第8話 講和(2)

 ダライアスの怒号に、我に返った近衛兵が剣をかまえた。

 剣筋がひらめき、スペイギールを襲う。


「スペイギール様!」


 切っ先がスペイギールを貫く直前、バルクの腕が少年を剣戟から拾いあげた。机の上でスペイギールを肩に抱える。


「退くぞ!」


 暴れるスペイギールを抱えたまま、バルクは机上を駆けた。

 ダシュナとエオルゼが後衛に回り、追ってくる兵を牽制する。

 じりじりと背後へ下がりながら全員が脱出したことを確認し、二人は切り裂かれた天幕の裂け目から外へ飛び出した。


 広場はすでに乱戦状態だった。

 天幕の周囲は敵味方が入り混じって混乱のるつぼだったが、城砦の主要棟へ繋がる門にはまだ敵は到っていない。

 棟内で待機していた兵士たちが鬨の声に気づき、武器を手に駆けつけてくるのが見える。なんとか退路は確保できそうだ。

 ラズウェーンは状況の把握と判断を瞬時に行うと、素早く指示を飛ばした。


「侯爵には先頭をお願いします。エオルゼは侯爵の援護を、ダシュナは私と後方へ。セインとイグナーツはバルクとスペイギール様を守りなさい。スペイギール様、おとなしくなさいますよう」


 さっきまでバルクの肩で暴れていたスペイギールは、いまやぐったりとしていて低く呻いただけだった。額には珠のような汗が浮かび、左の袖は肩からみるみると真っ赤に染まっていく。

 ダライアスに襲いかかったときに、敵の剣先が肩をかすめたのだ。出血量からして傷は深いだろう。


 ラズウェーンとダシュナが天幕から出てくる近衛兵を制しているあいだに、カールステット侯爵の合図で全員が走り出す。近くにいた味方が加わり、スペイギールを中心とした円陣が徐々に組まれていく。

 広場に出ていたガレン城砦の兵もたいした武器を所持していなかったため、応戦に苦しんでいた。

 が、棟からの援兵が加わったことで、かろうじて敵の追撃を阻んでいる。

 彼らが波のように押し寄せるル・マヌン軍を止めているおかげで、エオルゼたちは無事に城門へ駆けこむことができた。

 侯爵の命で門扉が下ろされる。

 エオルゼはバルクとともに、居住棟の厨房に向かってひた走った。

 セインとイグナーツに毛布と清潔な布を持ってくるように言いつけ、自分は甕から鍋に水を汲む。

 床に座らされたスペイギールは、前髪までびっしょりと汗で濡らしていた。ぎゅっと歯を食いしばって痛みに耐えているが、意識ははっきりとしていた。


「条文書と鍵を……」

「無理です。諦めてください」

「でも、あれを取り返さないと……!」


 応急処置をするバルクに、スペイギールは目を血走らせて訴える。


「条文は無効です。ご安心ください」


 ラズウェーンが止血用のノコギリソウの葉を手に現れた。

 スペイギールの充血した双眸が見開かれる。


「どういうことだ、ラズウェーン」

「さきほどスペイギール様には、署名の際には名と姓のあいだにギゼルベルト様の頭文字を入れるように申し上げました。それが公文書における様式だと。ですが、実はそういったものはありません。スペイギール様の署名が間違っているとなれば、条文の価値も効力も無くなります」

「で、でも鍵が」

「正しき後継者でなければ、墓所の鍵は扱えないと伝わっております。スペイギール様こそが正統なる当主であるからには、他人の手に渡ろうと、ただのがらくたでしかありません。エオルゼ、処置を」


