどこにあるんだ。全部、おれの責任だろう。おれが安易にエウルの提案に飛びついたから……!!」

「いいえ、私が適任です。スペイギール様、あなたがいなければすべて意味を成さないのです」


 イグナーツは決めてしまった。

 エオルゼは何度も見てきた。彼の美しく澄んだ瞳は、死を覚悟した者のそれだ。

 その高潔な覚悟を決めた者を、誰にも止めることはできない。

 事実、スペイギール以外は誰もイグナーツを説得しようとはしなかった。誰もがイグナーツの提案に納得し、賛同してしまったのだ。


「――わかった。私もついていこう」


 名乗り出たのはカールステット侯爵だった。彼ははずしたばかりの手套をふたたび身につける。


「いえ。私ひとりで充分です」

「スペイギール様のお供が誰一人いないのはおかしい。侯爵ぐらい連れていなければな」


 侯爵が腰を上げると、深く一礼してからイグナーツも立ちあがった。

 では、とバルクがそれに続いた。


「私もお供します。四晶家もいれば怪しまれないでしょう」

「っ、やめろ! やめてくれ!!」


 スペイギールの絶叫が、彼らの背に追い縋る。


「いったい何を言ってるんだ! 侯爵も、バルクも、なんでイグナーツを止めないんだ!? なんでみんな黙ってるんだ! なんで、どうして……!」


 言葉を詰まらせると、スペイギールは力尽きたように身体を折った。

 おそらく起きあがっているだけでも苦しいはずだ。それでもスペイギールは力を振りしぼり、旅立とうとする三人を見上げる。


「……だって、バルク、おまえには子どもがいるじゃないか。まだ小さい……ようやく歩けるようになったぐらいだろう……っ」


 バルクは膝をつき、スペイギールと正対した。激情にわななく少年のいまだ薄い肩に、そっと手を添える。


「だからです。私には跡を継ぐ子どもも弟もいます。ですが、ダシュナやエオルゼには跡継ぎが足りない。二人には血を継ぐ子を成してもらわなければなりませんし、ラズウェーン様には四晶家を率いてもらわなければなりません」

「だめだ、許さない。命令だ。行くな」

「その命は聞かなかったことに。気を咎めないでください。これが我ら四晶家の役目です」


 バルクは穏やかに微笑むと、スペイギールの肩を励ますように撫でた。

 スペイギールの顔から色が失われる。燃え盛っていた炎がかき消されていく。

 顔を伏せると、スペイギールはそれ以上反論しなかった。

 血まみれの外套を脱がされ、イグナーツのものと取り替えられるあいだも、おとなしくされるがままでいた。

 着替えを手伝うエオルゼの腕に、いまだ震えの止まらない手がしがみつく。袖に指先が食いこみ、骨が軋んだが、エオルゼは拒むことも受け入れることもできなかった。

 イグナーツたちを止めないのはエオルゼも同じだ。どうしてスペイギールを慰められるだろう。


 支度を終えた彼らはスペイギールに最敬礼を捧げると、納屋の引き戸から闇に呑みこまれるように出ていった。

 まぶたを下ろせばまだ近くに気配がする。

 馬の嘶き、鎖帷子や剣がふれあう音、かすかなささやき声。蹄が地面を蹴る。

 跫音が遠ざかっていく。

 誰ともなくため息をついたのが聞こえた。息を吸うことさえ苦しかった。

 身体の中で木枯らしが鳴いている。熱く脈打っていた心臓の灯火も消え、虚ろな胸郭の空洞を寒風が渦巻いている。


「――エオルゼ、薬はできたか」


 ラズウェーンに問われ、エオルゼは火にかけたままだった鍋をのぞきこんだ。

 柳の皮はくったりとして、鍋の底に沈んでいた。


「……ええ、はい。ギール様、薬を飲んでください」


 自分の腕を掴む拳に手のひらを重ねる。スペイギールの手はすっかり強ばってしまっていた。

 指先をゆっくりと滑らせ、硬直した指を一本ずつ開いていく。

 ラズウェーンが椀に注いだ薬湯をスペイギールに差し出した。


「熱冷ましです。苦いですけど全部飲んでください」


 スペイギールはのろのろと椀を受け取り、鼻梁にしわを寄せながらもすべて飲みほした。これで少しは楽になるといいのだが。


「針と糸は持ってきたか」


 ラズウェーンの低い声にエオルゼはうなずく。


「ええ、はい。あります」

「おまえが一番手先が器用だ。縫ってさしあげなさい」

「はい。ではお湯を沸かしてもらえますか」


 湯を沸かしているあいだに、エオルゼは荷袋から針と亜麻の糸を探し出した。必要になるだろうと思い、ガレン城砦から持ち出した治療用の物だ。

 専門的な医術の知識はないが、処置をせずに放置するよりはましだろう。

 針と糸についたごみや汚れをていねいに拭ったあと、沸騰した湯で洗う。

 傷口は血は止まっているものの深く抉れていて、透明な体液に濡れていた。

 これ以上深かったら――と、エオルゼの背筋が冷える。運がよかったとしか言えない。


「ギール様、傷口を縫います。少し痛みますが、我慢してください」


 寝藁の上に横たわったスペイギールは、無言であごを引いた。

 慎重に、しかしできるだけ手早く処置を済ませる。最後に新しく清潔な布で傷口を覆ってやると、体力が底をついたのか、スペイギールはそのまま眠りに落ちてしまった。

 閉じた睫毛が落とす影は濃く、目の下には隈が浮いている。頬に触れれば驚くほど熱を持っているのに、血が足りないのか真っ青だった。くちびるはひび割れ、噛み切った痕が痛々しい。気のせいか、いくらか窶れたように見える。


「……姉さん、大丈夫?」


 気づくと、隣にセインが座っていた。

 手には麦酒の残りが入った椀を持っている。


「なに?」

「ぼうっとしてたから。……すごい汗だよ」


 指摘されて、エオルゼはようやく額がぐっしょりと濡れていることに気づいた。

 頬に貼りついた髪を払い、こめかみを伝うしずくを拭う。睫毛に落ちた汗に目が染みる。


「……緊張してたから。人を縫うなんて初めてだもの」


 微笑もうとしたが、広角はひくりといびつに痙攣しただけだった。

 頬から滑り落ちた汗がエオルゼの膝を打ち、丸い染みを作る。


「これ……よかったら飲んで」

「ありがとう。セイン、今夜はギール様の傍で寝て。何かあったら誰でもいいから起こすのよ」

「わかった」

「疲れたでしょ。もう寝なさい」


 周りもすでに寝支度を始めていた。

 順番に見張りをするだろうが、こうした危急の事態に慣れていないセインは休んだ方がいい。イグナーツの選択はスペイギールだけではなく、セインにも大きな足跡を残していったはずだ。

 スペイギールと並んで横になると、セインの背中が一度だけ大きく上下した。胸を引き絞られるような重いため息だった。

 エオルゼは弟の背中を軽く撫でてやってから、広げた荷物を片づけた。

 静かな夜だった。納屋の中だけ外界から取り残されたかのような静寂だった。

 ひとり、膝を抱えて焚き火を守っていても、聞こえるのはスペイギールの苦しそうな呼吸と薪が爆ぜる音だけで、あとは誰の寝息もしない。

 皆が息をひそめている。ぜいぜいと喘ぐ音だけが、エオルゼの意識を納屋の中に引き止める。

 物音を立てないようにそっと腰を探り、短剣を抜くと、エオルゼは結わえた髪を切り落とした。

 火に焼べるのは臭いがよくない。

 夜が明けたら、外に捨てればいい。

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