 スペイギール同様、言葉を無くしていたエオルゼは、はっと我に返ってノコギリソウを受け取った。

 ちょうどセインとイグナーツが厨房へ戻ってきた。二人が持ち寄った中から手頃な手巾を水に浸し、傷口の周囲の血をていねいに拭き取る。

 やはり、ラズウェーンも何か思うところがあったのだろう。

 エオルゼのように近衛兵の長剣に気づいてはいないかもしれないが、彼の勘が働き、予防線を張ったのだ。

 スペイギールは一連の説明にぽかんと口を開けたあと、青ざめたくちびるをきつく噛んだ。ぶつりと皮膚が裂けて血がにじむ。


「……ごめん……」


 誰も返す言葉が見つからなかった。

 沈黙のまま、エオルゼは揉んだノコギリソウをスペイギールの傷口へ貼りつけて、切り裂いたシャツで固定した。残った布で、汗や血をやさしく拭ってやる。

 顔の傷は表皮が裂けただけで、すでに血は止まっていた。

 だが、左肩の傷はやはり深かった。縫合しなければならないが、時間は残されているだろうか。

 エオルゼの無言の訴えに、ラズウェーンは首を横に振った。


「薬を取ってくる。おまえたちはすぐに支度をしなさい」


 足早に厨房を出て行くラズウェーンの背中を見送り、エオルゼはバルクと視線を交わす。


「わたしがここに残るわ。セイン、わたしの荷物もお願い」

「俺がスペイギール様の分を持ってくる。イグナーツ、セイン、行くぞ」


 エオルゼは床に座るスペイギールに毛布を掛けてやってから、厨房内を見渡した。

 逃走先はゲルツハルト修道院、距離は通常で二日。ここにあるもので、なんとかしのげるだろう。

 支度に取りかかろうと立ちあがると、エオルゼについてスペイギールも腰を上げようとした。


「ギール様、休んでいてください!」

「……大丈夫だ。動ける」


 そうは言うものの、スペイギールの顔色は悪い。強がっているのは明らかだ。

 鎮痛薬を煎じてやれれば少しは楽になるだろうが、あいにくその時間も残されていない。


「お願いです、無理はしないでください。わたしは今から水と食料を用意しますから、せめてそのあいだは横になって」


 疲労に澱んだ目が、隣に膝をついたエオルゼを見つめる。青紫色をしたくちびるには、くっきりと前歯の痕が残っていた。

 スペイギールは力無く項垂れると、こくりとうなずいて背を壁に凭れさせた。怪我をしていない方の肩を撫でると、険しかった目元から力が抜けた。

 スペイギールが自責の念に駆られているのは、エオルゼにも痛いほど伝わってくる。


(あんなにも必死に周囲を説得したのに。あんなにも今日を楽しみにしていたのに――)


 腹の底から湧いてくる真っ黒な感情に、エオルゼは拳を握りしめる。

 それでも、今は感情的になっている場合ではなかった。

 急いで棚から水袋やずた袋を人数分探し出し、支度に取りかかる。

 パンや干し肉、チーズなどを詰めていると、ラズウェーンが薬草を抱えて戻ってきた。種類ごとに分けて束ねられたそれらを受け取り、ずた袋に詰めこむ。


「戦況はどうですか」

「厳しいな。退路を断ったというのに統率が取れている。何か策があるのかもしれん」

「ダライアスとジャン=ジャックは?」

「跳ね橋を上げる前に逃げられた。まったく、わざわざ敵陣に乗りこんでくるとは」

「こちらの信用を得るための策だったのでしょう。調印に代理を立てては怪しいですから……」


 敵の城砦に二人して乗りこみ、奇襲をかけるなど、たいした胆力だ。

 普通なら身の危険を考慮して、もっと安全な計略を練る。だからこそ、こちらはまんまと罠にはまってしまったわけだが。


「ダシュナが見当たりませんが」

「馬を確保しに行かせている。すぐ戻る」

「では、彼の装備を」

「私が行こう。おまえはここにいなさい」


 装備を揃えたセインたちが戻ってくる。

 バルクはスペイギールの荷を置くと、ラズウェーンとともにふたたび出ていった。

 セインから自分の装備を受け取り、エオルゼは剣帯を腰に締めた。

 剣の重量が左半身にずっしりとかかる。慣れているはずなのに、初めて帯びたときよりもずっと重く感じる。

 それぞれ自分の装備を調えると、協力してスペイギールの支度を手伝った。

 しばらくすると、ラズウェーンやバルクとともにダシュナも戻ってくる。厨房へ入るなり、彼はチッと舌打ちをした。


「あいつら、大砲まで用意してやがった。すぐに出るぞ」

「大砲!?」

「クレンマー伯領から軍団が攻めてくる。夜のうちに林や丘の陰に隠れていたんだろう。あんなもの打ち込まれたら、ひとたまりもない」


 ダシュナは素早く剣を帯びると、行くぞ、と出立をうながした。

 バルクがスペイギールを担ぎ、二人の食料をラズウェーンとエオルゼで分けて持つ。

 厩舎では、支度を終えたカールステット侯爵が兵とともに待機していた。


「裏門から出ます。ゲルツハルトまでは馬を飛ばして丸一日。スペイギール様は、どなたかにご同乗ください」

「いい。自分で乗ります」


 バルクの肩から降りたスペイギールが強く拒む。


「無理はお身体に障ります。休憩を取る時間もありません。どうかお任せください」

「二人乗れば馬に負担もかかるし、足も鈍る。追っ手から逃れるのなら、一人で乗った方が断然有利なはずです」


 侯爵とラズウェーンが無言で視線を交わす。

 わずかに逡巡したようだったが、説得する時間が惜しいと考えたのか、二人とも反対はしなかった。


「わかりました。では、城砦から離れるまではお一人でお願いします。敵の姿が見えなくなりましたら、必ず誰かとご同乗ください」


 スペイギールも納得して、自分の馬の手綱を取った。

 気丈にはしているものの、無理をしているのは誰が見ても明らかだ。城砦から離れたらすぐに手綱を奪った方がいい。

 兵に先導されて裏門へ回る。

 クレンマー伯爵領からの援軍は、まだ城砦にまでは到っていない。国王軍に気づかれる前に、地平線の向こうに姿を暗まさなければならない。


「この城砦が落ちれば、我が領内へ敵の侵入を許してしまう。必ず援軍を出す。それまで持ち堪えよ。頼んだぞ」


 蒼い顔をした若い門番は、侯爵の命令に威勢よく敬礼した。

 恐怖か、あるいは武者震いか、掲げた右手がぶるぶると震えている。

 跳ね橋が下ろされ、門が開いた。エオルゼは見送る彼らの姿を視野から追い出し、前を見据えた。

 足元に落ちる影が伸びはじめている。日が沈むまで、あと四時間はあるだろうか。

 日が暮れるまでに追いつかれなければ、そのまま逃げ切れるだろう。日没までが勝負だ。


 空濠に架けられた橋へ、先頭の者から駆け出す。

 ご武運を――と、一行を鼓舞する門番の声が、追い風に乗って届いた。

 その声が爆音に消えた。

 耳を劈くほどの轟音。地が揺れ、恐怖に馬が嘶く。

 反射的に身を伏せたエオルゼは、すぐに我に返って暴れる馬を懸命に宥めた。軍馬なだけあり落ち着きを取り戻すのは早かったものの、ふたたびの轟音にまた制御を失う。


「――るな! 行け!」


 ドン、と馬の尻を蹴られた。驚いた馬が、エオルゼの指示なく平原を走り出す。

 振り落とされないように、エオルゼは慌てて手綱を握りなおした。風を切って駆ける馬を少しずつ宥めながら、馬首を東へ向ける。

 追ってきたダシュナが隣に並ぶ。どうやら彼の仕業だったらしい。

 乱暴なやり方だったが、エオルゼの馬が動転しているあいだに隊列から離脱しかけていたので、結果的には助かった。


(しっかりしないと――)


 エオルゼは自分の頬をぴしりと叩いた。先を駆ける鹿毛の馬を――鞍上の少年の背中を見据える。 

 城砦からは、大きな岩が転がり落ちるような音が聞こえていた。そしてそれを呑みこむほどの叫声と、焦げつくような砂埃の臭いがする。

 しかし、振り返ってはならない。エオルゼは前だけを見て、駆け続けなければならない。

 髪や頬をなぶる風は冷たく、火照った皮膚から熱をこそぎ落としていく。雑念を削られた身体の中心で、心臓だけが熱く燃えている。

 背後の戦場から届く仲間の声を振り切るように、一行は一散に馬を走らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る